仮想世界のウソの自分
驚いたミーナはシンジを突き飛ばした。突き飛ばされたシンジは腕がカップに当たり、コーヒーが机の上に飛び散った。
「ご、ごめん!」
ミーナは慌ててシンジに謝った。
「あ、いや、いきなりキスとか、僕のほうが悪かったよね……ごめん!」
シンジも慌てて、キッチンに白い麻の布巾を取りに行った。コーヒーがこぼれた机を急いで拭き、布巾を元の場所に戻した。この麻の布巾は元の棚に戻すと瞬時に乾き、汚れもすぐに消える。冒険者のホームには必ず置いてあるものだった。
「怒ってへんよ。あたし、別に怒ってない」
「え?」
「でも、もうやめとこ。これ以上はもう」
ミーナの言葉にシンジは寂しそうな顔で頷いた。ミーナの心がチクリと痛む。自業自得。自分のファーストキスをこんな形で失うなんて思ってもいなかった。仮想世界で、しかも、相手を傷つけるようなことになるなんて。自分はもう幸せになれない人間、なってはいけない人間のような気がしてきた。
「シンジ、今日は色々ありがと。あたし、自分の部屋に戻ってもうそろそろログアウトするよ」
シンジは少し黙ったあと、頑張って作った笑顔で「うん」と応えた。今度はミーナの胸がズキッと痛んだ。
「じゃあね」
ミーナはゆっくり手をシンジに振ったあと、逃げるようにして外に通じるドアへ向かおうとした。
「待って!」
シンジがミーナを呼び止めた。ミーナは足を止めた。でも、やっぱり無視して外のドアに手をかけようとした。
「待って、ミーナ」
ミーナは目をつぶった。このまま外に出るか、振り向いてシンジに返事をするか。
「どしたん?」
ミーナはドアから手を離し、振り向かずに言った。
「トマトケチャップって知ってる?」
「何それ。あのケチャップのこと?」
「いや。普通のインターネットブラウザじゃなく、特殊なインターネットブラウザのこと」
「それがどしたん?」
「いまのミーナに必要なものが、そこで手に入るかもって」
「どういうこと?」
ミーナはゆっくり振り返った。
「僕は知ってるよ。ホントはこの世界が壊れてしまったらいいなって、ミーナは思ってる」
「そんなこと、思ってへんよ」
「うそ。僕には分かる」
「みんなが楽しんでんのに。それにあたしやって」
「楽しめてない。心から」
「勝手な想像せんといてよ」
ミーナの声が低くなった。
「ミーナは僕が自分に似てるって言った。それは、現実世界の自分と仮想世界の自分に大きなギャップがあるんだ」
「……」
「そのギャップがどんどん大きくなって、現実世界の本当の自分が仮想世界のウソの自分によって食べられていく感覚。僕には分かる。僕も同じ。多分、同じ気持ちを持っているミーナを僕は好きになってしまったんだ」
「でも、こんなすごい世界、あたしなんかが壊せるわけないやん」
「できるよ、多分。トマトケチャップであるものを手に入れれば」
絶対壊せないと思っていたものが、もしかしたら壊せるかもしれないという思いが湧いたとき、ミーナは暗闇の世界に一筋の光がさしたような気がした。
「せやけど、自分ひとりの欲望を満たすために大勢の人に迷惑かけるとかありえへんやん」
自分の言葉に一筋の光が薄く、小さくなっていく。
「ミーナはこの仮想世界ができたことで、多くの人が職を失ってしまった事実を知ってる?」
「それは、ネットニュースとかで。せやけど、そんなんちょっとしか書かれてへんかったよ。それよりも、耳聞こえへんかった子が仮想世界で耳聞こえるようになったとか、病院で寝たきりの人らが仮想世界で元気に働いて入院代稼いでるとか、そういう記事がいっぱい書いてあった」
「どの記事を大げさにするとか、そういうのはお金でなんとでもなる。メディアの世界は生きていく上で、ウソや誇張がどうしても必要になってくる。お金儲け主義とか、そういう輩もいるんだろうけど、だいたいの人たちは生活がかかってるからね」
「料理人とかは現実世界でうん千万かけて自分のお店を作るより、仮想世界ならかなり安く自分のお店が持てて、しかも食材調達にもほとんどお金がかからないから、遥かにリスクを下げることができるとかも、テレビでやってたで」
「そうやって、プラスの面ばかりフォーカスされてるけど、深刻なのは、表よりも裏だよ。表に出てこない世界で生きている人たちには深刻なダメージを与えたんだ。例えば水商売、それにドラッグ売買」
「アダルトコンテンツか……。ちなみにドラッグって? 仮想世界であっても、そういうものって手に入らないんじゃ」
「一般人には手に届かないところにあるよ。でもね、トマトケチャップで手に入る情報に、薬物中毒者に対して治癒目的で実験的に仮想世界で仮想の薬物を摂取させているというのがあった。しかも、現実世界のどの薬よりもキくらしくて、薬物愛好家たちはもう現実世界で薬を買わなくてもいいんじゃないかって話が広がってるらしい」
「それはむしろ、良いことのように聞こえるけど」