*24* 涙と誠意。
ついさっきまで額に、頬に、ダリウスの掌の体温を感じていたはずなのに……気が付けば私は涙で歪んだ視界に酷く動揺しながら廊下を走っていた。
本当に今さら自分でも驚くけれど、私は……ダリウスが他の女性と親しげにしている姿に耐性がなかった。彼の隣にはいつも私しかいないものだと、勝手にずっと思いこんでいたの。
でもいくら何でも嘘でしょう?
何なのこれは、お話にならないくらいに駄目駄目だわ!
昼食時にあんなに堂々と切った啖呵も虚しく、私はダリウスの前でみっともなく取り乱してしまった。
あのままあそこで女の武器を見せてダリウスを呆れさせるくらいなら、いっそ再戦の時を窺って一時戦略的撤退をするべきだと――……言い方を格好良く取り繕ったところで要は結局逃げたのよね?
ダリウスの性格からして追いかけて来てくれそうだから必死で走ったわ。昔は私の方が彼より断然足が速かったんだもの。きっと逃げ切れますわ!
ただ運のない時というは本当に運のないことが続くもの。私は勢い良く曲がった廊下の角で最悪な人物とぶつかり、無駄だと思いつつも口止めをしていたら、逃げてきた方角からダリウスが私を呼ぶ声が――。
予定より追い付かれるのが早いわ。ダリウスったらいつの間にそんなに足が速くなったの? こんな時でもなかったら惚れ直してしまいそうよ。
慌てる私の様子に最悪な人物は溜息を一つ、すぐ傍にある柱の影を指差してそこに隠れるように指示した。
「おや、どうしました? 何かお急ぎのようですが」
……結果的に言って、弱っていたからという理由だけで素直に指示に従った私が馬鹿でしたわね。
ここからでは顔が見えないけれど、どうせいつもの胡散臭い微笑みを浮かべているであろう、冷たい声音でそうダリウスに告げるクリス様。
突然頼んでおいて何ですけれど、せめてもう少し心を込めて言いなさいよと柱の影で息を殺してそう詰った。
僅かに乱れた息を整えるダリウスが、一度眼鏡を外して額にかかった前髪を煩わしそうにかき上げる。珍しく見せた男性的な表情に、もう少し近くに寄って見たいという欲求が沸き起こった。
昔は丸みを帯びていた子供の額は、スッと角ばった大人の男性の額になっている。そういえばキスをする時に余程のナルシストでもなければ、わざわざ前髪を上げたりしないものね?
今なら長兄のリカルド様みたいにオールバックにしたら、意外と似合うのではないかしら。骨格が似ているから意外といけそうだわ。
「……そうですか……お見苦しいところを見せてしまって、すみませんでした」
私が現実逃避と若干の性癖に負けている間に、クリス様とダリウスの間で簡単なやり取りは済んでしまったのか、ダリウスは上位の相手に対する礼を取ってあっさり引き下がってしまうところだった。
あまりに素直に引き下がってしまう彼を見て、自業自得とはいえほんのちょっとだけ寂しいけれど、これでもう隠れていなくても良いわね。私がダリウスが立ち去る靴音を頼りに柱の影から出ようと気配を探っていると――ふと何を思ったのか、クリス様が喉の奥で笑って、言った。
「いいえ。後から貴男が追いかけて来ると知っていたら、ボクも泣いている彼女を呼び止めておけば良かったですね。彼女には嫌われているので、一瞬声をかけるのを躊躇ってしまった」
その言葉にせっかく踵を返して立ち去ろうとしていたダリウスが、ふと動きを止めた。
「何故彼女が泣いていたのかなどは、ボクにとってはさして興味のあることではありません。けれど今日の昼食時にカフェ・テリアであれだけ見事な啖呵を切っておきながら、泣いて帰ってくるのは少々意外ではありましたが」
余計なことを語り出しそうな雰囲気に身を堅くする。
これはもしかしなくとも――この間のカフェオレの仕返しをここでするつもりなのね? どこまで陰険な男なの……!!
そんな男の手を借りようとした愚かな自分に対する怒りに震えていると、両者は再び向かい合った姿勢に戻ってこの場での話し合いを続行することにしたようだわ。
「もしよろしければですが……イザベラがその時なんと言っていたのか、お聴かせ願えませんか?」
「別にそれは構いませんが……先に、この間のボクに対する非礼を詫びてもらえますか?」
はぁ? この上いったい何を言っているのこの人? あれはどう考えてもそちらが悪かったでしょう!?
ダリウスも絶対に謝らない――、
「そういうことでしたら分かりました。僕はどうすれば? この場で膝を付けば良いですか?」
そう言うや否や、すでに膝をつく体勢に入りかかっているダリウスを制止する為に飛び出そうとした私の視界の中で、信じられないことが起こる。
ダリウスが膝を付いたのを確認したクリス様が、同じく床に膝を付いてダリウスと向かい合った。そうして床と同じくらい冷たい声で「……この時季の床は冷たいですね……」と言って身を竦める。
私は思わずその背中を凝視してしまったけれど、今や視線の高さが同じくらいになってしまったダリウスに見つかる危険性が出てしまうから、気になるものの柱の影にぴったりと身を隠して息を殺す。
柱の影で聞き耳を立てていると「お先にどうぞ?」と皮肉っぽいクリス様の声が聞こえ、それに対して「先日は身の丈に合わない無礼を侵してしまい、誠に申し訳ございませんでした」と凛としたダリウスの声が続く。
私のせいなのだから謝らないでと思う半面、私の為にそこまでしてくれる彼の心が嬉しい気持ちがない交ぜになって胸の中で暴れ回る。忘れかけていた涙が込み上げてきて鼻の奥がツンとするわ。
そこで一度言葉が途切れ、柱の影から少しだけそちらを窺うと、頭を深く下げているダリウスが見えた。それを見た途端心臓が痛いほど暴れて、止めてと叫びたくなる。
クリス様はジッとダリウスの下げたままの頭を見ていたかと思うと、肩にかかった髪がサラリと揺れて、小さく頷いたように見えた。実際「もう良いですよ」と声をかけ、私はダリウスが頭を上げる前に柱の影に身を潜める。
そこから再び耳を傾けると「な、お止め下さいダングドール様! 僕のような家格の人間にそんな――、」と狼狽したダリウスの声。あんまりその声に焦りが含まれているものだから、何が起こったのか気になった私はほんの少しだけ柱の影から顔を出した。
――するとそこにはさっきのダリウスと同じように、頭を深く下げているクリス様の姿があって……頭を下げられているダリウスは動揺しているせいでこちらに気付かない。
時間としては五秒か十秒程度のことだったのに、私と……恐らくダリウスの中でのクリス様に対する評価が少しだけ変わった。
「さぁ、これであの日の出来事は精算出来ましたね? あれ以来メリッサ嬢と昼食が出来ないとアルバートが煩いのですよ。貴男から明日の昼食時にはアルバートと一緒に食事をとってやるように、メリッサ嬢に言っておいて下さい。頷いて下さるなら、イザベラ嬢の啖呵の内容もお教えしますよ」
そう言うと先に優雅に立ち上がったクリス様は、ダリウスが頷いたのを確認すると、立ち上がるように促す。これで視線が元のようになったから、私も少しだけ顔を覗かせられるわ。
そしてクリス様はややわざとらしく咳払いを一つすると、舞台に立つ役者のような動きを交えて今日の昼食時に私が放った啖呵を語る。事細かに詳細を語るクリス様の背に殺意を投げかけていると、それを聞いていたダリウスの顔がどんどん赤くなっていった。
……お、怒っているのではないわよね? 違うわよね?
あとあんなに真っ赤になったダリウスを、真正面から見ているのが私ではないのが歯痒い。私の中でのクリス様の評価が再び下がりそうだわ。
すっかり拗ねた気分で二人のやり取りを最後まで見ていた私はけれど、クリス様の話を聞き終えたダリウスの視線が一瞬だけ、私の隠れている柱の方に向けられた。
私は慌てて少しだけ覗かせていた顔を引っ込めて、柱の影に同化しそうなほど密着する。
そっと今度は大人しく耳だけで様子を窺えば「おや、物陰に何かいましたか?」と含みのあるクリス様の声がして。
継いで「僕は黒猫が好きなんですよ。だからどんなところに隠れていても気配で分かるんです」とダリウスの笑みの混じった声が聞こえる。
……校内で黒猫なんて見たことがないけれど……ダリウスがああ言うくらいなのだからどこか近くにいるのかしら? キョロキョロと周囲を見回してみても、猫の気配なんてどこにもないわね?
一人で首を傾げている私の耳に「今日は怖がらせてしまいそうですから、また明日にでも構わせてくれると良いのですが」とダリウスの声が届いて。
交代に「さぁ、どうでしょうね? 猫は気紛れですから」と少しだけ温かみのあるクリス様の声が聞こえた。
「それでは」という言葉を最後に、今度こそ立ち去るダリウスの靴音が聞こえなくなるまで柱の影でジッと隠れていた私に、クリス様が「もう出て来て良いですよ」と声をかけて下さる。
恐る恐る柱の影から姿を現した私に向かって、クリス様が廊下に掲げられた灯りを指差す。その意味が分からず首を傾げる私に向かい、溜息を吐いたクリス様は今度は足許の影を指差した。
まだ春には届かない冬の日差しは影を濃く残すには至らないけれど、夕闇が近付く校内に明々と灯された魔法光では――。
私はいつの間にか灯されていた魔法光の明かりに気付かないまま、柱の影に隠れられているつもりでいた。その、つもりで、いた、けれど……。
「今日のように一度隠れてやり過ごしてしまうと、次に顔を合わせるのは気まずいでしょうが……明日から頑張って下さいね?」
そう呆然としている私の肩をポンと叩き、とても良い微笑みを残してクリス様も立ち去った。私は一人取り残された廊下の柱に寄りかかりながら、長く伸びた自分の影を見つめて悶絶したわ……。




