プロローグ
歌うことが好きだった。
何物でもない私が、誰かの姿を写すことが出来るから。
レンズ越しに見える世界には映されたそのものしかなく、私にとってのレンズは安っぽくてボーカルが抜かれたインストゥルメンタルだった。
歌うことが好きだった。
ただそこには、私一人しか存在しなかったから。
誰にも聞かれない、六畳程度の部屋の中で響く音でもそれは世界のすべてに満ちていて、決して虚しい叫びではなかったから。
好きだったから、ただ歌っていた。
歌う以外にすることがなかった。うまくはなかったけれど、きれいではなかったけれど。
成り代わった姿はうまい気がした、美しい気がした。私ではない素晴らしさを、フチだけでもなぞれられたらと。届かない存在に少しでも近づけられたらと。
生まれついた才能もない、血のにじむ努力もできない、引き寄せるような運もない、そんな私に、唯一許された小さな部屋。ネオンのようにうるさく光る機械と、表面のはがれたイス、あと汚れた机だけがあって、千円程度しか価値のない部屋。そこで、私は救われていたのだ。
いつものようにあの時私は、床に就いてスマートフォンを眺めていた。次に救われるための糧を探して、波に乗るかのごとく情報の流れを割いて。新しいアーティストを見つけては再生ボタンを押し、唾を吐いてタスクを切るだけの時間だったが、その日は違った。
その時に流れた声は、歌は、その音楽は。
私は変わらず、曲が終わってすぐそれを否定し見るのを止める。だが意識しないうちに顔に腕を乗せていた。目を覆うように、ひりつくような熱を奪うために。ただその時、天井に向かって吐いた唾が、私の頬を伝って流れ落ちていた。
醜い涙だった。私を写さないレンズへの怒りであり、虚しさへの認知であり、救いではなく諦めだと悟らされたのだ。なぞるしかない私とは違い、己を通す彼女に。そこには才能も、努力も、きっと運もあって、すべてを否定された気分になったから。
それでも私は彼女に惹かれた。彼女の声を知って、歌をすべて聞いて、彼女の音楽を得て。そしてなぞるどころか、近づくこともできないとも気付いた。
それはただ老いるだけの私と、日々大きく歩を進む十四の彼女なのだから明白だった。
手を伸ばして見た先にある天井など、届くはずがないのだから。
だから私は、彼女が射した光のほうへと進みたい。届かないとして、彼女の輪郭に触れることすらできないとしても、進むのが私の声ではないとしても。
生み出すことが、得たものの対価だと、彼女への礼になると、そう信じたいから。
歌うことが、好きになりたいから。
これが私の、プロローグ。