神木メタセコイア
人間界……。
空が青く、太陽がまぶしい。ここも魔界のクリスタルゲイトと同じく二つの滝が互いに向き合っている山岳地帯の光景であることは変わりがないのだが、生い茂る緑と色とりどりの花の色は、魔界のそれに比べてもはるかに壮麗であった。
なお、ここはこのクリスタルゲイトが存在しているため、人間と魔族との戦いの最前線だったところだ。つまり、つい最近まで剣の音と魔法の光が死体の上を飛び交う凄惨な現場だったのだが、たった一年で自然はその姿を取り戻し、何もなかったかの如く太陽に照らされている。
それはともかく……。
「わぁぁぁい!!」
どこにそれほどの体力があるのだと思うほどに軽快に走る魔王様(♀)は、ちょっと盛り上がったところや、段になっているところは欠かさず上り下りをして飛び回っている。
高い丘陵を一気に駆け上った時、魔王様(♀)は振り返って言った。
「で、ツリーの木はどこにあるのじゃ?」
「知らないで今までどこに向かっていたというのです!!!」
もう数キロは歩いている。あまりの歩調の軽快さに、場所のメドはついているものだと錯覚していた私は、どうしてそんな甘い観測をしていたのかと、軽い自己嫌悪に陥った。
「ホントに知らないで進んでおられたんですか!?」
「知っておるわけなかろう! わらわは人間界は初めてじゃ!」
「じゃあ勝手に何キロも走っていかないでくださいぃ!!!」
「公園のようじゃったからな! そりゃ遊ぶわ!」
「魔王様(♀)は他にやることがあるんでしょう?」
「だからツリーの木はどこじゃと聞いておるのじゃ!」
「ツリーの木では意味が通りませぬ!」
「よいのじゃ! 難しいことは分からんからな!!」
「……」
とはいえ、こんなことを魔王様(♀)相手にもめても何の意味もない。私は口をつぐみ、見通しのあまりよろしくない北を指差した。
「この丘陵を越えて海伝いに往くと、クレト大平原というところに出ます。その平原のほぼ中央にただ一基そびえている巨木がメタセコイアでございます」
「くわしいのぅ」
「去年まで人間界に侵出してましたからね」
だから言えることがある。
「メタセコイアは人間にとっての神木です。崇拝する民草があれを取り囲むように街を作り、堅く護っております」
「なんと……」
「だから、ちょっと見たらすぐ帰りましょうね」
「飾りつけはどうするのじゃ」
「無理です」
「え……」
「あれを魔王様(♀)の自由にしたいのなら、衝突は避けられませんよ?」
「そんなこと、言ってなかったではないか!!」
「言ったら聞いてくれましたか?」
「聞かぬ」
「ということで、道中にでも聞かせればいいかなと思いました」
実は……、
さっきも言ったが、私はそういいながら一つ思惑がある。
目的のために手段を選ばず、人間界において反抗の狼煙を上げてくれる魔王の姿……。それこそは、魔族すべてが思い描く悲願である。
ひょっとすれば、メタセコイアをきっかけに魔王様(♀)は目覚めるかもしれない。人間が大切にしている神木を奪うことを望んでくれれば、あるいは魔王の座に返り咲いて、一軍を率いてくれるかもしれないじゃないか。
だから黙って連れてきた。そして、彼女のほしいものを見せるだけ見せて、手の届かぬじれったさを煽ろうとしている。
「人間が怖ければ、こそこそと掠め見て帰ったほうがいいです」
「……」
それらの言葉が彼女の琴線に触れてくれればと、私は言葉を選ぶ。子供というものは天邪鬼だから、この際それは有効な手段なのではないかと……。
魔王様(♀)、さっきとは打って変わって静かに、しかしメタセコイアのほうへ向けて歩き出した。
メタセコイアの存在する地域は、それより向こうに守るべき国があるわけではないため、軍事拠点としてはほぼ価値のない場所だ。
が、先の戦争ではここが激戦地の一つとなった。
理由は、人間の信仰の象徴であるメタセコイアを切り倒し、彼らの士気を大いに減衰させるため。……魔界へ繋がるクリスタルゲイトが近いことも手伝い、魔軍はここに多くの勢力を割いた。
……しかし結果はといえば、"メタセコイアがいまだ存在している"ということがすべてを物語っている。
この地には戦争時、メタセコイアの信仰が世界的に根強いことを裏づけするような潤沢な資金と精鋭たちが流れ込んでいた。後に先代魔王様を滅ぼした勇者輝彦に同行した、聖騎士マーモスと聖女ファリスもこの地を長く寝床にしたほどで、クリスタルゲイトに程近い地域であるにもかかわらず、我々魔軍の猛攻に屈することはなかった。
……そういう土地だ。
人間にとって脅威が去った今、あれほど住みにくい地域にどの程度の勢力が残っているのかはわからない。が、どのような状態になっていても、難攻不落で知られたかの地をもし魔族の爪甲がえぐれば、魔族と人間の歴史はまた新たな一歩を歩むだろう。
そのためのきっかけとして、魔王様(♀)のキマグレには、一定の期待が持てる。
「おおっ」
先を進む魔王様(♀)はある一点を見つめて感嘆の声を上げた。
「あの木か?」
空の色を反射して蒼く色づいたそれはまるで山のようだが、茂る葉の、風にさらさら揺れる様は遠く離れても感じられた。
ちなみにもみの木ではない。が、魔王様(♀)は気にしないし、私もその辺はツッコまない。何の木でもいいのだ。
「あーー、しかし残念ですねー。人間がいるばっかりに魔王様(♀)はあの木に触れることも叶いません」
「何を言うか! こうなればわらわの力を見せ付けてやろうぞ!」
「よく申されました!! いっそのこと、この距離から人間を亡き者にしてしまえば、魔王様(♀)も人間と会わずにすむのでは!?」
「お主の胃袋は節穴か! メタセコイアまで吹っ飛ぶわ!」
「そ、それほどの威力ですか……?」
「当然じゃ」
魔王様(♀)はおもむろに左を向くと、遠くに連なる山脈を指差した。途端、大地が大きく揺れる。
「ええええええ!!!!!」
それだけで、山脈の一角が、大瓦解してしまったのである。
後に残るのは、まるで巨大生物が三角に切られたスイカにかぶりついたように円状にくりぬかれた山と、今まで見えなかった向こうの空の風景のみだ。
「今ので、本気の半分の半分の半分の半分じゃ」
「マジっすかぁぁぁぁ!!!!!」
これは、まさかひょっとして……
私の半ば停止した思考に、霧吹きをされたような希望がしっとりと上塗りされていく。
ひょっとしたら、聖騎士マーモス、聖女ファリスに加え、勇者輝彦が集落に駐在していたとしても楽勝なのではないだろうか。
そう思えば恐れるものは何もないのではないか。
もしかしたら、うまいことけしかけるだけで魔族の悲願を果たせるんじゃないか?
とりあえず私は、相変わらず黙ってついていく。
状況を見極めないとなんとも言えないが、ロジックの組み立て方によっては、魔王様(♀)のこの行幸だけで絶大な戦果を持ち帰ることができるかもしれないと思い始めた。
やがて街に入り、人の往来にビビる魔王様(♀)をだっこして進む。まさか私の肩の辺りで、不安そうに身を寄せている子供が隠居魔王とは思いもよるまい。
途中、何度か巡回風の騎士とすれ違うが、まったく怪しまれないどころか、魔王様(♀)の方を向いて、何とか気を引こうとする者までいる。
もっとも、彼女はそのたびに顔をわたしの首筋にうずめてしまう。
「山を一声で粉砕できる方とは思えませんな……」
「話しかけるでない……!」
相変わらずいないフリのようだが、
「何か食べますか?」
「こやらのマーチ」
「はいはい」
こういう問いにはしっかり顔を上げて答えてくるところは微笑ましい。
……ところで、メタセコイアは正確には街の中にはない。街を越えて、さらに北西へ。
これは、神木メタセコイアの根の成長を邪魔しないように、近隣には一切の障害物も置かないという理由かららしい。人間の徹底ぶりには恐れ入る。
そのため、木の周辺は見渡す限りの大平原である。どうもこの平原自体、普段は立ち入り禁止のようだが、まずは咎められない程度にさりげなく監視をやり過ごしながら、かなり歩いてようやくメタセコイアのふもとまでやってきた。
「わぁぁ……」
人も消え、目の前に巨大な木の風景が広がると、魔王様(♀)は再度感動している。
「飾り甲斐がありそうじゃのぅ……」
「いっそのこと飾ってしまってはどうですか?」
「え、よいのか?」
あれほどの力があるのなら、それだけで魔族一軍を率いてきたのに匹敵するだろう。心配の必要もない。
「我慢はストレスの元になります」
「やったぁ!!」
魔王様(♀)は飛び跳ねて喜ぶ。
「雪も降らせてよいか!?」
「ご随意に」
「よし!」
小さな唇が文を詠唱する。一面青い空だった風景はみるみるうちに白い雲を帯び、ちらちらと光る氷の結晶を降らせ始めた。
「魔王様(♀)。すごいですね……」
真夏こそ過ぎたとはいえ雪の季節には程遠い。雪が降る条件を整えるのは簡単ではなく、それを人工的に行うとなれば人智を超えた魔力が必要になる。今、彼女は、少なくとも数十キロ分の気圧配置を一瞬で変えたわけで、その後も広範囲な魔力運用を維持しなければならないことを考えれば、とてもじゃないが一介の魔族にできるような芸当ではなかった。
「絵本のような風景になるまでどれくらいかかるかの……」
「季節が季節ですからね。多少は時間もかかるかもしれませんが……」
明日の朝までこの勢いなら、間違いなく積もるだろう。
「あとは……」
この異変を、人間たちはどう見るか……だ。
なんの見識もなければただの異常気象だが、見る人間が見ればこれが魔力による気圧の変化だということはわかるはずだ。
そして、もっとわかる人間なら……。