魔神・彌胴(びどう)
見渡す限りの荒野。灰色の大地に、黄土色の空と黒い雲が立ち込める。……彌洞が封印されているところは、そのような不毛の土地だ。
『魔界の果て』と言われ、何か特殊な磁場でもあるのか、何の生命も生きられない場所であり、魔族、モンスター問わず、彌洞が封印されてより数百年……まともに生物がここにさしかかった痕跡もない。
一角に、千メートル級の山が一つすっぽり入ってしまいそうな巨大な魔法陣が描かれている。魔王様(♀)と私の姿がその一端に影を落としたのは、あの会話から数日後のことだった。
「本当に二人で大丈夫ですか?」
護衛もつけずに彌洞と会うなど正気の沙汰ではない。いや、護衛に確かな軍容を揃えたとしても、あの魔龍相手には足りないことも間違いなく、実際はそのような問答自体が無駄ではある。
しかしその上で「大丈夫ですか?」と聞いてしまうほど、目の前の魔法陣から発せられている妖気は半端ない。
もっとも魔王様(♀)は、それに気づいているのかいないのか、まったく緊張した様子もなく、
「言葉がわかる連中はガチャガチャうるさいだけじゃろが。わからんモンスターどもは連れてくるのもめんどくさい」
「しかし……」
「いいから早よ呼び出せ」
「大丈夫でございますか? ほんとに……」
「人型じゃなければ怖くない。早くしろ。わらわは早く帰って『マドーさんと一緒』が見たいのじゃ」
「すでに録画してありますから、明日でも見られます」
「明日見られるかじゃない、今見たいのじゃ!!」
何なら今ここで見たいのじゃ!!……くらいの剣幕で言われると、もはや黙るしかない。私は先代魔王様が封印の時に使った魔道書を取り出し、ぱらぱらをページをめくった。
封印と解印というのは、対の関係にある。それがどれだけ大規模でも、封印の手順と真逆の手順で魔法陣に働きかければ、封印は解かれる仕組みとなっている。
それを一つ一つ、慎重に慎重に……。私は心臓を高鳴らせながら事を進めてゆく。
これほど巨大な封印ともなると手順は膨大だ。しかもこの手の大型封印は、意図せぬ解印から封印を防衛するため、いくつもの防御システムが働く仕組みとなっている。手順を少しでも間違えば、死ぬことよりも恐ろしい呪いが、永久に拷問を強要されるような形でのしかかってくるのだ。
しかし、私も魔王様(♀)の召使いを、先代魔王様より仰せつかった者だ。……解印に限らず、少々複雑な作業を申し付けられた程度で音を上げるような無能ではない。
私は慎重に……しかし手早く、解印の儀式を執り行い、関門を突破していった。
「……って、魔王様(♀)、寝てんじゃないですかぁぁ!!!」
手早くとはいえ時間がかかる中で、気がつけば魔王様(♀)は安らかな寝息を立てているではないか。
子供というのは、本当に自由なものだ。
一時間ほどして目覚めた魔王様(♀)。気力も体力も完全回復して元気いっぱいである。
「早くせんか!!」
を繰り返し、五秒と開けずに「まだか」を連呼している。相当暇なのだろう。幼児だからということもあるだろうが、その横暴さ加減はある意味魔王らしい。というか、魔界の王があまり仁君でも調子狂ってしまう。ある意味で頼もしいともいえるか。
……そんなプレッシャーに耐えながら、とにかく私は作業を続けた。
しかし……最後のページ……いや、これは封印書であり、解印のために終わりのページから見ていったから、最初のページにあたるのだが……が、破られ、紛失していることを知り、唖然とする。
「どうしたのじゃ」
「いや……じつは……」
正直にその旨を告げると、
「呼び出せないということか?」
「……恐らく、先代魔王様が、彌洞の復活をもくろむ者にこの魔道書が奪われても、その野望を阻止できるよう、対処したものだと思われます」
「愚かなパパじゃ!!」
「いえ、賢明な判断だと思います」
「それではわらわが隠居できんではないか!!」
「そっちですか!!」
「せっかく丸投げできるやつを見つけられたというのに!」
「いや、ですから、隠居とか、ぶっちゃけマジでやめてくれませんか?」
「いやじゃ!! 隠居して、浮き輪で、海で、ばちゃばちゃするんじゃ!!」
「そんなことなら現役でもさせてあげます!!」
「わらわはそんなことがしたいから隠居するのではないわ!!!」
「今、自分で言ったんじゃないですかぁぁ!!!」
「うう……ああ言えばこう言いおって……」
「そろそろ観念してください。魔族の王はやはり魔王様(♀)しかいないのです」
「むぅぅ……」
口げんかで勝てないと踏むと、魔王様(♀)は恨めしそうに魔法陣のほうへ目をやった。
「こんなの……後何か一つやればいいんじゃろ?」
「え? ちょ……ちょっと……!!」
「でてこーーい!!!」
彼女はおもむろに右手を開く。それがまがまがしい形に止まった時、彼女の大量の魔力が可視光線となって魔法陣に降り注いだ。
「わぁぁぁ!!! やめてくださいーーーー!!! そんなことをしたら呪いが!!」
言い終わるのを待たず、魔法陣に立ち込めていく黒い瘴気。それは突如起きた上昇気流に乗って螺旋を描き、巨大なヘビのようになって二人に襲い掛かった。
「くっ……!」
私の左手は瞬間、ありったけの速度で文を描き、結界を場に散らしていた。すべてに抗う空気のうねりが、円状の防御陣となって形成される。
が、大黒蛇はそれを物ともせずに突き破り迫る!
「うわぁぁぁぁ!!!!」
思わず上がる私の悲鳴は空しく荒野に響いたが、それに続く魔王様(♀)の悲鳴はない。
「××××××××……」
声にならない声が彼女の口元で一瞬揺れる。それと同時にまばゆい閃光が八方に拡散し、黒い霧も結界もすべて飲み込んで消えた。
再び無に戻る荒野。寂寥感すら感じる静寂の中で、少しの間を置いて魔王様(♀)は、ぽつり、呟いた。
「ひょっとして今のが彌洞か?」
「い……いえ……」
「それはよかった。あの程度でぶっ飛んでしまったと思ってびっくりしたわ」
「あ……あの……」
この幼児が"あの程度"と言った呪い。アレは決して"あの程度"で済まされる代物ではない。
私もパニクってつい結界を張ってしまったが、本来、今襲い掛かった呪いは、何かの力で受け止められる類ではないのだ。太陽に当たって紫外線に当たらないことはできないように、物理的に不可避のものであったはずなのに……。
「魔王様(♀)……今、貴女様はとんでもないことをやり遂げたのですよ?」
「当然じゃ! わらわは飛んだわけじゃないからな!」
「"とんでもない"は『飛んでもいない』という意味ではありませぬ!!」
しかし、私のツッコミは目の前の魔法陣の大きな変化にかき消された。空気が、山のように大きくせり上がってゆく。
「うわ!!!」
それはまるで一瞬で形成された入道雲のようにもうもうと聳え立ち、やがて一頭の巨大な獣を形成した。
「うわぁぁぁぁ!!!」
私は気が気ではない。もともと呼び出そうとしたのだから慌てる必要などないはずなのに、それでも全身の震えが止まらないほどの圧倒的な魔力が辺りを圧迫すれば、そのような心の準備など何の役にも立たなかった。
目の前で組みあがっていく生命は、若き日の先代魔王様でも手を焼いた伝説の魔神なのだ。
その力は確かに勇者輝彦を凌駕するだろう。しかしこれほどの力、御すことなど本当にできるのか。
「フゥゥゥゥゥゥゥゥ……」
魔神が軽く息を吐けば、それだけで大地が揺れるかのようだ。
「封印を解いたのは貴様か」
彌洞はすでに我々を見つけている。その目は白く光り、気の弱いものでなくても、目を合わせればそれだけで魂を握りつぶされてしまいそうだ。
「お主が彌洞か」
「……」
しかし、横目に映る魔王様(♀)は堂々としたものである。
「(怖くないのですか?)」
小声で耳打ちをすれば、魔王様(♀)は振り向き、言った。
「だからぁ、わらわは象とかキリンとかは怖くないというに……」
「(いやいや、象よりもはるかに大きいですが……)」
「象はいくら大きくたって象なのじゃ」
「(いやいや、そもそも龍ですが……)」
「じゃあお主に聞くが、鉛筆は怖いか?」
「え? いえ……」
なんだろうその質問は。鉛筆……?
素っ頓狂な質問に、素っ頓狂な声を上げる私。しかし魔王様(♀)の中では素っ頓狂でのなんでもないらしい。
「普通の鉛筆が怖くないのに、鉛筆が山のように大きいと怖いのか?」
「へ?」
「怖いか? 鉛筆。めちゃめちゃでっかいのが転がってたら」
「……いえ……」
「それと同じじゃ。龍も象も鉛筆みたいなものよ」
「……」
……軽く意味がわからないが、どうやら魔王様(♀)の思考回路の中では鉛筆も龍も同じ分類らしい。