*35* キミに、この腕一杯の花束を。
いつものように早朝の一仕事を終えて軽い朝食を一人で取った僕は、アルターからイザベラの手紙を受け取って、小休止の為に自室へ向かう。
最近ではようやく花の手入れを少しずつでも出来る余裕が出来てきたので、長らくダンに任せっきりだった庭園の方にも時間を割いている。
折角イザベラが残させてくれた庭園だから、多少狭くなった分はしっかりと手入れをして見事な花を咲かせることで帳消しにしないとなぁ、なんて。
封筒にペーパーナイフを滑らせてからベッドにうつ伏せになって開く。
スズランの香りがする便せんがまた届くようになったことは嬉しいのに、このやり取りがもうすぐ終わることが怖いような、待ち遠しいような……そんな何とも複雑な気分で文面に視線を落とす。
“私、卒業式で答辞を読んでくれと頼まれてしまいましたの。今まであまり大勢の人前で話をする事なんてなかった経験だから心配だわ。だからダリウスさえ良ければなのだけど……当日研究の協力者として式に出席してはくれないかしら?”
ベッドにうつ伏せになっていた体勢から思わず起き上がってその内容を読み返す。イザベラにしては珍しく気弱な文面で、今の彼女の精神状態が心配になってしまった。
かといって僕も所詮田舎領主の三男坊だから、そんなに衆目に晒されるような経験はない。けれどイザベラの心情はどうあれ、彼女の晴れ舞台ともいえる日だ。
だったらここは折角イザベラからの誘いもある訳だし、当日は絶対に出席した方が良いだろう。問題はこちらに帰ってきたら渡そうと用意していた花だけど……背に腹は代えられないか……。
僕はまだ充分とは言い難い休息を早めに切り上げ、ベッドから起き上がって手早く身支度を整えた。それからふと思い立って机に向かい、簡単な文面の手紙を二通書いて封をする。
内容は至極簡潔に“大至急お金を貸して下さい”という“情けない”ものだけど、今の僕には少しも恥じることのない内容だと思えた。
イザベラが当日僕達の関係にどんな答えを出すとしても、彼女の三年間の努力を労い彩るのは、僕の育てた花束が良い。
そんな思いを込めた手紙を手に部屋を出てアルターを呼ぶ。僕は駄目で元々という気分で、教会に幾らまでならツケが利くのかを確かめる為に屋敷を出た。
***
――――そしてついに迎えた卒業式当日。
一週間前に届いたイザベラからの手紙と、この日の為に金策と謝罪の能力を駆使して用意した花束、それから若干の緊張を胸に王都の学園の卒業式会場までやって来たのは良いけど……あまりの会場の熱気に気圧されて思わず外に出てしまった。
すっかり田舎のおのぼりさんに戻ってしまった僕からすれば、王都だと学園の卒業式関係者だけでこの規模になるのかという驚きを隠しきれない。
確かにこの中で壇上に上がって答辞を述べるとなれば、如何にイザベラと言えども緊張するだろうなぁ。この人混みを予期した訳ではなかったけれど、念の為に硬度強化の祝福をかけておいてもらって良かった。
花の本数が本数だからかなりお値段は張ったけれど、充分過ぎるほどに施しておく価値があったなぁ、などと考えていたら――。
急にどこから現れたのか、見ず知らずの黒服の男性達に取り囲まれて訳も分からないまま会場の中に連れ戻されてしまって――うん、早速心が折れそうになった。
それでもそんな場違いな僕を、運良くイザベラの友人であるメリッサ嬢とアリス嬢が見つけてくれた。この人混みの中で良く出会えたものだと安堵してしまったほどだ。
すでに少し服装のくたびれてしまった僕とは違い、二人は踝まである長い黒のローブを制服の上からすっきり着こなし、頭には四角い房の付いた帽子を斜めに被っている。
その時、つい女性をジロジロ見るのは失礼になると分かっていても、あまりにこざっぱりしてしまったアリス嬢の髪型に視線がいってしまった。僕の不躾な視線に気付いたアリス嬢は「元が良いから、こういうのも似合うでしょう?」と気持ちの良い笑みを浮かべてそう言う。
そういえば口調もだいぶ変わった印象を受けたけれど、恐らくこちらがアリス嬢本来の姿なのだろうと感じて、僕も率直に「えぇ、とてもお似合いですよ」と答えた。
そのまま二人に前後を挟まれる形で壇上に近い場所まで移動し、三人でイザベラの出番を待つことになった。
出番を待つ間、メリッサ嬢もアリス嬢も競うようにこの数ヶ月のイザベラの努力をつぶさに僕に説明してくれ、その内容の一つ一つがイザベラらしいものばかりでまだ壇上に現れてもいない彼女を想って胸が一杯になる。
すると二人は「ちょっと婚約者君、ウルッと来るのはまだ早いよ」「そうですわ。今から涙を見せていたらこの後に流すものがなくなってしまいましてよ?」と微笑んで見せた。
けれど僕としてはその後に続いた「「どの涙か分かりませんけど」」という不穏な言葉の方がずっと気になったんですが……?
思わずそれまで浮かべていた社交用の笑みを引っ込めてしまった僕に気付いた二人は、すぐさま「それがイザベラが言ってた花? 確かに綺麗だね。こんなのもらったら女の子だったら嬉しくなるよ」「想いを寄せ合う殿方が自ら育てて下さる花なんて素敵だわ」と口々に褒めてくれたけど……何だかかえって身構えてしまう。
おまけに背後から首筋に刺さるような視線を感じて振り返れば、そこに当然の如くアルバート様とハロルド様の姿があるし……。気になるなら後ろにいないで一緒にここで見れば良いのになぁ?
微妙に疑問を感じる席取りに首を傾げつつも「さぁ、そろそろ始まりますわよ。式の最中はくれぐれもお静かにね?」と蠱惑的に微笑むメリッサ嬢の言葉に素直に頷いて、壇上に視線を向ける。もう背後からの視線は無視しよう。
最初は当然主賓からの祝辞から始まり、次に学園の関係者からの言葉、下級生からの祝辞、今までの三年間に卒業生が取った輝かしい賞や、各部門にある成績発表が読み上げられ、その度に会場内から拍手が上がる。
――あ、でも武術関連はハロルド様の一人勝ちなのか。
延々と読み上げられる武術大会や、それ以外の演技にまで名前を呼ばれるのは流石に騎士団長子息だなぁと思う。隣をソッと見やれば、案の定アリス嬢が誇らしげな表情で聞き入っている。
再び視線を壇上に戻せば、今回の自然災害にいち早く気付いて復興準備の手立てを考えた人物に、第二王子であるアルバート様の名前が上がり、反対隣にいたメリッサ嬢を盗み見るとうっとりとした表情で聞き入っている。
アルバート様の名前が上がった時には、主賓側からも一際大きく拍手を送る人が見えたけれど、あれは第一王子だろうか? メリッサ嬢の話では兄弟仲が心配だったけれど……こちらも上手くいっているみたいで良かった。
次に復興の現場指揮に立ったクリス様の名前が上がると、会場の後ろから小さい子の感極まったような悲鳴が上がっていたけど、身内の人かな?
その次にはこの災害に尽力してくれた聴講生の皆の名前が上がって、僕はその場で何度も小さくお礼の言葉を呟き続けた。
いよいよ最後の成績発表が近付いてくると、両隣にいるメリッサ嬢とアリス嬢から「次に名前を呼ばれるのはイザベラだよ」「けれどまだ涙は最後の答辞までお預けでしてよ?」と声をかけられて苦笑しながら頷く。
最後の賞と部門発表で、ついにイザベラの名前が呼ばれ、一部の席からは不満の声と野次が上がったけれど……それに負けじと一部の席からは拍手と歓声が上がった。
――――僕に権力という名の武器があれば良いのにと思ったのは、後にも先にもこの時が初めてだったと思う。
野次を飛ばした連中の席だけ不幸になればいいよ。
その分その席の連中が受け取るはずだった幸せが、歓声と拍手を送ってくれた席の人達に降り注ぎますようにと、思わず真剣に願ってしまった僕は悪くない。
イザベラの評価は従来なら見向きもされなかった廃棄魔法石の欠片から、革新的な利用方法を確立化させた功績と、それを使用しての辺境地域の農業技術の向上、自然災害における復興の足がかりを作った人物としてとても高い評価を受けたとのことだった。
……会場内の熱気と輝かしいイザベラの功績に、いよいよ僕は自分が彼女にとって相応しくないのではないかと思ってしまう。
そして――いよいよ会場の拍手と歓声が静まったところで、祝辞に対しての答辞を読む人間が……“イザベラ・エッフェンヒルド”の名が呼ばれた。
――――壇上に彼女が姿を現す。
そうすると一瞬にして、僕の世界は彼女一色になる。
それまで身を竦ませてしまうほどだった周囲の音は遠ざかり、彼女の一挙手一投足に自分の持つ感覚器官が吸い寄せられるようだ。
イザベラは僕にくれた手紙の内容からは考えつかないほど、堂々とした足取りで壇上に進み出てくると、一度魔法石の拡声装置の置かれた演説台に両手をついて観客席を見回した。
何となく……本当にただの思い上がりかもしれないけれど、その行動が僕を探してのことのように思えて、一度だけ左手を頭上で回す。両隣にメリッサ嬢とアリス嬢がいるから、僕に気付いたのかどうかは分からない。
けれど、イザベラは一瞬確かにこちらを向いてふにゃりと、あの僕が一等好きな微笑みを浮かべてくれた。
それからイザベラは評価に対しての礼と、協力してくれた教諭、共に研究をした仲間への礼を優雅な微笑みを交えて述べていく。
しばし歌うようなイザベラの答辞に聞き入っていると、不意にまたこちらを見たイザベラの表情が、僅かな悪戯っぽさを湛えた。
――――そして。
「さて、ここまで長々と当たり障りのない答辞を聞かされて、そろそろ皆様も退屈していらっしゃることかと存じます。ですのでここからは寛大なお心を持つ方以外は耳を塞いでおいて下さいませ」
何の説明もないまま、厳かな雰囲気の中で進められていたはずの会場内が、突然雲行きの怪しい場に切り替わった。僕はようやくそこで周囲の音が戻ってきた耳に、当然の困惑を口にする卒業生達の声を拾う。
両隣のメリッサ嬢とアリス嬢を見れば、その瞳を期待に輝かせて「今から始まるのが本当の答辞だから」「しっかりお聞きになって!」と小突かれて視線を壇上に移す。
「本日までの三年間、本当に口だけで自分では何の努力もしない上級貴族のご子息、ご令嬢方に散々な嫌がらせをされてきて、もういい加減嫌気がさしておりましたの。ようやく卒業と相成って、本当に清々しますわ」
……え? 何これ。
待って、今から何が始まる――というか、何を始める気なのイザベラ!?
「そもそも身分で能力をはかるだなんて愚の骨頂ですわね? 能力で入学を認められると謳っておきながら、実際はそれまで一般的な領民と同じ教育を受けてきた、私のような田舎貴族に負ける始末」
どよめく会場内の声などお構いなしにイザベラはさらに続ける。
「それをバネに勉学に勤しむならまだしも、群れて田舎貴族を排除することに熱を上げる。おまけに学園側もそれを放置するものだから、嫌がらせの腕だけは皆さんかなり上がったのではないかしら? これで学園内は平等などと説かれても嘘ばかりで片腹痛いですわね?」
慌ててイザベラを壇上から降ろそうと立ち上がった一部の学園関係者が、それを見越して控えていたらしい、壇上脇から現れたハロルド様率いる一部学生と聴講生達に押し返されている。
そしてそれを確認してフッと一度息を吐いたイザベラが、不意にこちらを振り向く。僕も壇上の彼女を見つめていたから、自然と視線が絡まった。すると気のせいか、それまで怒りの色が浮かんでいた紫紺の瞳が和らいだ。
「……元よりここにいる皆さんの中で、随一身分が低い田舎貴族の私がここに来たのは、辺境領で毎日毎日痩せた領地を、領民の為に懸命に豊かにしようと力を尽くす愛しい婚約者の為ですわ。私は幼い頃からいつだってそんな彼の力になりたいのに、彼はそれをやんわりと断るのですもの。頭にくるわ」
そう言ってジッと見つめてくる紫紺の瞳から目を逸らせずに、僕はただただ見つめ返した。
「いつも誰かの為にばかり懸命で、自分のことには全く無関心。領民の不安は分かるのに、婚約者の私の不安など全く理解出来ない朴念仁。けれど彼はここにいるどの上級貴族のご子息方よりも、正しく統治者である人だわ」
――――ちらほらイザベラの視線の先に気付いた衆目が僕を見ているのが分かるのに、僕はやっぱりイザベラから目を逸らせない。
「今回【フューリエ賞】を受賞させて頂いた研究も、全て彼と、私達の領地の為だけに考え付いた物ですの。正直に申し上げまして私にとってはそれ以外のことはどうでも良いですし、どれだけの人が飢えて苦しもうが一田舎貴族程度の私が知ったことではありませんわ。本来そんなことは国がどうにかなされば良いのよ」
流石イザベラ――……とんでもないことをサラッと言ってのけるなぁ。
あと、両隣の二人がさっきから凄い拍手を送っているのが地味に鼓膜に堪えるんだけど、止めないところとさっきからの言動でこの二人……いや、たぶん少なく見積もっても第二王子を含め五人は共犯者だろう。
「私は今日からそんな彼の婚約者から、この後結婚に持ち込んで“幸せで頼りがいのある奥方”になろうと思いますので、後は皆さんで屋敷に戻って揉めるなり、田舎貴族に虚仮にされた悔しさをバネに精進なさるなりご随意になさって下さいませ。それでは長くなりましたが、ここに卒業生答辞を終えさせて頂きますわ」
イザベラの投下した結婚宣言に、それまで散々騒ぎ立てていた学生までもが口を噤んで一気に僕に視線を向ける。それに伴い一部からは冷やかしと祝福の声が上がっているけれど、僕としてはそれどころではない。
ここまででも公開処刑というか、恥ずかしい思いは充分したけど……まさかこの場を使って“聖火祭”に保留にしていた答えを出して来るなんて――!
“顔から火が出そうな”という表現をよく聞くけれど、この身で味わうことになるのは出来れば避けたかった。確かにこれはとんでもなく後悔出来る。
絶対に顔面を真っ赤にしているだろう僕にとても甘く微笑んだイザベラは、次の瞬間キッとその表情を引き締めて「注目!!」と声を張り、僕に集中していた視線を再び壇上に集めた。
それを確認したイザベラがおもむろに帽子に手をかけると、それを見ていた学生達も慌てて帽子に手をやる。両隣の二人も同じようにしていることから成り行きを見ていた僕の目の前で、イザベラの「卒業おめでとう!!」の一言に合わせて一斉に帽子が宙を舞った。
学生の数だけ宙を舞うカラスのような帽子に目を奪われていると、いつの間にか壇上を降りて駆け寄って来ていたイザベラが、勢いもそのままに僕に抱き付く。両隣にいたはずの二人は姿を消していて、僕達の周辺だけぽっかりと空間が空いていた。
躊躇いがちにソッとその身体を抱きしめ返せば、イザベラは緊張した面持ちで僕を見上げて「さっきの言葉、ちゃんと聞いていまして?」と小首を傾げる。
僕が何と言葉を返せば良いのか思い付かずに無言で頷くと、イザベラは蕩けるような笑顔を見せた。その上でまだ「返事はどうですの?」と詰め寄ってくるのは狡いんじゃないのかなぁ?
それでもまだ本当にイザベラを連れて領地に戻ったものか、迷いの捨てきれない僕に――彼女は背伸びをして最後の防壁を破ろうと口付ける。
「この先何度だって言うと思うけど……僕に君は勿体ないよ」
イザベラの唇が離れた僕の口からは、そんな“情けない”言葉が出たと言うのに……それすら彼女は許さずに居丈高に鼻で嗤う。
「は? 寝言は寝てから仰って? 誰があなた以上に私を幸せにしてくれて、あなたを幸せにしてあげられるの?」
そう言いながらもイザベラは目ざとく僕の手許を覗き込んで「私の一番好きな花だわ」と、大輪のバラが開くような笑顔を見せた。
初めてイザベラに逢ったその日に渡したカスミソウの花が、バラの花を引き立てるように見えたからだなんて気障なことは、僕には絶対一生かかっても口に出来そうにないけど――。
「今さら婚約破棄だなんて言わせませんわよ? それに丁度タイミングの良いことに、研究で得たお金で私がここに結婚指輪を用意しておきましたから……ダリウスが持ってきてくれた、そのカスミソウの花束をブーケトスに使いましょう」
「え? 何、それって一体どういう―――……」
「もう、相変わらず鈍いですわね? この後アルバート様達が式を挙げるそうですの。ですから今からその教会にご一緒させてもらいましょう?」
そう、大切で大好きなキミが笑ってくれるなら。
「あぁ、うん、そうだね……そうしようか?」
僕は――……何度だってキミに愛を伝える為の花束を贈るよ。




