大池沙也夏
コンコン。母親が部屋のドアをノックした。
「今日も夜ご飯は部屋で食べるの?」
しばらく沈黙があったあと、部屋の中から沙也夏のかすれた声が返ってきた。
「ごめん、お願い」
母親は“いつまでこんなことしているの”と娘を問い詰めたい気持ちをぐっとこらえた。夫との話し合いで、沙也夏は頑張り屋だから、元気になるまであいつの好きにさせてやろうということにはなった。でも、このまま引きこもりになりはしないか、心配になってきていた。
母親は沙也夏に聞こえないぐらいの小さなため息を吐き、ドアの前をあとにした。
沙也夏は部屋のカーテンを締め切り、電気もつけずにベッドで横になっていた。いつもなら丁寧に解かされて後ろに括られた黒い髪は、何の統制も無くむやみにシーツの上に乱れていた。大きな瞳に光は宿っておらず、淡い桃色の唇にはまだかさぶたになりきれていない血が薄く滲んでいた。
机に飾られた手のひらサイズのサボテンを見て、「ごめんね」とつぶやく。ショッピングモールでかわいいと思って衝動的に買ったサボテン。お手入れは簡単というから、ずぼらな自分でも大丈夫と思っていたが、もう何ヶ月も水をあげていない。今後、部屋の中で生き物を置くのは止めようと沙也夏は思った。サボテンにさえ、定期的に水を上げない自分が最低に思えてくる。些細なことで、また身体がベッドに沈んでいく感覚を憶える。
言わなきゃ、後悔する。誰がそんなことを言ったんだろうと沙也夏は思った。開けちゃいけない箱を開けてしまったことで、沙也夏は心の支えを失ってしまった。立てなくなってしまった。立ち向かえなくなってしまった。また沙也夏は唇を強く噛む。胸に抱えた痛みに比べれば、唇の痛みなんて痛みとは言えなかった。
頑張って生きてきた。人より多分何倍も。しかし彼女はそう思い込んでいただけなのかもしれない。
―――自分は大して頑張ってこなかったんだ、きっと。何ヶ月もサボテンに水をやらないあたしが本当の自分。いや、そうじゃない。頑張ったところで自分みたいな不出来な人間は、この程度なんだ。現実のあたしを誰も見てくれないんだ。親であっても。
とっくに枯れたと思っていたものが、また沙也夏の目からこぼれた。
沙也夏はベッドの隣の棚にあるものに、白くて柔かな手を伸ばした。真っ黒なヘッドギア。それを引っ張り出して枕元に置いた。
当初、沙也夏は別にこんなものは欲しくなかった。母親からプレゼントされて、両親もひとりづつ購入して、母親に背中を押されて仮想世界のショッピングモールに三人で訪れた。
ゆっくり歩いてみてとか、ちょっと走ってみてとか両親は沙也夏に何度もお願いした。沙也夏もそれを断ることなく、そこがショッピングモールだと分かっていても、小さな子どもみたいにはしゃいでみせた。
自由に動く左足。彼女が生まれて初めて知った感覚。その感覚が彼女を高揚させた。そんな沙也夏の姿をみて、両親はいままで見せたことのない笑顔を彼女に見せた。いや、見せてしまった。無意識のうちに。沙也夏自身もその笑顔に初めは喜んでいた。
沙也夏は学校でウソついた。発売してすぐにヘッドギアを買ってもらったとかミーハーみたいに思われるのが嫌だった。それから、見栄が重ね始めた。
―――仮想世界よりもあたしは現実のほうが大切だから。
そういう思いを周りに伝えた。
堕ちていく感覚。本当の自分はヘッドギアを毎日かぶる子なのに、学校では別の人間を演じる。若さなのか、彼女は気持ちの不安定さを感じるようになった。若さなのか、その不安定さによって逆に琴平涼という好きな人がさらに好きになる原因になった。
沙也夏は枕元に置いたヘッドギアの側面を指でなぞる。指はヘッドギアの端から落ちて、ベッドの上に柔らかく受け止められる。沙也夏は意味もなくその行動を繰り返した。
―――戻れるのなら、あの日々に戻りたい。ヘッドギアを知らなかったあの日々に。
また急に締め付けられる気がして、沙也夏は両手で胸を押さえた。
沙也夏は目を開けた。外はすっかり日が落ち、電気をつけていない部屋は暗闇におおわれていた。ゆっくりヘッドギアを外し、上体を起こす。右手の人差し指で自分の唇に触れる。さっき仮想世界でしたキスは本物なんだろかと考える。脚を抱き締めて、膝に顔をうずめる。小さく、フー、と息を吐き出してみる。
沙也夏はベッドからおりて左足を引きずりながら自分のデスクまで歩き、座りながらノートパソコンを手探りで引っ張り出した。