*30* 空席の指。
誰もいない講堂の一角で、私は見知らぬ男子生徒に壁際に押し付けられるように縫い止められていた。近頃こういった手合いが多くてそろそろウンザリしますわね。
男子生徒はさっきから勝手に薄ら寒い“愛の言葉”を私に囁き続けているけれど、この間婚約者が私に向かってバケツの水を被せようとして、自爆したのをご存知なのかしら?
今が九月だから良かったものの、これが十一月や十二月では命の危険があるとは考えなかったのね?
だから考え足らずなお馬鹿さんに「私の魔法適性をご存知?」と扇で顎を持ち上げて訊ねたら、自分でしでかしておきながら泣き出す始末で……みっともないことこの上もなかった。
まぁ、けれど自分で自分の手を汚そうとする姿勢は好ましかったかしら?
少なくとも、さっきからこちらが一言も返さないのにペラペラと囀るこの薄らお馬鹿さんよりは、ずっと。
「――その頭の両側に付いているお耳は飾りなのですか? 私は初めから“有志”で魔力を込めて下さる協力者を探していると言いましたわ。次にまだ邪な行いをしようものでしたら……二度とあなたが仰るようなときめきを感じられないように、その心臓を氷漬けにして差し上げましてよ?」
扇で隠した口許を極めて笑みの形に近いように持ち上げるけれど、上手くいかなくて諦める。
けれど男子生徒は私の言葉のどこを好機と捉えたのか、より一層身体を、というか顔を近付けようとしてくるので、面倒になった私は「忠告はしましてよ?」と告げてから相手の左胸の上に触れて冷気を送り込む。
そこでようやく私の言葉をきちんと理解したのか、男子生徒は慌てて後ろに身を引いた。
その表情は今まさに氷漬けにされそうになった恐怖に引きつり“お前正気じゃないぞ! 下級貴族の女が婚約者に捨てられたから慰めてやったのに!”とか何とか喚いていらっしゃるけれど、これは予告なしにやってしまった方が良かったかしらね?
それでも薄ら寒い台詞よりは幾分マシな捨て台詞を残して、バタバタと走り去っていく男子生徒をどこまでも冷めた気持ちで見送りながら、私は近くの座席に隠れていた彼女に告げる。
「ねぇ、あなた。あの方とご結婚されるおつもりがあるのでしたら、今追いかければよろしくてよ?」
私の言葉に顔を覗かせたバケツの彼女は、可哀想なくらいに青ざめていて、むしろここに隠れるように仕向けたことに罪悪感を感じたわ。
「あなたも婚約者の行動に傷ついたのね……。正直申しまして、あの方にあなたは相応しくないわ。勿論、あなたが勿体ないということですけれど」
そう思ったことをそのまま伝えるけれど、青ざめたままの彼女の耳に届いたかを確認することはせず講堂を出た。あの場所でまだ泣くのか、それとも一人で立ち上がるかは彼女次第ですもの。
「――私はもう泣かないわ」
空っぽになった右手の中指にソッと触れ、私は記憶の私を焼いた。
***
放課後の選択授業棟にある一室。
その教室の中で黙々と私を含めた十人程度の女子生徒達と、一部数名だけ混じった男子生徒達が、魔法石の欠片を手に自分の魔力を注ぎ込んでいる。
誰が言い出したのかこの教室を指して、一般の生徒達は【失恋教室】などと不名誉な名前で呼んでいるらしいけれど、そんなのはほんの一部だわ。
私を含めここは魔法石の実験をする為に集められた人材なのに、風評被害も甚だしい。けれどほとんどのメンバーは全く気にせず、日々ここで魔法石に力を宿し続けている。
赤、青、黄、緑。その濃さは様々だけれど、どれも元はゴミ同然と捨てられた物とは思えないほど見事な魔法石へとその姿を変えていく。
王国主催の新しい魔法の活用法を編み出す【フューリエ賞】を受賞して、喜び勇んでダリウスと両親に手紙を送ったのが遠い昔のことのようだわ。
他の生徒が作業している机からやや離れた教室の隅にある作業机が、私のこの場所での指定席。
「あのさイザベラ、本当にあの指輪返しちゃっても良かったの? 結局夏期休暇も帰らないでさぁ。そろそろ意地張らないで手紙出したら?」
同じ席の目の前で小さな赤い魔法石を作っているアリスが、もうこの二月ほど同じことを繰り返し訊ねてくるけれど、私は緩く首を横に振って拒否の構えを崩さないことを表明した。
するとアリスは大袈裟に溜息を吐いて「もー……この意地っ張りの拗らせ屋」と唇を尖らせる。
でもすぐに「まぁ、教え子の成長だと思えば先生も我慢出来るけど?」と私を探るような視線で見つめてくるアリスから目を逸らす。
小さな魔法石に魔力を込める作業は簡単にこなせるようでいて、小指の爪ほどの大きさの物からビーズ大まで大きさがマチマチで、力の注ぎ込み方も一定でないと弾けてしまったりする危険性がある。
数が揃うとなかなか大変なのだから、あまり心を乱すことを言わないで欲しいものだわ。
「あら、お目付役の先生でしたら、私の専行授業の先生で充分でしてよアリス女史?」
「えー、そう言わないでよ。ここのところメリッサ様もハロルド様達も忙しそうであんまり会えないんだから。みんなで最後に昼食一緒に食べたのも、もう四日も前だし」
そう言ってまた唇を尖らせるアリスにほんの少しだけ笑ってしまう。それを感じ取ったアリスが「何よぉ?」と頬を膨らませて、作業中の机の上に頭を預ける。
「別に何でもないわよ? でも、そうですわね……メリッサ様の次に出るのがハロルド様のお名前なのはちょっと意外ね? と思っただけですわ」
そういえばこれまで私の意趣返しにあったことのなかったアリスは、この言葉に「はぁ? ち、違うし、あんな脳筋関係ないから!」と意外なほど良い反応を返してくれた。
これは……もっと早くからかってみれば良かったわね……。
思わず手許のまだ色のない魔法石の欠片から顔を上げて、目の前のアリスをマジマジ見つめると、今度はアリスがさっきの私のように視線を逸らす。
「――……ホントに違うし。ハロルド様なんて流石に家格が違いすぎるから。反応が面白いから遊んでるだけ」
ポツリと零したアリスの言葉に「そうね」と答えてみたものの、その声が沈んでいることに言及するほど私も野暮ではないわ。
「というか、わたしのことは良いの。今はイザベラのこと! 折角もらった婚約指輪返しちゃうなんて勿体ないよー。そもそもこの魔法石だってさぁ、結局あの婚約者君のとこ「だけではありませんわよ?」」
焦ったアリスの露骨な話題の路線変更を、バッサリと切り捨てて言葉を打ち止める。打ち切られたアリスは少し不満顔でしたけれど、そこはお互い様ですわ。
「あれは今回の天候被害で王都から離れた土地で出た、農業被害の後片付けの手助けにと無料配布しているのですわ。ここで手伝いをして下さる方々はその賛同者でしてよ? それに、」
私は一度そこで言葉を切って、右手の中指をスルリと撫でる。
「それに――……今はあの指輪をダリウスに返して、清々しておりますの」
今まで与えられていた物が与えられなくなったからと言って、取り上げられたと思うだなんて、考えてみれば愚の骨頂ですわよね?
だから、私がいなくては息も出来ないと、必ず、言わせてみせるわ。あの場所で“お客様”でなくなる為に今の私に出来ることなら、今回のこの自然災害だって利用してやるの。
そんな仄暗い決意を胸に秘めて力を注ぎ込んでいた魔法石の欠片が、紺碧がかった青へと変わる。全てを氷つかせるような深くて暗い“哀”の色。
その出来映えに満足して魅入っていると、不意に背後の扉が開かれて見覚えのある女子生徒が立っていた。数日前に青ざめた表情をしていたあの女子生徒だ。
「……あら、いらっしゃい。あなたはどこかのお馬鹿さんと違って、ちゃんと“有志”で作業を手伝って下さる方かしら?」
扇で顎を上げて確認するまでもなく、自らの意志でしっかりと頷いた女子生徒に、私も自然と微笑みを返す。一瞬相手が息を飲んだところを見ると、私はやはりあまり笑わない方が良いみたいね?
有志で手伝ってくれている生徒達が、新入りの彼女を迎える為に席をずらして居場所を作り、そこへ今はまだやや空気に気圧されている彼女が入り込むと、隣や前に座っていた生徒達が声をかけて緊張を和らげてくれている。
それを視界に入れた後に、再び前に座るアリスに視線を戻せば「素直さが息してないよ」と苦笑されてしまったわ。
だけど、それで良いの。
私に必要なものはもう、そんなものではないのだから。




