*29* 家にどういった御用件でしょうか?
悪夢のように続いた長雨も七月の中旬頃にようやく終焉を迎え、下旬の収穫には何とか間に合った。けれど……間に合うというのと無事であるということは、必ずしも同義語ではない。
収穫量は例年の三分の二だけれど、質が悪い。折角今年は途中まで満点の出来だった穂が、長雨のせいで生育が遅れて粒が小さいのだ。
これでは蒔いたところで発芽する率は低いだろうし、来年の収穫高がこの時点で分かっているものだから領民の皆の士気も低い。小麦の収穫量が元の量に戻るまでには何年かかかるだろう。
問題は往々にして一つ解決すれば二つになったりするものだからなぁ……。
この忙しさを言い訳に僕は未だにイザベラへの手紙を書くことすらせず、日々を慌ただしく動き回ることで結論を先延ばしにしていた。
そのイザベラからの手紙もここ二週間ほどは来ていないことから、彼女に愛想を尽かされる方が早いのかもしれないなと、心の中で自嘲気味に嗤う自分がいるのも確かだ。
「そこの一帯は罹病しているから最後に刈り入れよう。落ち穂は後から徹底的に拾って。それからこの一帯は二、三年ほど大麦と他の野菜を育てて休ませないといけないから、赤い布を付けた杭を立てておいて」
暗くなりかけた思考を打ち切るように、僕は今日も今日とて畑の真ん中で指示を出す。
僕の指示で頷いてくれた領民は不安そうながらも、何とか保ってくれた空模様の方に安堵の表情を浮かべている。それは僕も同じ気持ちだった。
これ以上降られては、この後に収穫を残している他の農作物にも被害が出るところだ。それを回避できただけでも良しとしないといけない。
「それから言うまでもないけど小麦は共同乾燥場でしっかり乾燥させて、罹病株を収穫した道具は徹底的に消毒してね。収穫した罹病株は穂が落ちないように麻布を被せて台車に載せたら、郊外の荒れ地へ移動させておいて。後で一斉に燃やすから。それからこの圃場ですき込みはしないで」
病気に冒された小麦は残念ながら家畜の飼料にも使えないので、燃やし尽くす他ないのが辛い。
『今まで丹誠込めて作ってきた作物に自らの手で火をかける。その時を味わうのは、何度経験しても慣れるものではないな』
数日前にリカルド兄上の漏らした言葉が、目の前で悲しげに顔を歪ませた領民の姿に被る。僕が畑を手伝えるようになってからも、野菜の病害に悩まされたことは幾度かあった。
ただ……ここまで大規模に、しかも連作障害を起こす小麦での被害を見るのは今回が初めてだ。僕は目の前の領民に思わず「力が及ばなくてごめん」と零してしまった。
けれど相手は「あぁ、謝ったりしねぇで下さいよダリウス様! こっちはこんなこと何回も乗り越えて来てるんでさぁ。今回はダリウス様の授けて下さった加護のお陰で、こんくらいで済んだんですよ。なぁ、みんな?」と豪快に笑い飛ばしてくれる。
周囲で黙々と無事な区画を収穫していた他の領民達も、金色の麦畑の中から頭を出して歯を見せて笑ってくれる。その表情にはさっきまでの翳りが見えないけれど、僕はこの気遣いに甘えてはいけないと自分を叱咤する。
この区画はもう大丈夫だろうと当たりをつけ、彼等、彼女等に後を任せて他の区画に向かおうと踵を返す。
さっきまで屈みっぱなしでの作業をしていたものだから、途中で一度大きく伸びをする。背中から危険な音がしているけれど、まだ作業が山のように残っているここで気にしてはいけない。
気を紛らわせるようにぐるりと辺りを見渡すと、金色の小麦畑に風が走る様子が見えた。風が触れた場所から起こる金色の波。
その幸せな波が、僕の領民を覆い隠していく。
それは毎年この時期になれば目にする光景だったけれど、毎年変わりなく起こる光景ではないのだと今回初めて思い知った。
いつもなら歓声が上がる金色の波の間から「風だ! 穂が落ちるぞ!」「収穫した小麦はさっさと畑から運び出せ!」と緊張した声が上がる。
そして常の季節なら香ばしい香りのする風に、病を得た小麦の株が放つ異臭が混じった。
その風の臭いと領民の皆の声に耳を傾けて、我が身の不甲斐なさに歯を食いしばっていると、向こうから恐らく今の僕と同じような表情をしたリカルド兄上が歩いて来るのが見える。
僕がこの数ヶ月ですっかり距離の縮んだ長兄の元へと駆け寄って行くと、それに気付いたリカルド兄上が少しだけ笑みを浮かべた。
「向こうの畑はどうでしたか?」
「そうだな、思ったより無事だったんだが……」
すぐさま勢い込んで状況を訊ねる僕に苦笑を漏らしたリカルド兄上は、けれどすぐにその表情を曇らせて口ごもる。
「……やはり、土地が足りませんか……」
それはこの病害が出始めた当初から心配していたことで、詰まるところ、この狭いエスパーダ領内で起これば確実に浮かび上がる問題でもあった。
リカルド兄上は苦い表情のまま無言で頷くと、視界に広がる金色の畑を眺めてから一度きつく目蓋を閉ざす。
今この瞬間見える金色の土地に、来年の畑は作られない。小麦は作物の中でも主食という地位にありながら、連作を嫌うその性質上、広大な土地を必要とするのだ。
それも本来なら一年間休ませるだけで使用できるはずの畑が、株が罹病したせいで三年間休ませることになってしまえば、今までの生産周期での絶対量の収穫など望めない。
仮にまだ手付かずの痩せた土地を開墾したところで、手入れをする領民の数が足りないだろう。だからこれ以上農地を広げることは現実的ではない。
――リカルド兄上はお優しいから、僕に言い出せないのだろう。
「……屋敷の庭園を潰しましょう。狭くはありますがあそこはかなり肥沃ですし、ないよりはマシです。何と言っても屋敷よりも広いですからね?」
明るく声を上げてはみたものの、多少その声が震えるのは仕方がない。あの庭園は幼い頃から今日までずっと、ずっと、僕とイザベラの何よりも大切な場所だったのだから。
「ダリウス、お前は本当にそれで良いのか?」
「はい、とは流石に即答出来ませんが……それが領主家として必要な犠牲であれば、イザベラもきっと許してくれます。それに兄上だって出産予定日が近いサフィエラ義姉上の傍にいられないのですから、僕もこれくらいは覚悟を決めないと駄目ですよ」
一瞬だけ痛ましそうな表情を浮かべたリカルド兄上を見て、まだ訊かれてもいない言葉がせり上がって来ては僕の口から零れて行く。
「――……本当に、良いのか?」
探るような視線で念を刺すリカルド兄上の瞳を、眼鏡越しにしっかりと見つめて頷く。例え今この時に心の中で“僕”がどれだけ嫌だと叫んでいても、外の人から見える“僕”は、エスパーダ家の三男坊なのだから。
「えぇ、領地の為ならば。ただ……庭園の植物で二つだけ残しておいて欲しい物があるんです。それは構いませんか?」
そう訊ねれば「当然だ、この馬鹿」とリカルド兄上が僕の頭を小突く。笑いながらそれを受ける僕の中で、まだ諦めきれないイザベラへの恋情が萎れずに揺れた。
心配事といえば勝手に庭園を潰すことを決めて、園丁のダンと母上が怒るかもしれないというところだろうか?
けれどやはり僕の独断では決められないと言ったリカルド兄上の言葉で、この話はここ最近こまめにエッフェンヒルド領を訪ねている父上達が戻るまで保留となる。
言い出したのは自分のはずなのに、リカルド兄上のその決定に安堵している“情けない”僕がいた。
その後兄上と一旦別れて屋敷に戻ると、珍しく慌てたアルターが僕を見てホッとしたように「ダリウス様にお客様が訪ねて来られております」と言う。もしかして王都の聴講生仲間に頼んでおいた品物を、誰かが代表して届けてくれたのだろうか?
首を捻りつつ着替えを済ませて応接室に向かえば、そこで僕を待っていたのは思いも寄らない意外な人物だった。
「……ダングドール様?」
部屋の中で用意された紅茶に優雅に口を付けて「おや、訪ねてきたのがボクでは不満ですか?」と片眉を上げた宰相の息子に大きく首を横に振る。
けれど何故ここに彼がいることの理由が分からず困惑している僕に向かい、女性的な美貌の相手は王都から持ってきたらしい荷物の中から、大きな袋を持ち上げるとそれを僕へと放り投げてきた。
慌てて受け止めると相手は面白そうに唇を持ち上げる。
「それの中身は屑石に有志で魔力を込めただけの魔法石なので、実質無料ですよ。少額のお金などより今の状況では役立つでしょう?」
その説明から何を読み取れば良いのか分からない僕は、袋と彼を交互に見比べた。すると彼は物分かりの悪い僕に呆れた風に溜息をつくと、かけていた来客用のソファーから立ち上がり、目の前まで歩いてきて立ち止まる。
「友人の代理がボクでは不服でしょうがね? そうそう、ついでにイザベラ嬢から貴男への預かり物を持ってきて差し上げましたよ」
――――その言葉に、瞬間的に身構える。
僕の身体が強ばったのを見て取った彼は無言のまま、小さな包みを胸ポケットから取り出すとそれを差し出し、僕の掌に載せた。ジッと見つめる彼の前で開いた包みの中身を見て……僕は突然地面が失せたような感覚を味わう。
けれど僕が何とか外交的な体裁を整えて“それ”を届けてくれた礼を述べるよりも早く、彼は薄い唇を開いてこう言った。
「さて、それではそろそろ……本題に入りましょうか?」
――と。




