*33* 最初で最後の強がりを。
腕の中にすっぽりと納まるイザベラの身体は、ここ数ヶ月間ずっと僕の心に空いていた空洞を埋めるキーストーンのようだ。グラついていた僕の世界の足場をたった一人で確固なものにしてしまう。
ダンスの音楽も、人のさざめく声も、ホール内を照らすシャンデリアの明かりすらも――……全てが僕の周囲から消え失せて、僕の感じられる世界はイザベラだけになる。
ポインセチアの花を差し出すつもりだったのに、ずっと触れたかったイザベラを前にしたら、我慢が利かなくて思わず抱きしめてしまった。
けれどイザベラはそんな僕を突き飛ばすこともせずに、腕の中で細く長い呼吸を数回した後、恐る恐るといった風に僕の背中に掌を這わせる。
まるで僕の存在を確かめるようにゆっくり、肩甲骨に触れた掌が背中を撫で下ろして腰の上で止まったかと思うと、今度はその細い腕を絡めて強く抱きしめられた。その途端に故郷から出てきたばかりだというのに、懐かしい郷愁のようなものを感じて涙腺が緩む。
それをイザベラに悟らせまいと首筋に顔を埋めれば、仄かに僕の知らない“女性”の香りが剥き出しのうなじから香って、そのことに何故かギクリとしてしまった僕は、自分から詰めた距離を再び取ろうと身を引きかけたのだけど、今度はイザベラがそれを許さずに僕の首筋にすり寄ってきた。
一瞬だけ押し問答のような形になりかけた僕達は、けれど結局離れ難くてお互いを抱く腕に力を込める。
「……イザベラ、ほんの少し痩せたんじゃないのか?」
結い上げられた紫紺の髪が一筋零れて、視界に入る白いうなじに対照的な色合いを添えるせいで、元からほっそりとしていたイザベラの首筋をさらに細く見せた。
「それを言うならダリウスあなたも……うぅん、引き締まったからかしら? 前よりも身体は薄くなったのにがっしりしていて、何だか間違えて別の男性に抱きついてしまったみたいだわ」
「それは――喜んで良いのかなぁ? 出来ればこうするのは家族以外では僕だけにして欲しいんだけど……」
フッと首筋で苦笑を漏らすと、イザベラが僅かに身動いだ。そんなことにもドキリとしてしまうのだから我ながら情け……いや、格好悪いなぁと思う。
「何を言っているの。あなた以外にそんなことする訳がないでしょう? 物の喩えというやつですわ。ダリウスこそ私以外の女性にこんなことをしては許しませんわよ?」
そう言ってクスクスと笑うイザベラに、どうしようもなく言いたい事が今の僕にはあって。けれどまだそれを口にすることは出来ない自分に苛立ちが募った。
もう少し、後少しだけ、僕の“婚約者”の君でいて欲しいと――そう願うことしか出来ないけれど……。
「ねぇ、ダリウス。あなたは私をダンスに誘ってくれたのではなくて?」
ヒールのせいでいつもより僅かに高い背丈のイザベラが、耳許で秘め事のように囁く。その甘い声に、瞬間身体に痺れが走った。
「――……僕があまり踊るのは得意じゃないの、知ってて言ってるだろう?」
甘い声に、香りに、僕の知らない“女性”へと羽化してしまったイザベラにクラクラする。おどけるようにそう返すのが精一杯の僕を、イザベラの細い腕が一層強く絡め取った。
「えぇ、勿論知っているわよ。だけどほら……見て? 誰も私達を見てなんかいないわ。それでもどうしても心配だというのなら“踊る場所を変えて”と誘い直して下さるかしら?」
少しだけ首を傾けたイザベラが視線をダンスホールの方へと向ける。僕も言われるままにそちらを見たけれど、確かに誰もが自分のパートナーに視線を注いで楽しそうに踊っていた。
しかしその誰もが今の僕とはかけ離れた身なりと階級と能力を持っていて、それに相応しい威風堂々とした振る舞いを取っているのだから、まさか僕がああ振る舞えるはずもない。
そんな風に思って黙り込んでいたら、不意に腰に巻き付いていたイザベラの手が、僕の手首を撫で下ろしてまだ指先に摘まんだままの真っ赤なポインセチアの花に触れる。そうして僕の首筋から顔を上げたイザベラは、うっとりとしてしまいそうな微笑みを浮かべて「ねぇ?」と甘くねだった。
僕がつい「狡いなぁ」と呟いてイザベラの身体をやんわりと引き離すと、イザベラは「早くなさらないと踊る時間がなくなりますわよ?」と急かしてくる。
けれど……引き離してもう一度正面から眺めたイザベラの姿に息を呑んだ。
身に纏うドレス自体のデザインは古いけれど、慎ましやかで品の良い形がイザベラにとても良く似合っている。
髪型も、いつもはふんわりとした癖のある夜色の髪を流しているけれど、今夜は真っ直ぐに伸ばして緩く結い上げられているせいで、常なら見えないうなじが目に眩しい。
――――要するに。
「やぁ、吃驚した……。いつもは可愛らしいけれど……今夜はとても綺麗だよ、イザベラ。去年見られなかったのが惜しいくらいだなぁ」
思わず、といった風に口をついて出た素直な称賛言葉に、それまで大胆なほどだったイザベラが頬を染める。
「も、もう! そういうことは抱きしめる前に言うことですわよ?」
「う……ごめん。ずっと逢いたかったイザベラが目の前にいるなぁと思ったら、つい。でも今度はちゃんとするから大丈夫だよ」
まだ「本当ですの?」と疑いの眼差しを見せるイザベラに苦笑しつつ、僕は手にしたポインセチアを、イザベラに向かって捧げ持つようにして床に片膝をつく。
「……大好きな婚約者殿。どうかこのダンスの下手な僕と、あちらにある人気の少ないバルコニーで踊っては頂けませんか? 出来ればこの“聖火祭”が終わるまでずっと――僕とだけ」
イザベラは少しだけくすぐったそうな表情を見せてはにかむと、僕の手からポインセチアを摘まみ上げて「勿論ですわ」と答えてくれる。
僕は承諾の証に差し出されたその手を取り、そのまま人目を避けるようにバルコニーへと彼女を誘った。
***
バルコニーにはこの日の為に豪勢に敷き詰められた、輝かしいイザベラの研究成果。魔法石は周辺の冷たい冬の外気を、まだ数ヶ月先の小春日和のような暖かな物へと変じている。
僕とイザベラは人気のないバルコニーで華やかな曲の合間に入る、ゆったりとした音楽の時だけ簡単なステップを踏み、それ以外の難しいステップの時は二人して近況について語り合った。
僕からはリカルド兄上とサフィエラ義姉上の赤ちゃんの名前で、両家のどちらの両親が名付け親になるか揉めてまだ名前がないこと。
そのことでいい加減にしないと赤ちゃんが名前を憶えるのが遅くなると、リカルド兄上とサフィエラ義姉上が気を揉んでいること。
領地で僕が考案した雪道対策が功を奏して、この季節に行商人の馬車が訪れられるようになったこと。
小麦の収穫量が少なかったけれど、この学園で知り合った聴講生の皆が銘々送ってくれた物資のお陰で、保存食やひと冬なら越せる程度の小麦を貯蔵出来たこと。
今日この“聖火祭”に僕のような外部の人間が潜り込めたのは、数ヶ月も前からアルバート様やメリッサ様達の助力があっての実現だということ。
領地の皆がイザベラの発案にとても感謝していることなど――話し始めるとキリがないくらいに伝えたいことがあって、とても一晩では足りない。
イザベラの方でもそれは同じようで、仲間内で出た新しい魔法石の研究をしているということ。
学園の中でも将来能力を活かして働いてみたいと考えている、一部のご令嬢達の手を借りれるようになったこと。
いつも魔法石の欠片を回収に行く工房から、少しだけ上質な魔法石の欠片も融通してもらえるようになったこと。
アリス嬢のお家が大変だったと聞かされた時には流石に驚いたけれど、それもハロルド様の手で今は安全な場所で暮らしていて、そんな二人の関係がこの頃怪しいことなど――。
こちらもまた話したいことが尽きない様子で、結局のところ僕達は途中からダンスのステップなどすっかり忘れて、バルコニーの手摺りに並んでもたれ、絶えない会話に花を咲かせた。
――だけどそれも中のホールから聴こえてくるダンスの曲が、この夜会の終盤に向かうしっとりとした雰囲気を含み始めたところまでだ。
僕は意を決して、それまで並んでもたれかかっていたバルコニーの手摺りから身体を起こす。
そのままバルコニーの中心に向かって五歩ほど歩くと、急に隣の僕がふと自分から離れたことに気付いたイザベラが、不審そうに眉を顰めた。
僕はそんなイザベラの表情を見つめ、綺麗だなぁ、と目を細める。室内からの柔らかい灯りと、冴え冴えとした冬の月明かりがイザベラを包み込んでいる様は、一種宗教画めいた神々しさを醸し出していた。
「先日君の実家と僕の実家に、王城から書状が届いた。内容は君も知っている通りの物だと思う」
「………………」
僕が何気なく切り出した言葉に、目の前のイザベラが身体を堅くした。それを確認した上で、僕は言葉を続ける。
「僕達の辺境領から王城に召し上げたいなんて申し出を受けることは、大変に名誉なことだし、素晴らしいことだよ。イザベラの能力を認められてのことだから、僕も嬉しい」
「………………」
ずっと黙ったまま微動だにしないイザベラに堪えきれなくなった僕は、彼女から何かしらの反応を引き出したくてあざとい手段に出た。
「ねぇ、ベラも……そうだろう? 僕は魔力の保有量は少ないけど、ベラの魔力が今どんな状態で使われているかくらいは分かるんだ。君が魔力を込めて毎週送ってくれる魔法石の力を解放する時には、とても楽しい気配が伝わってくる。この研究を進める一年は君にとってこれ以上ないくらい有意義で、今まで王都で過ごした一年の中で一番短かったはずだよ。だから――、」
思った通り愛称を呼べば――それまで無表情だったイザベラの肩がピクリと跳ねた。彼女の心が自分の呼びかけで揺れたことが、こんな時だというのに酷く嬉しいのだから救いようがないなぁ……。
胸はさっきからずっとギシギシ痛むし、喉はカラカラでこの先の言葉を紡ぐことを拒むけれど、僕は無言で立ち尽くしているイザベラに、最初で最後の強がりを吐かなければならない。
「だからもしも、もしも君が――この研究を王城のお膝元にある研究室で続けたいと言うのなら……今ならまだ、この婚約をなかったことに出来る。君のご両親には領地のエッフェンヒルド領から、もっと王都に近くて豊かな領地を与えても良いとの達しも届いたそうだ」
そう言葉を紡ぐ声は奇跡的に震えずに、さっきからずっと僕から目を逸らさないイザベラに届いているはずだ。
「まだこの婚約を白紙に出来るんだ。君の婚約指輪も僕が持っているから、ベラはまだ自由だよ」
「………………」
「答えは今夜出さないで、卒業式までゆっくり考えてく「お黙りなさい」」
急に割り込んできたイザベラの声に、長年の条件反射で口を閉ざす。つい黙った僕を見たイザベラは一つ頷くと、五歩分離れていた距離を一気に縮めて目の前で止まった。
普段より目線が高いからか、上目遣いに睨みつけてくるキラキラと輝く紫紺の瞳に魅入ってしまう。
するとイザベラは僕の襟首を両手で掴んだかと思うと、足りない分の距離を自らの方にグッと引き寄せて――……次の瞬間間近にあったイザベラの顔に驚き、後ろに重心をずらしかける。
けれどそれを予期していたらしいイザベラからまたも引き寄せられた。
自分の唇にイザベラの柔らかい唇を押し付けられ、僕は一瞬自分に何が起こっているのか理解が追いつかない。
それどころかこの状況で何故、と思うのに――――。
いつの間にかその華奢な腰に腕を回してイザベラを支えたまま、より深く口付ける自分の方が一番理解し難い。
角度を変えて口付けてくれようとするイザベラを、爪先が地面から離れるくらいに自分の方へと抱き寄せ、唇を重ねた。
会場から聴こえてくるはずの華やかな音楽も、ザァザァと自分の中を暴れる感情が邪魔をして聞こえなくなる。
聞こえるのはただ、密着した僕とイザベラの心音と、途切れ途切れの息遣い。今この時だけは世界が完結してしまえとすら思った。
どれくらいそうしていたのか分からないけれど、こうされた時と同じくらい急に、イザベラが僕の襟首を掴んでいた手を離して僕の胸を押し退ける。
慌ててソッとイザベラの浮いた爪先を地面に降ろせば、イザベラはクッと形の良い顎を持ち上げ、今まで重ねていたその唇を動かしてこう言った。
「――……良いわ、ダリウス。今の口付けに免じて、今夜のところは答えないでいてあげる。けれどあなたは私の答えを今夜聞いておかなかったことを、くれぐれも後悔しないことね?」
折角口紅を引かれて艶やかだった唇はすっかり色を失い、元のイザベラが持つ健康的な色を取り戻している。
その視線に気付いたイザベラは、ほんの少しフニャリとしたあの微笑みを浮かべて僕を指差し「“それ”を返してくれるかしら?」と、今度は蠱惑的に微笑んだ。
求められ、口紅の返還の為に再び重ねるこの唇が卒業式に紡ぐのは、一体どんな答えだろうか?




