*5* 仰せのままに、お姫様?
遅咲きのとびきり紫が濃いアイリスを贈ってしばらく――。
夏期休暇の手紙を受け取った僕は指折りイザベラの来訪を数えながら、連日を庭園の彼女専用の花を手入れすることに費やした。
「――……お久しぶりね、ダリウス」
冬期休暇の頃よりもさらに大人びて綺麗になったイザベラが馬車から下りてきた。使用人や家族の手前、僕はほんの少し彼女に感じた違和感を封じ込めるように微笑んだ。
「うん、お帰りイザベラ。今日は君が戻ってくるから、うちの料理人が張り切って焼き菓子を用意してくれたんだ。庭園の四阿にお茶の用意をしてあるから一緒に行こう?」
そう声をかけて手を差し出せば、イザベラは淡い微笑みを浮かべて僕の手をとる。相変わらず滑らかで綺麗な手をしたイザベラの手を、僕みたいな傷だらけの手で握って良いのか毎回戸惑う。
けれどそんな僕の逡巡を知ってか、イザベラは「ダリウス、私、疲れているの。だから早く四阿までエスコートして下さらない?」とツンと顎を上げて言った。
だから僕も「仰せのままに」と恭しく答えてオーバーオール姿のまま紳士らしく振る舞ってみる。
途端にそれまで淑女の仮面を被っていたイザベラが「馬鹿ね」と幼い頃の面影を残した微笑みを零す。僕は普段はつり目がちな彼女の目が、ふにゃりと柔らかく垂れるこの微笑み方が好きだった。
二人して、園丁のダンの手によって綺麗に刈揃えられた芝生の上で裸足になって四阿を目指す。足裏にチクチクとした芝生の痛くすぐったい感触を味わいながら、いつしか僕達は四阿と反対方向にある蔓バラのアーチの方へと駆けだしていた。
バラのアーチ木陰に潜り込むと、夏の最中に頑張って咲いたピンク色の蔓バラが重たそうに僕達を見下ろす。風が吹き抜けると、蔓に咲いた少ないバラの花からフワリと甘い香気が漂う。
「……それで、どうしたの、ベラ?」
呼吸が整ってからソッと昔の呼び名でイザベラに話しかける。意地っ張りだった幼いイザベラが、何かを言い出したくても言い出せないとき、僕はいつもその顔を覗き込んでそう聞いたことを思い出した。
記憶の中の一頁をそのまま模倣した僕の呼びかけに気付いたイザベラが、急に心細そうに視線を揺らす。
切れ長の紫紺色の瞳が僕の冴えない顔を写り込ませる。彼女の瞳に写り込む僕はいつも、僕であって僕ではないように精悍だ。
「ねぇベラ……君の不安の理由を教えて?」
顔を近付けて瞳を見つめながらそう囁けば、ゆっくりとイザベラの細い肩から強ばりが抜けていく。
しばらくは思い詰めた表情で裸足の爪先を見つめていたイザベラだったけれど、やがて意を決したように「……あのね、」と唇を動かし……けれどその直後に「やっぱり何でもありませんわ」と小さく答えた。
これはちょっと……彼女のプライドに関わりの深いものがあるのかな?
僕がそう頭を捻っていると、イザベラがチラチラとこちらの表情を窺っているのが分かった。この感じでは普通に訊いても埒があかないだろうと判断した僕はイザベラを安心させる為に「ん?」と微笑んで見せる。
イザベラはその回りくどい会話の促し方に何故か頬を染め、手にした扇をパチパチと開閉させ始めた。しかし僕がジッと見守っていると、イザベラの唇が動く。
「ダリウス、私に――……なさい」
「え?」
先程よりも各段に小さな声に思わず聞き返す。
「だから――……しなさい」
うーん……これだと言葉が簡略化されただけで声は小さいままだ。やっぱり聞き取れない。気を悪くするだろうけどここは提案した方が良さそうかな。
「え、あの、ごめんベラ。もっと大きな声で言って?」
――が。
イザベラは僕のその提案に信じられないとばかりに頬を紅潮させ、目を見開いて叫んだ。
「も、もう! あなた本当は聞こえているのでしょう!?」
「神に誓って聞こえないよ!?」
いきなりかけられた疑惑に、僕は身の潔白を証明しようと必死に大きく手と首を振る。イザベラも「そ、そうよね……あなたはそういうことはなさらないわね」とやや冷静さを取り戻してくれた。
さぁ仕切り直しだ。そう頭の中を切り換えて、再びイザベラの顔を覗き込んで安心させるように微笑む。
「だから、だから――その、」
「うん?」
「私に……キス、して下さらない?」
――――――――…………え?
「う――、ううん!? な、何? 急にどうしたのイザベラ?」
“あ、しまった。呼び名が元に戻っちゃった”なんて考えるよりも先に、いきなり婚約者から出されたハードルの高い申し出に盛大に焦った。それこそ必要以上に。
「私が相手では……嫌、かしら?」
いつもは強気で勝ち気な紫紺色の瞳が、その瞬間悲しそうに揺れた。そんな顔は反則だと思う。そして僕の顔は恐らく今、みっともないくらい真っ赤になっているんだろうな……。
けれど大切な婚約者をこれ以上不安にさせたくなくて「むしろ君以外の誰とするのさ」とボソボソと口の中で反論した。
するとその途端にイザベラは輝くような笑顔を見せる。
――あぁ、もう、本当に狡いな。
そう思いながらその華奢な肩に手をかけて向き合う。潤んだ瞳のイザベラも緊張しているらしく、そこに少しだけ安心した。
幼い頃のじゃれ合いの中でしたキスと、今の年頃になってするキスの意味合いは大きく異なるとは思うけれど……昔も今も変わることのない気持ちを伝えようと二人で瞼を閉じて顔を近付ける。
――……カチャッ!!
「あ」「え?」
何と、僕の眼鏡がイザベラの高い鼻に当たって、すんでのところで唇には届かなかった。間抜けなことに、イザベラの鼻の高さが当時と変わっているだなんて当たり前のことにまで頭が働かなかったのだ。
一瞬二人の間に何ともいえない沈黙が降りる。
けれど……すぐに肩にかけていた手を解いて差し出せば、イザベラの滑らかな指が絡められた。さすがにキスが手を繋ぐ行為で終わるのも癪な気がした僕は、幼い頃のようにイザベラの頬に口付ける。
僕からの不意打ちを受けたイザベラは、まんざらでもなさそうにふにゃりと微笑んでくれた。
「そうだイザベラ、何か花束にしたい花があったら言って。あ、でも――、」
「「アジサイ以外で!」だろ? 分かってるよ」
すっかり今日の本題を忘れかけていた僕の提案に、勢い込んで答えた彼女とハモる。彼女がそこまで嫌がるアジサイの花言葉は“七変化”と“移り気”。
元々は花言葉に興味がなかった僕が幼いイザベラに渡して泣かせたことがあり、そのときにイザベラが教えてくれたのだ。今でも花言葉には興味のない僕が唯一憶えているのだから、あの当時の騒ぎが忍ばれる。
「だったらそうだな……ナスタチウムとラディッシュの花束にしようか」
「ラディッシュ……って、あの畑に植えてる野菜ですわよね?」
指を絡めたままの手をブラブラさせながら不思議そうにイザベラが訊ねてくる。僕は珍しくキョトンとした表情を浮かべた彼女の、あどけない可愛さに内心ドキドキさせられっぱなしだ。
「う、うん……それで、その実の部分を上に向けてナスタチウムの花束に入れようかなって。濃いオレンジ色と黄色の花に、赤いラディッシュだと綺麗だろう?」
「え、えぇ、まぁ――」
少し眉根を寄せてその花束を想像しているらしいイザベラは久し振りの再会も相まって、もう……とんでもなく可愛らしい。僕は思わずあの手紙の第二王子のことを訊いてみようかと口を開きかけて――やっぱり言い出せずに植物談話を続けることにした。
我ながら意気地なしだと嫌気がさすなぁ……。
「えーと……それにね、ラディッシュは勿論、ナスタチウムの花は辛味があって食べられる。夕食はイザベラの好きなチキンとナッツのサラダがでる予定だけど、あれは色味が悪いだろう? だからイザベラが花束として楽しんだ後はサラダの彩りに使って、その後は君を内側から元気にしてもらおうかなと……駄目かな?」
「……良いわね」
「そっか、良かった。じゃあ行こうか? 皆きっと心配してるよ」
指を絡めたままの手を引いて立ち上がる。
嬉しそうに頷くイザベラと手を繋いで、彼女がお土産に持ってきてくれたという本の話をして歩きながら、この幸せはずっと変わらず続くものだと信じていた。