*23* 何で怒って……え、まさか?
放課後のカフェ・テリアでイザベラを待つ間に、ザッとテーブルの上に今日聴講させてもらった講義の内容を書いたノートを広げて内容を読み込む。
一つ一つの法則だとか魔法の構成、その成り立ちなどは書き込んでみたところで僕には全く分からないけれど、イザベラの見ている世界のほんの少しでも知ることが出来たら良いと思って書き記してある。
とはいえ目が悪いので、後ろからでは講堂の前にあるボードに書かれる文字を追うのは難しい。けれど喉に拡声魔法をかけてくれているお陰で、何とか耳で講義内容を拾い集めてノートに纏めることが出来ている。
今日取った講義は【食と土~魔法でなせる開墾と、その代償~】。
要するに都市部で不足している農業従事者の手を借りずに、大規模農園や農場を作るという試みと成果と優位性、そしてそのことで新たに生まれる雇用の危険性……といった実にうちの領地経営にとってお誂え向きの内容だ。
王都の学園ともなれば色々な分野がある上に、この一週間はかなり有意義な情報を聴講生という立場から、学生と違って好きなように取捨選択が可能だというのも良い。
ただまぁ、一つ問題があるとすればイザベラがいつもと違って手の届く場所にいると言うことだけかなぁ……。ついイザベラに構いたくなって勉強に来ていることを忘れそうになってしまう。
兄上と父上に“お前は勉強する為に領地を離れるんだ。分かるな?”という露骨すぎる釘の刺し方をされたからしっかり学ばないと。
でもイザベラが隣にいるときにノートを開いたって、隣が気になって内容が頭に入ってくるはずもないから、仕方なくこうして待ち合わせの時間に復習をしてしまうことにしている訳だ。
それにイザベラの到着より早めにノートを片付けておかないと、内容を見たイザベラに次に受ける講義の傾向を知られてしまう危険性がある。チラッと覗いただけで分かるとかどれだけ有能なんだ。
そして週に三回くらいある、自由選択講義を一緒に受けようとして偶然を装ってついて来るのがまた可愛いんだけど――……あれは本当に困る。
万が一隣の席に座られでもしたら集中出来ないだけじゃなくて、僕程度の男でも婚約者に選んでもらえるなら自分達も――! となる男子生徒達が初日の時点でかなりいたんだよなぁ……。
婚約者の僕が隣にいてはイザベラの価値が下がる。この学園の男子生徒達より財力でも能力でも、勿論顔でも劣っている僕だから、イザベラが僕を選んでくれた理由が未だに良く分からない。
基準が人よりもだいぶ優しいんだろうなとは思うけど、僕はイザベラが初めて婚約者として目の前に現れたあの日、子供心に“あ、これは絶対断りに来たんだ”と思った。
正直当時は今の僕よりどこか冷めた部分のある子供だったから、貧乏貴族の三男である自分のところに来るお嫁さんは可哀想だと感じていたし、結婚が無理なら屋敷を出て、領地内にある空き家をもらって移り住もうと考えていたくらいだ。
だから断られると分かっていても心は穏やかで、むしろこんな綺麗な子がいるのかと見惚れる余裕があった。
まるで辛い冬から解放された春が一斉に芽吹かせた花が、これでもかと咲き競う季節に負けないほど鮮烈に。イザベラという女の子は、今まで見た花の中でも一番綺麗な花だった。
一瞬あの日の出来事をぼんやりと思い出していたら、不意に開いたノートの上に影が落ちる。咄嗟にイザベラが来たのだと思って勢い込んでノートを閉じようとしたら――、
「わわわっ!? ご、ごめんね、エスパーダ君! まさかそんなに驚くとは思ってなくて――」
そうかけられた、イザベラの声とは違う女性の声にノートを閉じかけていた手を止める。
「……あぁ、なんだ……ビオラさんだったんですか」
取り乱した姿が恥ずかしくて苦笑混じりに聴講生仲間の名を呼べば、彼女は「あの……本当にごめんね?」と元々小柄な身体をさらに縮こませて謝ってくれた。
僕と同じ聴講生のビオラさんは王都の中に店を構える粉屋の五代目で、この学園では主に農業系の講義に良く顔を出している。
というのも、彼女の家の仕事柄仕入先の土地の状況や天候不順の際に小麦が不作になった際、その仕入先から入荷が滞るから他に土質が似た土地を探しておいたり、お世話になっている農家の土壌回復を手伝わなければならないからだ。
両者共に家でやる仕事の内容が似ていたこともあり、こちらで聴講生として講義を受け始めた二日後くらいには打ち解けた。ちなみに他の聴講生仲間も大工や養蜂などを家業にしている気の良い人が多い。
「いえ、僕が勝手にイザ――あ、と、知り合いと間違えただけですから。そんなに謝らないで下さい」
危うくイザベラの名前を出しそうになって言い直す。ビオラさんは僕とイザベラのことを知らないから、わざわざ関係を説明しなくても良いだろう。
特に知られて拙いとかではないけれど、イザベラと僕を関連付けて憶えて欲しくない。イザベラの婚約者がこんなに冴えない男だと知られたくないからな!
イザベラの経歴の傷になる。あともう三週間しかないけれど、それだけは絶対に避けなければ。
内心でそう決意を固めていたら、ビオラさんが何か言いたそうにチラチラと僕とノートを見比べていることに気付く。そこでふと、そういえば今日のこの講義にビオラさんの姿がなかったことを思い出す。
「あの、違ったら別に良いんですけど……もしかしてビオラさん、今日この講義に出られなかったから、誰か校内にまだ残ってる聴講生でこの講義に出てそうな人を探してました?」
僕がそう訊ねると、ビオラさんは顔を赤くして「う……そ、そうですぅ」と小さな声で白状した。
「はは、やっぱり。それならもっと普通に声をかけてくれたら良いのに」
「あ、うん、そうなんだけど……仕事で抜けられなかったとはいえ、講義に出てもないのにノート貸してだなんて、都合良すぎるから……」
そう言ってしょんぼりとうなだれた真面目なビオラさんを見て、思わず“そんなことはない”と口を開きかけた。
――――そのとき。
「えぇ、そうですわね。普通に考えたら都合が良すぎると思いますわよ?」
今度こそ聞き覚えのある声が僕とビオラさんの間に割って入った。しかし当然イザベラを全く知らないビオラさんにしてみれば、突然バッサリと自分の非を切り捨てられたのだから困惑している。
しかも何故だか現れた瞬間から不機嫌さ全開だし……。
「えぇ、と……イザベラ、その、今日の講義はもう全部終わったの?」
不機嫌になるとその魔力特性上一気に周辺の温度を下げるイザベラのせいで、適温を保たれているはずのカフェ・テリアは、たったの一瞬で小春日和から冬の朝と変わらなくなってしまった。
「あら、おかしなことを聞くのねダリウス? 勿論全部終わったからここにいるのですわ。それに――何をそんなに慌てていらっしゃるの?」
絶対零度の怒りを湛えた凄絶な婚約者の微笑みに、こんな時だというのに見惚れそうだ。意外な自分の心臓の強さに軽く驚く僕と違い、ビオラさんは蒼白になっている。
まぁ、普通はこうなるのか。顔立ちの整ってる人間の怒りに慣れている僕と違い、ビオラさんは普通の感覚の持ち主のはずだし……。
そこで取り敢えず何か嫌なことがあった様子のイザベラに話を聞こうと席を立ち、まだ呆然としているビオラさんには「そのノートお貸ししますから、次の講義の時にでも返して下さい」と言いおいて、怒りの氷結オーラを纏っているイザベラをカフェ・テリアの端まで連れて行くことにする。
けれど不思議なことに席から離れれば離れる分だけ、イザベラが纏っていたオーラは薄まって、カフェ・テリアの端に連れて行く頃にはすっかり僕達を取り巻く空気は普通の温度に戻っていた。
さらにカフェ・テリアにいる生徒達から隠れるように壁際に移動した僕は、さっきから扇を握りしめたまま無言で俯いているイザベラの様子を窺う。昔から一度こうなったイザベラは絶対に自分から口を開かない。
僕が不機嫌な理由を言い当てるまでは絶対にだんまりを貫き通す。そこがまたちょっと猫っぽくて可愛いんだけど、言ったらさらに怒るから余計な二乗はしない。
まず始めに熱の有無を確認するためにイザベラの形の良い額に掌を当てるけれど、伝わってくる体温は至って平熱。次に頬に触れて涙で濡れていないかを確認。これも違う。
少し離れて頭の上から爪先まで汚れていないかの確認。そういえば昔はたまに僕が知らない間に転んで怪我をしたりしてたなぁ。
外部から確認出来る範囲では、別にこれといって体調不良になっていそうな予兆はない。僕がまだ他に何かないかと首を傾げていると、それまで俯いてだんまりを続けていたイザベラが、本当にギリギリ聞こえるくらいの小さな声で呟いた。
「……どうしてあの人には……あんなに簡単にノートを見せるの?」
僅かに震える声にようやくハッとした僕がその華奢な肩に手を伸ばすより早く、イザベラの夜色の髪が横をすり抜けていく。
慌てて追いかけようと――そう思ったものの、このまま追いかけてイザベラを連れ戻せば、また講義に一緒に出たいと言い出しかねないかも……?
そんな風に――ほんの一瞬まともに働きかけた心の天秤は、けれど。
あっという間に倒れてしまったので、僕は無駄な抵抗を諦めてイザベラの駆けていった方向へと飛び出した。




