*25* 僕はとんだ大馬鹿者だ。
クリス様のような、本来なら僕が一生関わることのなさそうな上級貴族まで巻き込んだ、あの放課後の追いかけっこからすでに三日が過ぎた。
しかもクリス様ほどの上級貴族に頭まで下げてもらう大事になるとは……。本来高位の貴族が平民に毛が生えた程度の下級貴族に頭を下げるなんて、あってはいけない。
下手をすればクリス様は家督を継ぐ器になしと放逐されるか、代わりに彼の世話役が現・家長――この場合は宰相に殺されるかもしれない危険な行為だ。高位貴族のああいう狂った風習はどうにかならないのだろうか?
クリス様には悪いけれど、上級貴族社会の敬意の評し方は田舎者の僕には荷が重すぎる。はっきり言って怖い。
――……本当にあの場に誰も居合わさないで良かった。王都は面倒な悪習がまだ生きている分、田舎で自然を相手にするのとはまた違った苦労があって胃が保たないよ……。
けれどいま何よりの問題は申し訳ないけれどそこじゃない。
まだイザベラの誤解を解けていないのが最大の問題なんだよ……!
何故解けないままかといえば、イザベラがあの放課後の話をしようとする僕から逃げ回っているからなんだけれど。まさか放課後まで逃げられるようになるなんて大誤算だ。
これが少し前までなら逃げる僕を追うイザベラだったのに。この三日間で今までと全く逆の立場になってしまったなぁ――。
イザベラの気配は近くに感じるんだけれど、肝心の姿を現してくれないのだ。それが気になってこの三日間は講義を受ける時も少し身が入らない。
聴講生仲間も僕がぼんやりしているのが気になるのか、やたらと食べ物を差し入れてくれる。そんなに餌付けされても……僕は皆から見てどんな食いしん坊キャラなんだ。
今日も午前中に養蜂をやっている聴講生仲間から、彼の奥さんお手製の胡桃と蜂蜜のナッツクッキーをもらってしまった。聴講生は歳も性別もバラバラだから結婚している人も少なくない。
さっきからもらったナッツクッキーが紙袋の中でふんわり甘く香って、朝食を食べたはずの胃袋を刺激してくる。
でも講堂の中で食べる訳にはいかないので、今は次の受講枠まで暇があるから、一度カフェ・テリアでコーヒーでも飲みながら頂こうかと思って移動しているところだ。
広い校内もあと二十日くらいしか見られないので、目に焼き付けるように心持ちだけどゆっくりと歩く。
辿り着いたカフェ・テリアは、まだ時間も早いのでほぼ次の枠を待つ聴講生しかいなかった。その聴講生もチラホラいるな程度で、基本的にガランとしている。
僕は注文したコーヒーを片手に、何となくいつもイザベラが昼食をとっている席に座ってみた。そこからぐるりと見渡すと、カフェ・テリアのほぼ全席が見える。柱の影まで見える見通しの良さは凄い。
しかも人で溢れる昼食時にこの席の周辺に人が座れば、ここは周辺から全く見えなくなるのか。後ろにとられた大きな窓ガラスに触れてみると、ほんのりと温かくて、こんな部分にも魔法が取り込まれているのだと感心する。
よくよく見れば外気温との差があるはずなのに曇っていない。小さい子は絵が描けなくてつまらないだろうけど、大人や老人にはありがたい設計だ。
「あぁ……夏の暑さも冬の寒さも関係ないのか。こういう技術欲しいなぁ」
ぺたぺたと窓に触れながら思わず声に出してしまった僕の耳に、ふと近くから誰かが小さく笑う気配がした。
僕はまだ通常の学生は講義を受けている時間だと頭では理解出来たのに、勢い込んでその気配がした方向を振り返る。
するとそこには、いつもはぼんやりしている僕の思いがけない勢いに驚いたビオラさんが立っていた。失礼にも溜息が出てしまった僕に、ビオラさんは「あ~……待ち人と違ってごめんなさい」と眉を下げる。
一瞬ある意味三日前の勘違い事件の関係者であるビオラさんを同じ席に呼んで良いものか考えたものの、彼女に非はなかったし、この場で呼ばないのも何だかおかしいかなぁ……?
そもそも彼女はイザベラがその……ヤキモチを(妬いてくれたと思って良いんだよね?)感じるような相手ではない。むしろそんな勘違いをしていたら怒られると思う。
ちらりとビオラさんの手にしたトレイに視線を移せば、丁度彼女も早めの昼食か、遅めの朝食をとりに来たみたいだ。席はどこもまだガラガラだけれど、一人で食事をするのは味気ない人かもしれない。
そこでまで考えてから一応「もしよろしければご一緒しませんか?」と声をかける。ビオラさんが頷いたのを確認してから、礼儀として彼女のかける椅子をひく。
けれど僕の引いた椅子に照れくさそうにかけようとしたビオラさんが、僕がさっきまで見ていた大きな窓ガラス越しに何かに気付いたようで、一瞬全ての動きを止めてある一点に視線を集中させている。
ちなみにこのカフェ・テリアは校舎の棟によっては、窓越しにここの生徒の姿が見えるので、昼食時には待ち合わせがしや――……。
「ねぇ、あそこに見えるのってもしか「どこの講堂のある棟ですか!?」
僕は非礼だけれど、まだ言葉を続けようとしているビオラさんの声を遮り強引に話に割り込むと、察したビオラさんが「選択授業の棟は、えっと……技能の座学を受けてる講堂の真上よ!」と慌てて教えてくれるけれど……。
あぁもう、よりにもよってさっき僕がいた講堂の真上じゃないか!
自分のタイミングの悪さに何てことだと頭を抱えそうになるも、ビオラさんに短く礼を述べて踵を返す。
いまはまだ一般生徒は受講中だけれど、イザベラの手紙の内容に照らし合わせるなら、選択授業はイザベラが最も抜け出しやすい講義だ。気分が悪いとでも言えばあっさり取り止めになってしまうかもしれない。
ここでイザベラに勘違いされたまま逃げられてはもう、僕が王都にいる間に誤解を解けなくなってしまう!
焦ってカフェ・テリアの席の間を縫いながら走る僕の背に「忘れ物ぉ!」と、ビオラさんの困ったような声が追いかけてくるけれど、僕はその声に振り返りもせずに叫ぶ。
「ご迷惑でなかったら、お子さんにでも持って帰ってあげて下さい!」
あぁ――……すみませんビオラさん。これでイザベラを逃がしてしまったら、しばらく僕に接近しないで欲しいです。
***
途中階段を二段飛ばしで駆け上がったおかげで心臓と脇腹が千切れそうに痛むけれど、何とか講義終了の鐘が鳴る前に選択授業の講堂前に辿り着くことが出来た。
問題はこの中にイザベラがまだいてくれるかどうかなんだけれど……。真面目な婚約者のことを信じてその場で講義終了の鐘を待つ間、上がりきった息を整える。
まだ寒い季節だとはいえ、校内は基本的に魔法で適温を保たれているから汗だくだ。イザベラに会うのに汗臭いだなんて最悪だけど……今はそんなことを気にしている場合じゃないよなぁ。
僕は仕方なく上級貴族しかいない学園内ではみっともないけれど、上着とベストを脱いで腕にかける。それでもまだ暑いので、シャツの一番上のボタンを外して袖を捲った。
うぅ、汗が目に入って凄く染みる……! 仕方なく眼鏡も外して手の甲で目を乱暴に拭う。
領地で皆と汗を流すには問題のない格好だけれど、ここではとんでもなく浮いてしまう“平民”の格好だ。もしもイザベラ以外の人に見られたら、嘲笑されるのは分かりきっている。
けれどそんなことは僕にとってはどうでも良い。それは僕への嘲笑であってイザベラを傷付けるものではないからだ。
僕にとって最も重要なのは、いつだってイザベラだけで。その彼女を誤解させて悲しませたままでいるくらいなら、いっそそんな自分は死んだ方がマシだと思う。
――――呼吸を深く、吸って、吐いて。
丁度呼吸が整った頃に鳴り出した講義終了の鐘の音に、せっかく落ち着いていた鼓動が早まる。
鐘が鳴り止むまで後、――さん、――に、――いち。
目の前で勢い良く開いた扉の向こうに現れた、僕の真面目な婚約者。その名前呼ぶ前に、驚いた彼女が逃げ出してしまわないうちにと、僕はすかさず手を伸ばしてイザベラの身体を引き寄せた。
瞬間視界が紫紺の波に覆われて、小さく悲鳴をあげたイザベラが腕の中に収まった気配がする。眼鏡を外したままでも分かるイザベラの感触に心底安堵した僕は、思わず“情けなく”その耳許に懇願した。
「……ごめん、イザベラ。もう少しだけ、このままで」
手紙でなら一週間だって待てたのに、見える範囲だと三日避けられるだけで驚くくらい心が弱る。
“どうせ来年には会える”
“領地に戻ればずっと一緒だ”
“だからこの王都の学園にいる間くらい会えなくても大丈夫”
そんな考えがこの一瞬で呆気なく霧散してしまうくらい、僕はイザベラが大好きらしい。
だから腕の中で小さく頷いてくれたイザベラも、どうか同じ気持ちでいてくれますように。




