*幕間*あの香りの正体は。*ハロルド*
今回は三馬鹿の脳筋代表(*´ω`*)
「このマドレーヌわたしの手作りなんですけれど……ハロルド様、もしご迷惑でなければ、受け取って下さいませんか?」
そうほんのりと頬を染めたアリスによってオレの目の前に差し出された、綺麗なキツネ色のマドレーヌ。ふんわりと焦がしバターの香りがオレの鼻をくすぐった。
あぁ、やっぱりこの匂いは……間違いない。三年前にも嗅いだことのあるこの香りをした食べ物の正体を、オレはずっと探していた。この香りがする食べ物と、目の前で小首を傾げて微笑むアリスを。
オレは馬鹿だから分かんねぇけど……完璧な所作とどんな時でも崩れないこの笑顔を、どれだけ努力して身につけたんだろうな?
らしくもなくちょっと感動して、マドレーヌを受け取る時についまじまじと眺めちまったら、アリスの頭越しに目があったクリスの唇が《馬鹿。見過ぎだ》と動いた。
慌てて自分の人相の悪さを思い出したオレが、短い礼を言ってアリスの手から小さなマドレーヌを受け取ると、アリスは「受け取って下さって良かったです」とはにかんだ。
その飾り気のない素朴な笑顔を、ずっと正面から見てみたかったオレは、一瞬その破壊力に危うく手にしたマドレーヌを取り落とすところだった。
アリスはそれに気付かずに、今度はクリスの方へとマドレーヌを持って行くが、クリスは差し出されたマドレーヌとアリスとオレを一連の動作でサッと確認すると「ハロルドに恨まれるのは面倒ですし、婚約者が最近お菓子作りにはまっていましてね」と苦い表情で断りやがる。
オレが“おまえが勝手に妙な気遣いするな”と視線で噛み付くと、それを見たクリスの薄い唇を少しだけ上げる。これはこの間あいつの婚約者に余計なこと教えたのがオレだってバレたか?
でも仕方ねぇだろ。オレは毎回この強面にめげずに、おまえの情報収集をしようと頼ってくるガキを泣かす趣味はねぇんだ。むしろオレの方がおまえの婚約者と良く喋ってるくらいだろうが……!
と、いうような感情を視線に込めてクリスに向けるが、あの野郎涼しい顔してアリスに「代わりに紅茶をお願いしても?」と頼んでいやがる。女慣れしてる奴はああやってすぐに方向修正をはかれて羨ましいもんだぜ……。
紅茶を頼まれたアリスが頷くと、肩口で切り揃えられたダークブラウンの癖のない髪がサラリと揺れた。
オレはそれを見ながら、ふとアリスを初めて見た日のことを思い出す。
確か三年前はまだ男みたいなショートカットだったってのに……まさかたったの三年程度でこうも化けるとは意外すぎだろうが。そのせいで学園で声をかけられるまでずっと気付かなかったぞ。
あの日は城勤め中のクソ親父が珍しく久々に直々の稽古を付けてやるだとかで呼び出されたんだが――行ってみたらただの見合い話。
そういう話が追々出るのは頭じゃ理解してても、当時のオレには顔も声も知らねぇ相手と結婚しろと言われてもいまいちピンと来なかった。
オレがおかしいのかと思ってクリスに訊いても『結婚は契約です。所詮は家同士の繋がりですからね』と呆れられるし、アルバートの奴は今と違ってメリッサ嬢とは冷戦状態。
クリスみたいに割り切れなかった失敗例が幼なじみの一人にいるオレには、相手として選ばれる娘も可哀想だと思った。
一応この国の騎士団長を代々輩出しているクライスラー家は、元を辿れば大昔戦場で傭兵から成り上がったノラの血筋だ。そのせいか未だに貴族でない相手との婚姻もする。
血筋に拘らねぇのは現・当主のクソ親父にしたってそうで、お袋はオレに自分のことを多くは話さないが、要はそういうことだろう。
ただ、だからといって家族仲が悪いかといえばそうでもなくて、むしろ普通に良い。この場合大事なのは身分でも出自でもなく、クリスの奴には鼻で笑われたが……オレは“愛してる”かどうかだと思ってる。
お袋がいつも『アタシの出自でアンタが悪く言われたらごめんね。でもどうしてもあの人との子供が欲しかったのさ』と笑って言いやがるから、オレはそうそう気にしねぇ。
けどクリスやアルバートみたいな、根っからの上流階級の奴等は立場が全然違うだろうとも理解はしてる。
まぁともかく――……あの日つまんねぇ騙し討ちをされたオレはかなり苛つきつつも、普段のように屋敷に戻るついでに裏通りやらの治安を確認しながら帰宅するところだった。
当時は騎士団見習いとして出入りさせてもらってたオレは、ガタイに恵まれていたので同年代の見習いは当然のこと、正規の騎士団員の中でも技量の優れた古参以外に敵う奴はいなかった。
だから街に出るのも基本は自由。
うちの家訓とも言えねぇ決まり事は“家の迷惑になるようなことをしない”ことと“他人に迷惑をかけないこと”。
そして最後に“どんな負け戦であろうとも国の為に戦って死ぬこと”だけの簡単な三箇条を守れば、大抵のことは許されたしな。
当時幼なじみ二人と連めない日は、城での訓練の帰りによく治安維持紛いのことをしていたオレにも好んで通る道があった。それがこのマドレーヌの香りが漂ってくる小さな孤児院のある通りだ。
好物は多いが甘い辛いに特に拘りはなかったオレにとって、素朴なバターの甘い香りがする孤児院の通りは魅力的だった。
おまけにその孤児院は小さいながらもいつも子供の楽しげな声が絶えず、たまに見かける責任者も優しそうな初老の女性で、例え本物ではなくともきちんと家族だ。
そういうところも含めて気に入ってる道だったんだが――その日はいつもと違い孤児院の表で取っ組み合いの大喧嘩をする子供と、オロオロと仲裁する初老の女性の姿があった。
しばらく様子を見てたものの、力が拮抗しているのか終わる気配がしない。かと言って部外者のオレが下手に手を出したら後でまた揉める。
けど流石に五分待っても決着が付かねぇとなると、これ以上は見ているだけ無駄だと思って止めに入ろうとしたんだが――。
『あはははは!! アンタ達馬っ鹿じゃないの~? せっかく姉ちゃんが沢山お菓子焼いてあげたのに、何で一個も食べる前から揉めてるの? 食べちゃったらまた焼いてあげるじゃん』
そう言うが早いか突然その場に現れた、どう見ても華奢な男にしか見えない“姉ちゃん”は、掴み合いの喧嘩をしていた子供二人の脳天に流れるような拳骨を落として、泣き出そうと開けた二人の口に何かを突っ込んだ。
そのまま反射的に口の中の物を咀嚼し始めた二人の子供が、段々と笑顔になっていくのを見て、口に突っ込まれたのがこの喧嘩の原因となったこの匂いの正体なのだと知る。
そんなに美味いのかと気になる一方でオレが目を惹かれたのは、貴族の女とは違って顔一杯に笑顔を浮かべるショートカットの少女だった。
少女はそのまま二人を引きずるように中で心配していた子供達の元へ連れ戻り、初老の女性を労るようにして迎え入れるとドアを閉じる。
その直後にまた弾かれたような笑い声が辺りに響いて……その日からオレの中では甘い香りと少女はセットになった。
その一件があってから前より気に入った道になったそこは、けれど半年ほど通う内にあの甘い香りと“姉ちゃん”を見かけることはなくなる。
何となく気になったオレが責任者の女性に訊ねると“姉ちゃん”は本当の家族が引き取りに来たとだけ嬉しそうに教えてくれて、当時は胸に穴が空いたような気分になった自分が後ろめたく感じたもんだ。
その後、何度か足を運んだところであの甘い香りと“姉ちゃん”を見ることはなくなり、オレも幼なじみ二人の付き合いで学園に途中から通うことになっちまったから、あの日の話はもう終わったものだと思うことにした。
――――なのに今、オレの掌にはあの日の喧嘩を止めた、甘い香りの焼き菓子がある。
不意に視線を感じて掌の焼き菓子から顔を上げれば、それを合図にしたみてぇにクリスとアルバートが近寄って来た。
「それで? 記憶の中の香りのお菓子を手に入れた気分はどうです?」
あの日のことをこの二人に話したことは一度もないのに、クリスはさも当然のようにそれを言い当てた。
一瞬驚いたオレの隣で、逆に驚いた表情になったアルバートが呆れたようにクリスの言葉を引き継ぐ。
「……お前はいつもあれだけ甘い香りを付けて帰ってきていたのに、自分で気付いてなかったのか?」
「やれやれ、香りが身体に染み着くまで佇んでいるのが騎士団長の子息で、その上無自覚とはいえストーカー行為とは……世も末ですね」
あからさまに煽ってくる幼なじみ二人に挟まれたオレは、内心“お前等も大概だろうが”と感じつつ、掌にあるキツネ色のマドレーヌを一口齧る。
口の中でホロリと解れたマドレーヌからは香ばしいバターと、あの日の記憶の味がした。




