トマトケチャップ
ノートパソコンの電源を入れる。刺すような光を感じて、沙也夏は目を細めた。静寂に包まれた部屋の中にパソコンの忙しい処理音だけが響いている。
沙也夏はOSが立ち上がったことを確認して、インターネットブラウザからなじみのサイトで“トマトケチャップ 野菜の王様”と打ち込み、検索をかけた。
検索結果を上から順番に確認する。上から四番目あたりに“ヘタの処理について”というキーワードを見つけ、そのサイトを開いた。
トマトケチャップの作り方が記載されたそのサイトの一番下にスクロールした沙也夏は、ページ一番左下にマウスのカーソルを合わせた。沙也夏がカーソルを合わせたその場所には何も記載されてはいない。ただの空白部分。それなのにカーソルは矢印から指差しに変わった。
沙也夏は一度ゆっくりまばたきをしてから、マウスをクリックした。少し処理音がしたあと、“トマトケチャップをダウンロードしますか?”というウィンドウがポップアップした。沙也夏が“はい”と記載されたボタンをクリックすると、パーセンテージが記載された青いバーが左から一気に満タンとなり、100%の文字が表示されたあとすぐに、“ダウンロード完了”の文字が表示された。
沙也夏は開かれたウィンドウをすべて閉じ、デスクトップに現れたexeファイルをダブルクリックした。
立ち上がってきたウィザードは何も難しいことはなく、沙也夏はただ“次へ”ボタンを押して“トマトケチャップ”のインストールを完了させた。
デスクトップに現れた赤いボトルのアイコン。沙也夏がそれをダブルクリックすると、ノートパソコンは唸るように処理音を高めた。トマトケチャップは自分が使っているノートパソコンから直接行きたいサーバにアクセスはしない。行きたいサーバは足がつかないように数時間毎にインターネット上で論理的な場所を変更する。沙也夏のノートパソコンも海外に散りばめられたいくつものプロキシサーバなるサーバを経由して、目的のサーバへと到達した。沙也夏は自分のノートパソコンがどのようにして目的のサーバに到達したかは知らないが、たどり着いたサーバで何が手に入るのかは知っていた。
シンジは自分の部屋に来てくれたミーナにくつろいでもらおうと、コーヒーを淹れ始めた。
「急にどうしたの? 僕の部屋なんかに来てくれるなんて」
レベル七十一の闇魔法使いであるシンジは初級の炎魔法を右手に宿らせ、陶器製のポットを温めた。
「んー。なんか、気分転換したくなったていうか」
ミーナは木製のチェアに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。
「こっちかリアルで何かあった?」
1LDKの部屋は割と広い。かなり明るめの茶髪はクセが強め。背もミーナより低い童顔の闇魔法使いはミーナを遠くからのぞき込んだ。
「別に、何もあれへんよ」
シンジは小さくため息をついて、コーヒーをミーナの前にある机の上に置いた。
シンジは「この花柄のカップかわいいね」と言っているミーナを今度は、ジロッとにらんだ。
「えーっと」
ミーナの目が泳いだ。
「何かあった?」
シンジがもう一度訊く。
「……」
「まあ、言いたくないことは言わなくていいよ」
シンジは、視線を自分用に淹れたコーヒーに向けた。
「フラレた」
「どっちで?」
「リアルで」
「そっか」
シンジはコーヒーを少しだけ口に含んだあと、透き通るような肌色の小さな手でミーナの背中をさすった。
「まあ、分かってたけどね、フラレるって」
「僕は複雑だな。ミーナに幸せになって欲しい気持ちと、できたら僕と幸せになってほしいなって気持ちが。何だろね」
シンジはコーヒーカップを持って、ミーナの隣にある木製のチェアに腰掛けた。
「シンジはほんと、ストレートに自分の気持ちを伝えてくるよね。誰かさんに似てる」
「レンか?」
ミーナはゆっくりとうなづいた。
それを見たシンジは大きく鼻で笑ったあと、「全然似てないし」と苦笑いした。
「僕とあいつは違う。僕には分かる」
「どのへんが?」
「どうせリアルのあいつは僕の欲しいものを持ってる」
「欲しいものって?」
「……」
シンジは黙って遠くを見つめた。
「あ、ゴメン」
ミーナは訊いていけないことを訊いてしまった気がして、コーヒーとともにさっきの質問を飲み込んだ。