*6* 紅茶色の秋バラ。
先日故郷での夏期休暇を終えて戻った学園で、私はダリウスと過ごした癒やしの時間を思い出しては緩みそうになる頬を扇で隠す。
ダリウスったら全身からカモミールティーか、ラベンダーのポプリ並みの癒し効果でも漂わせているのじゃないかしら?
女性からキスをねだるようなはしたない真似をしてしまった私に、彼が見せてくれたあの表情だけでも恥を忍んで言ってみた甲斐があったわね……。
馬車から下りた私の気分が沈んでいたことに誰も気付かなかった中で、ダリウスだけは気付いてくれた。でもその場では何でもないことのように振る舞ってくれる紳士な一面が素敵だわ。
夏期休暇前にアルバート様に廊下で絡まれていたところを同学年の女子生徒に目撃されていただけでも不運なのに、アルバート様の婚約者のメリッサ様の耳に入ってしまったらしい。
――さらにはそのお目付役である宰相や騎士団長のご子息達の耳にまで。
権力者達のご子息連中が筆頭になって私に嫌がらせをし始めてからは、もう皆さん我が意を得たりとばかりに授業中であろうが休憩時間であろうがお構いなし。
身分を弁えない田舎者の排除に躍起になって……腸が煮えくり返りそうなくらいの被害を私に与えて下さる日々が続いていたのよね?
……でも、もうそれもすっかりどうでも良いことだわ。
だって私が帰る場所は彼の元であって、中枢の権力者の方々なんてあの辺境に引っ込んでしまえば、人生で二度と関わることもないでしょうから。
私はあのとき触れた冷たい眼鏡フレームの感触を思い出して、指先で鼻の頭をこする。もう秋の空気を含んだ風が、誰もいない教室の窓から吹き込んできて私の髪を揺らす。
このうねった黒髪は私のコンプレックスの内の一つなのだけれど、ダリウスが「何で嫌うの? こんなに綺麗なのに」とさも当然のように褒めてくれるから手入れを怠れない。彼が好きなら私も好きになるしかないわね。
自然と浮かんでしまう笑みを唇に乗せて、風で額にかかる黒髪を指先で摘まんで耳にかけながら、私は手許にある大量の紙の最後の一枚を束ねた。
「――さて、と。これでバラバラにされた教科書の頁は全部揃いましたわね」
私は放課後の教室で今の今までかかって、ようやく何者かの手によってご丁寧に分解された教科書の頁を回収・枚数確認を終える。
なかなかに手が込んで地味に嫌な今回の手法は、普通のご令嬢であれば精神的にかなりのダメージを狙えたかもしれませんわね。
それにしても、と溜息を一つ吐く。
せっかく王都随一といわれる名門校で学ぶ機会を得たというのに皆さん、こうして毎日嫌がらせに精を出すとは愚……嘆かわしいことですわ。
こんなに勉強が嫌いな方々が入学出来るなら、いっそダリウスにお声をかけて下さればよろしいのに。
そうしたら私と二人で学園生活を――……。
――――――…………駄目ね。それだと私も皆さんの二の舞になりますわ。
「……あら、何のご用かしらアリスさん。あなたがバラバラにして下さった教科書でしたら、もうとっくに見つけてしまいましたわよ?」
ふと教室のドアの方に人の気配を感じて視線を向けると、そこに佇んでいたのは、あの華麗な転身を果たした元・平民の男爵令嬢だった。ちなみに私がアルバート様と抱き合っていたという不名誉な噂を流したのは彼女だ。
本当に虫も殺せないような顔をしてやってくれるものだわ。
「私が必死に探しているところが見られなくて残念でしたわね?」
意図して私が挑発的にそう言えば、男爵令嬢の肩がピクリとはねた。俯いているとはいえ、殿方であれば小柄で庇護欲をそそられるその身体がブルブルと震え、殺気にも似た激しい感情の高ぶりが見て取れる。
――……もうそろそろ良い頃合いかしら?
「あなたが父親の言いなりの駒になって権力者のご子息達に色目を使うのはご勝手になされば良いわ。ただし――見当違いな理由で私に楯突くのはお止めになって下さるかしら? 正直申し上げて相手にするのも面倒ですの」
自尊心のない小物のふりをする人間は大嫌い。出来るなら出来ると証明しなければ。才能を使いこなす前に腐らせてしまっては勿体ないものね。
私はじっくりと男爵令嬢を観察しながら、以前ダリウスが言っていたことを思い出す。
他のものよりも小さく、植えても一向に芽吹く気配のない球根を掘り起こして捨てようとした私の手をやんわりと握った彼は、眼鏡の奥の目を優しげに細めて言ったのだ。
『あぁ、待ってイザベラ。この球根は他の球根よりのんびり屋なだけかもしれない。春まではまだ時間があるから、もう少しだけ待ってあげようよ』
とはいえ――そう微笑んでくれる優しい未来の夫には頷き返せても、それ以外の人間にそこまでの慈愛など持てるはずもない。何よりこちらは一方的な被害者なのだから攻め手を緩める気なんて毛頭ないわ。
「あなたの親孝行ぶりには感心しますけれど、あまりご自分を安売りするとみっともないですわよ? それにこんな手間暇を無駄にした嫌がらせを物陰からするあなたより、まだお友達を引き連れてでも真正面から罵ってくるメリッサ様の方がプライドがあるでしょうね」
男爵令嬢から怒りによる魔力の一部が漏れ出したせいで、彼女の周囲に陽炎のような物が浮かび上がる。好都合なことに彼女は私と相性の良い火属性のようね――。
相手を煽るときに大切なのは力量の見極め。言い負かせたとしても激高した相手がどう出るか分からないときは特に重要だわ。
その点、彼女と私であれば何の問題もない。私は安心して心おきなく一番嫌味に見える角度で顎を逸らして微笑みを向ける。
ただあんまりここで長々と無駄な時間を過ごしては、明るい間にダリウスから贈ってもらった紅茶色の秋バラを眺める時間が減ってしまう。あれは自然光の下でこそ美しく見えるのに……。
それに気付いてしまったら、もうこうしてはいられないわ。私は扇で僅かに隠した口許にあからさまな嘲りを添えて仕上げに取りかかることにした。
「私、あなたのことはこの学園で唯一の雑草仲間だと感じておりましたのに……勘違いだったようで残念ですわ」
そうわざとらしく溜息をつけば、ついに俯いていられなくなったらしい男爵令嬢が怒りに顔を上げて「貴女みたいな自由な人に、わたしの気持ちなんて分からないわよ!!!」と怒鳴った。
すると彼女の今まで鬱屈していた物を取り払ったその剣幕に、周囲の温度が一気に上昇する。
――……儚げな見かけによらず暑苦しい方だったのね。辺境地は王都と違い自然物が多くて涼しかったから暑苦しいのは苦手だわ。
下らない言い合い程度に面倒ではあるけれど、私は仕方なく自分の周囲に霧状にした氷のヴェールを展開する。
ダリウスは『イザベラの近くは涼しいから夏は頼りっきりになるなぁ』と暢気なことを言っていたけれど、むしろこの力場には彼以外入れたことがないことに気付いていないのかしら?
そしてもっと細かく説明するのなら、将来夏場のダリウスの仕事に同伴するためにこの魔法を憶えたのだけれど……。張り切りすぎている自覚があって恥ずかしいから、ダリウスには絶対に言えないわ。
「あら、あなたもそんな風に大きな声で怒れたのね。いつもみたいに気持ち悪くニコニコしているよりもそちらの方がよっぽど良くってよ? それからお生憎様だけれど、私はあなたのことに丸きり興味がないから分からなくて問題ないわ」
男爵令嬢は予期しなかった私の答えにポカンと口を開けていたけれど、こちらは教科書の回収も終えたし言いたいことも言ってやれたからもうこの場に用はない。
「それではアリスさん、ご機嫌よう?」
これ以上無駄な魔力を使いたくなかった私はそれだけ告げ、彼女を教室に置き去りに日差しの残る校内を足早に横切って、ダリウスからのバラが待つ寮の自室へと急ぐのだった。