*10* ミントキャンディー。
今回はダリウスが帰っちゃうのでちょっぴり長め。
私としたことが――……油断したわ。
昨日はあの後、無事に二人の追跡をかわして街へと観光に出掛けられたものだから、それに気を抜いて今日も同じルートを使ったのが良くなかったわね。
「お初にお目にかかります、メリッサ嬢にアリス嬢。僕はイザベラの婚約者のダリウス・エスパーダと申します。お二人のお話はイザベラからの手紙でかねがね聞き及んでおりましたので、本日はお会い出来て良かった」
「あら、田舎の出身だと聞いておりましたけれど……存外ご丁寧な方ね? 手紙のわたくし達はどんな人物だったかお訊ねしても?」
「はは、僕の婚約者の名誉の為にもそれはどうかご容赦下さい」
私は昨日と同じ手口で学園の校門から抜け出してダリウスと落ち合う約束をしていたのだけれど、二人が昼食時に呼びに来なかったことで昨日のことを気にしているのだと解釈していたのに――まさか先回りされていたなんて。
そもよくよく考えなくても、この二人に限って気後れだとか気遣いなんて繊細な感覚を持ち合わせているはずがなかったのだわ。
彼の方は彼の方で、二人に挨拶をしたいからと私が出てくるまで律儀に自己紹介をしないで待っていた。貴族同士で階級差や性別の違いがある場合は、その両者を知る人物が間に入って紹介する習わしがある。
領地の辺りではそんな面倒な風習はすっかり廃れてしまっていたから、暢気なダリウスが憶えていたことが少し意外で、ほんの少し誇らしかった。
種明かしをしてしまうとすれば、多分真面目で誠実な彼のことだからこちらに来る前にマナー教本を一夜漬けしたのだろう。……私に恥をかかせることがないように。
最初のマナーさえしっかり押さえておけば、ダリウスは意外と物知りで会話を続ける才能がある。それは偏に彼が領地内の領民達と額に汗して同じ仕事をこなし、土にまみれて語り合うから。
貴族の顔も農民の顔も出来る。どちらの内情にも精通しているからどんな会話にも対応出来るのだ。ダリウスは彼が自分で思うよりずっと得難い才能を持っている人だわ。
だから領民達もダリウスのことをエスパーダ家の三男としてよりも“自分達が昔から知っている近所の子供”のように扱う。
それが曲がりなりにも貴族としては褒められたことでないのは分かっているけれど、私はそれで良かった。そしてそれは彼もきっと同じ。
けれど――……昔からあのたまに見せる外交用のマナーをとる彼を見ていると胸がざわつくわ。私の彼を覆い隠して知らない人物のようにしてしまう。
先程からもう十分ほどメリッサ様の私への追求を、ああしてのらりくらりと無礼ではない程度にかわしている。
「ふふふ、宜しくてよ。ではちょっとお訊ねしたいのだけれど――……」
「あぁ、そういったお話でしたら多少は僕にも憶えが――……」
どうやら会話は私のことから違うものへと移行したようだけれど、急に二人で声を潜めて話し始めたものだから正直面白くないわ。眼鏡の奥の榛色の瞳が私以外の人相手に楽しげに細められるのは見たくないのに――。
「ねぇねぇ、イザベラの婚約者って何だか思ってた感じよりも結構しっかりした人だね?」
急に隣からダリウス達との会話に参加せずに、成り行きを観察していたアリスが私にそう声をかけてくる。声の感じからして多分に私をからかおうとする魂胆が透けて見えていますわね……。
「……そうかしら? “私の婚約者”は領地ではこれといって目立ったところのない暢気な人ですわよ。あなたの好みの殿方とは少し違ったタイプじゃないかしらね?」
素っ気なくそう言って扇で口許を隠す。例え内心ではアリスに対しての警戒を最大級に高めたとしても。
というか、私に借りがあるからどんな事でも手助けすると言ったのに……何を考えているのかしら?
「わたしイザベラに目を覚ましてもらうまでは、ずっと男爵家に世話になるつもりなら家にとって良い条件の男の人……権力とか見た目とか重視だったけど、ああいうタイプの人も割と――」
「駄目よ!!!」
からかっているだけだと分かっているアリスの言葉に、けれど一瞬カッと頭に血が上って、自分の声だとは到底思えないようなほど大きな声が出た。
隣で目をまん丸に見開いているアリスは勿論のこと談笑していたメリッサ様とダリウスも何事かとこちらを振り向く。一斉に三人分の視線に晒された私は扇で口許を隠すことすら忘れていた。
「――アリスさん、アナタ、イザベラさんをからかうにしても雑でしてよ?」
呆れた様子で眉を顰めて最初に口を開いたのはメリッサ様だ。
「はーい、ごめんなさい。だってそっちでお喋りに夢中になってしまったから、つい退屈になっちゃって。ね? イザベラ?」
次いで全く悪びれた様子のない表情で心のこもらない謝罪を口にするアリスを睨みつけたのは、メリッサ様も私もほぼ同時だったのではないかしら。
今度こそ扇で口許を隠してメリッサ様と二人してアリスを睨みつけていたら、そんな私達を見ていたダリウスが行儀良く微笑みかけてくれる。いつもとは違う“よそ行き”の笑顔だわ。
「彼女がそんな風に感情的になるところは、僕も領地では見たことがありませんでした。この学園へ来て、得難い友人に出逢うことが出来たようで本当に良かった。僕も彼女の両親に良い報告が持ち帰れそうで安心しました。お二人共これからも“僕の婚約者”をよろしくお願いします」
そう言って、深々と二人に対して少し古風な礼をとるダリウス。領地の彼の屋敷の本棚にあったマナー教本は、確か彼のお祖父様の時代に発行されたものだった気がするわね。
最後の最後でハリボテ感を晒してしまった彼だけれど………………許してあげないことも、ないわ。
最近のマナー教本しか知らないアリスはダリウスの骨董級の礼にキョトンとしていたけれど、流石にメリッサ様は「随分と典雅な礼をいたみいりますわ」と同時代の礼を返してくれた。
そうすることでダリウスの礼の古めかしさをそれとなく諭して、彼が恥をかかないようにこの場をおさめてくれた手腕はお見事ね。ダリウスもそれに気付いて「慣れないことはするものではありませんね」と照れたように苦笑したけど、そんなことないわよ。
その後、私をからかい飽きたアリスとメリッサ様は、午後からの私の病欠を教師に伝えておくと請け合って昼休みの校内へと戻って行った。
二人の背中を見送って校門に残された私達は、どちらともなく手を繋いで、ひとまず昨日のように街へと向かうことにする。ダリウスは今日の夕方には領地へと出立してしまう。
――――私は、まだ、離れたくないけれど。
ここに出てくる旅費は私達の領地で得ようとすれば、それこそ領主の息子であってもかなりの労働をしなければならない。
ダリウス自身が昨日寮に私を送り届けてくれたときに、
『本当は三日滞在出来るまで頑張りたかったんだけど、どうしても途中でベラに逢いたくなって』
と、照れくさそうにずれてもいない眼鏡を押し上げる仕草をして、私の大好きな榛色の瞳を隠してしまった。ダリウス、いつもそんな眼鏡の上げ方しないでしょう? 手の甲しか見えなかったじゃない……。
それに、知っているわ。
だって、私もだもの。
私もあなたに逢いたくなって、その度に必死に勉強するうちにいつの間にか学年一位だわ。田舎貴族の娘がこんなに目立つようになってしまったのよ。どうしてくれるの?
「……ふぅ……せっかく慣れない言葉遣いも何とか気取られずに済んでたのに、最後の最後で失敗したなぁ。ごめんねイザベラ」
私の八つ当たりめいた胸中など全く察しもしないで、そういつもの笑顔に戻ったダリウスが私の手を握り込んで微笑んだ。ザラリとした指先とその表情に、何故か泣きたいような気持ちになる。
「ねぇ、さっきメリッサ様と楽しそうに何を話していらしたのかしら?」
ダリウスが領地に帰ってしまう時間までそうないのに、私はいつものようにツンとした可愛げのない態度を取ってしまう。すると何がおかしいのかダリウスは眼鏡の奥で目を細めた。
穏やかな彼の淡い微笑みを目にすると、いつでも攻撃的だった言葉が萎えるのよ。けど知っているわ。あなたがそんな風に笑うときには、絶対に何も教えてくれないのだと言うことくらい。
結局絡められた指先に誤魔化されてしまう私も私なのだけれど。
街へ出た私とダリウスは昨日と同じように気の向くまま、足の向くままに街中の商店を覗き込んだり、時折雑踏に混じって授業をサボって抜け出した学生がいないかを見回る指導員の目をかいくぐってフラフラしたわ。
案内が出来るほどこの王都に慣れ親しんでいる訳ではない私とダリウスは、それなりに釣り合いのとれた“田舎者”だった。
二人して言葉にはしないけれど、王都の目抜き通りにある大きな時計塔の針の位置を意識しながら、何も知らないふりをしてはしゃぐ。けれど――時計塔が六時の鐘を鳴らしたとき、私とダリウスの魔法は解けてしまった。
「――寮まで送るよ、イザベラ」
溜息のようにそう囁いたダリウスの手を握りしめたまま、思わず私は俯いて立ち止まる。往来の端に寄ってはいるけれど、それでも急に立ち止まった私は通行の邪魔になるわ。
それでも、分かっていても足を動かす気になれない。私と肩がぶつかった通行人の男性が一瞬こちらを凝視してから通り過ぎる。邪魔だと言いたいのかしら?
するとそれを見たダリウスが通行人から庇うように私の肩を抱き寄せて、往来端の建物の壁際に連れて行く。私はそんな彼に幼い子供みたいについて行った。
けれど壁際まで辿り着いた直後にダリウスがフッと笑う気配がして、私は彼のそんな余裕のある素振りに若干ムッとして顔を上げたけれど――。
「あーあ、離れたくないなぁ――……」
そう言って眼鏡を外したダリウスの優しげな榛色の瞳が近付いてきて――私の唇に彼の唇がソッと重ねられた。それはほんの一瞬のことだったけれど、私には数時間くらいの出来事だったように感じて……。
「ベラは、不用心だよ」
そう、何のことだか分からないことを口にしたダリウスが、拗ねたような表情を浮かべて私の鼻の頭をキュッと摘まんだ。
その後どこをどう通って寮の前まで帰って来たのか全く記憶のない私に向かって、ダリウスは「それじゃあ、イザベラ。また冬期休暇にね」と微笑んで何食わぬ顔で領地へと帰って行った。
呆然とその背中を見送る私に残されたのは――ダリウスが私を待つ間に舐めていたらしいミントキャンディーの微かな香りと、その夜、急に出た幸せな知恵熱だったわ。