*8* 秋バラのポプリ。
「……ラ……ベラ――イザベラ?」
不意にすぐ近くの誰かから声をかけられ、私は自分が一瞬今月始めに届いた小物と、それに添えられていたカードの一文を思い出して意識を飛ばしていたのだと気付く。
「え………あぁ、何のお話だったかしら? あなたが手玉に取った騎士団長のご子息が大したことのない脳筋だったとか、宰相のご子息がとんでもない性癖の持ち主だったとか――」
「はい、全然違いまーす。どうせ聞いてなかったならそう言ってくれた方が説明しやすいよ……」
眉間を押さえて溜息をつく仕草は男爵令嬢と言うよりも、領内の私達と同じ年頃の村娘と言った方が良いわ。けれど気品に欠けるその仕草の方が、以前の必死だった彼女よりはマシかしら。
彼女の声に意識を傾けた途端、今まで全く聞こえてこなかった周囲の人や物の音が耳に戻ってきた。
そしてここが学園内の学生用カフェ・テリアで、一緒に昼食をとろうとしている目の前の相手が以前“話し合い”の場を設けてから何故か付きまとうようになった男爵令嬢のアリス・ダントン嬢だったと認識する。
彼女は某男爵が愛人の子をその器量と魔法の才から養子に迎えた才女で、一見すると全体的に小柄な、殿方の庇護欲をくすぐる姿。アーモンド型の紫色の瞳と、ダークブラウンの癖のない髪を肩の辺りで切りそろえている。
中身は田舎貴族の私よりも逞しい……良いところが下町のレディだけれど、猫を被る努力は認めて差し上げましょうか。
「もう、ここ最近ずっとそんな風に上の空だったからどうかしたの? って聞いてたの。イザベラには色々、もう本当に迷惑かけちゃったから……わたしで出来ることなら何でも手伝うよ」
その言葉に瞬きを二・三回繰り返して目の前のアリスを眺めていると、今度は反対側から呆れたような声がその会話を引き継いだ。
「ちょっと、アナタ達もう少しそちらにずれて頂戴。それとそちらのアナタ……アリスさんだったわね。今はイザベラさんに何を言っても駄目よ。何でも田舎の婚約者から毎週届けられていた花が届かないとかで……そうでしたわよね?」
そしてもう一人は『お一人で出歩くのが怖いようでしたら、私がそちらまで出向いて差し上げましょうか?』と適当にあしらったところ、程なくしてこんな風に一人で現れるようになった第二王子の婚約者であるメリッサ・カルデア様。
燃えるような赤い髪をふんわりとした縦ロールにしている。きつめの緑色の瞳と相まって凄みのある美女なのだけれど……何故だかダリウスには絶対に会わせたくないと思ってしまう方だわ。
その以前まで私にとって何でもなかった二人が、さも当然のように昼食の載ったトレイを私のトレイの横に置いて席に着くのは不思議な心持ちね……。
「えぇ、確かにその通りですけれど――メリッサ様はどこでそのようなことをお耳に?」
何となく面白くなくて手にした扇をパチパチと開閉させていると、メリッサ様は「わたくしの情報網を甘く見ないことね」と唇を釣り上げて妖艶に笑んだ。
その表情は同性の私から見ても充分に魅力的で、大抵の男性ならその微笑みを向けられただけで舞い上がってしまうでしょうに――……アルバート様はこんなメリッサ様のどこが駄目なのかしら。
「けれど花は届かなくても、今持ち歩いてらっしゃるバラのポプリとカードは届いたのでしょう?」
疑問系にも関わらず確信めいた言葉に頷くけれど――……きっとこういう詮索好きなところが男性を逃げ腰にさせるのではと思わせた。恐らく無意識なのでしょうけれど、私も気を付けないといけないわね。
「ちょっとアナタ今、失礼なことを考えたのではなくて?」
勘の鋭いことにピクリと柳眉を釣り上げたメリッサ様に私は涼しい顔で「いいえ、とんでもございませんわ」と扇で顔を隠す。メリッサ様の隣にいたアリスが少しだけ笑うけれど、何ですの?
「……正直、わたくしはアナタが羨ましいですわね。そんなことで不安になれるほど婚約者と仲がよろしくて。でもわたくしがここにいることで、一つ分面倒なことが減るのですから、感謝なさい」
「あら、流石アルバート様の婚約者様は発言に余裕がありますのね?」
「そうよ……と、言いたいところですけれど、少し違いますわ。アルバート様は”つまらない女”のわたくしがお嫌いなのです。けれど無碍にすれば各方面に角が立つ。嫌いでも最終的に避けられない女なんて誰でも嫌でしょうね。ですから、わたくしがこうしてアナタの傍にいる間は近付いていらっしゃらないでしょう?」
“そんなこと”呼ばわりされたことへの意趣返しに私が放った言葉に、どこか投げやりで自虐的に――それでも熟れたチェリーのような赤い唇でそう妖艶にメリッサ様は微笑む。
「あぁ、その甘い香りはバラのポプリのせいだったんだ。でもそれだったらそこまで心配しないで良いんじゃないの?」
おかしな空気が流れた私とメリッサ様の間に挟まれたアリスが、慌てて話の修正に入ってくれて助かった。
「えぇ、わたくしも同感ですわね。男性は気持ちが離れると贈り物もカードもぱったり止めてしまうものだわ」
目の前で人の気も知らない二人が暢気に昼食を食べ始めたことに若干の苛立ちを感じつつ、私への嫌疑が晴れた以上、実質この二人は第二王子を奪い合うライバル関係なのに妙に意見が合うようだわ。
「お二人のどうしようもない男性陣の評価はこの際どうでも良いですけれど……私の(誠実で優しい)婚約者に関して言えば、こんなことは今までで初めてですから」
私が目の前で冷めていくスープを見つめたままポツリとそう言うと、二人は顔を見合わせて一瞬困ったような表情を見せる。そこで私は初めて自分が他人に弱音を吐いてしまったのだと悟って恥じた。
「――食欲がないので私はこれで失礼しますわ。お二人はどうぞそのまま食事を続けて下さいませ」
何か猛烈にいたたまれないような、自分に対しての失望のようなものを感じて席を立つ私に、二人が声をかけてくる前にその場から離れる。ダリウス以外の人間に弱味なんて絶対に見せるものですか。
だからこそ、彼からの便りがないだけでこうも心が乱れることが……情けない、下らない、子供っぽい、浅ましい――。
自分に対しての罵倒を心の中で叫びながら、もうこのまま午後の授業は体調不良を理由に休んでしまおうと寮に戻ることにする。幸い昼休憩の最中なので、人の少ない教室から鞄を持ち出して校門に向かうのは容易だった。
制服の胸ポケットに忍ばせた先日のバラの香りがするポプリに、どうしてもダリウスのことを思ってしまう。ポプリに添えられていたカードの一文はいつもと何も変わらない“大切な君へ”。
「――なのにどうして、私に花をくれないの、ダリウス……」
そう、この学園のどこにもいない人物の名前を口にして校門から数歩ほど歩いてから立ち尽くしていた私の耳に――、
「…………イザベラ?」
聞き慣れた柔らかな呼びかけに、弾かれるようにして声の聞こえた方角を向けば、そこには――……。
「意外だなぁ……王都の学園って僕達の領内より授業が終わるのが早いの?」
眼鏡の奥で優しげに細められる榛色の瞳。ここではなく領地で私の帰りを待っているはずのその姿に一瞬呼吸を忘れる。
「ふふ、君を驚かせたくて黙っていたんだけど――その顔だと大成功したみたいだね?」
そうして――その人物は腕を広げて、私はその胸の中に飛び込んだ。
「……冬期休暇の前にイザベラに会いたくなったって言ったら、怒るかい?」
耳許で囁く声に私を抱き留めている胸を一度強く叩いたら、ダリウスは小さく呻き声を上げたけれど、そんなこと構うものですか。
「――どうしても、僕が自分の力だけで会いに来たかったんだ。ここで一人で頑張ってくれている、僕の大切な君に」
顔をうずめた胸の中は、ここから遠い故郷の土と、空気と、私の誠実な婚約者の香りがしたわ。