117 星神教
星神教――それは星神ステラを唯一神として崇める大陸最大の宗教団体だ。
ネルトゥス公国に総本山を持ち、平民を中心に多くの信者を抱えている大規模団体でもある。
信仰の中心はネルトゥス公国だが、900年以上もの歴史を持つため、大陸全土に信者が存在する。
その影響力は強く、王侯貴族たちでさえ無視は出来ない存在だ。
そんな星神教だったが、長い歴史の中でいくつもの宗派が生まれており、一枚岩ではなかった。
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宗派の違いを語るには、まず彼らが掲げる教義について知る必要があるだろう。
教義の根本は、三つの聖典を主軸として成り立っている。
それらは三大聖典と呼ばれ、表向きは星神ステラが記した書だとされるが、実態は異なる。
そもそもステラは書物をほとんど残してはいない。
ほんの僅かな例外にも、人の道を説くような内容など欠片も存在してはいなかった。
三大聖典は、星神教が成立する過程の中で生み出された、いわば創作物であった。
現在ではそれも何度となく改変が繰り返されており、各聖典毎に様々なバリエーションさえ存在する。
だがその元となった書物を書き記した人物は存在した。
それがステラの弟子にして忠実な従者たる始祖ネルトゥスだった。
星神教そのものを創設したのは彼女ではなかったが、その礎は彼女が築いたと言えるだろう。
それほどにステラを慕い、崇めていた。
その想いはステラの封印後に暴走し、ついにはその存在を神格化させるまでに至る。
その具現化こそが三大聖典であった。
それらの概要を簡単に述べれば以下のようになる。
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第一聖典――星神の御業。
そこには教訓めいた逸話が数多く記されていた。
民衆が良き行いをすれば、星神ステラが御業を振るって大いなる実りをもたらしてくれる。
話の内容自体は多様ながら、しかしそのオチは大体同じ場所へと行きつく。
善行を行えば、星神の祝福が与えられる、ただそれだけの事を延々と述べていた。
聖典の中で描かれるステラの御業――例えば一晩で枯れた荒野を若木の生い茂る草原へと変えた――などは全てネルトゥスがその目で見た確かな真実ではあった。
しかしそれが為された理由については、ほぼねつ造と言っても良かった。
ステラは民衆の細かい行いについてなど、一々興味を示したりはしない。
虚実の入り混じる嘘の聖典だったが、なまじ真実の成分が多分にあるせいで説得力が増したのか、あるいはネルトゥスに優れた文才があったのか……。
この聖典の教えは当時の民に広く親しまれ、星神教が大陸中に浸透する一因となった。
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第二聖典――星神の帰天。
この聖典では、主に民衆の愚かさとステラの偉大さとの対比が描かれていた。
民衆が犯した罪を、星神ステラが慈悲深い心を持ってその尻拭いを行う。
そんな内容の逸話が、手を変え品を変えてひたすらに書き綴られていた。
だが星神から受けた数多の恩義を民たちは忘れ、ついにはステラから見放されてしまう。
そうして星神ステラは星々が煌く天へと帰っていく。そんな内容で締めくくられていた。
また聖典の中で愚かな民衆とされた者たちだが、実は他の始祖たちの暗示であった。
敬愛するステラをその姦計によって失ったネルトゥスは、彼らの事を内心では酷く恨んでいた。
この聖典の内実とは、いわば婉曲な愚痴の羅列であり、同時に鬱屈した感情の発露でもあった。
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第三聖典――星神の再臨。
こちらは他の2つと少々趣の異なる内容が描かれている。
端的に言えば、それは預言書に近かった。
星神ステラに見捨てられた大地が今後どうなるのか。
魔導技術の衰退や千年長城の崩壊などに触れながら、待ち受ける昏い運命を物語っていた。
同時にその闇を打ち払う術にも触れられていた。
それこそが聖典の主題である"星神の再臨"であった。
星神が眠る聖地――ステラ魔導院の解放を。
そうしてステラの再臨を果たす事。
それこそが人々は救済される唯一の道だと、そう記されていた。
その為の第一歩として、言葉を濁しつつも各国の王権破棄が何度となく記されている。
ネルトゥスの子孫たちが、決して王位を名乗らず公爵の称号に拘るのも、この事が原因だと言われている。
他2つの聖典が一応ながら現実に基づいて書かれていたのに対し、こちらはネルトゥスの妄想成分が9割を超えていた。
しかし千年長城の崩壊など、一部には現実に起こり得る危機を織り交ぜて書かれていたせいで、それがただの妄想だとは判別し辛いのがこの聖典の厄介な点だ。
解釈の問題も大きいのだが、ただの妄想が結果としていくつも的中してしまっており、その事実がこの聖典の神秘性、重要性を大いに高める事となった。
ネルトゥスとしては、ただ己の理想の未来を書き綴っただけに過ぎなかった。
しかしそれらは種々の思惑から聖典として扱われ、後世に多くの混乱をまき散らすこととなったのだ。
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このような3種の異なる聖典を崇める星神教の信者たちだったが、人によってどの聖典を重要視するかに違いが存在していた。
そしてその違いこそが宗派の分裂へと繋がった訳だ。
最初に別たれたのは第一聖典を重視し、その教えによって大陸に平和をもたらそうと考えた一派だった。
彼らは純粋にその教えに感化された者たちであり、星神ステラが与える恩恵よりもまず自身らが善行を積む大切さこそを重視した。
いわば純朴な者たちの集まりであり、なまじ良識的な存在であったがゆえに、他派から駆逐される運命にあった。
第一聖典派――あるいは穏健派とも呼ばれる彼らだが、現在の信者数は数少なくその勢力もまた年々衰えつつある。
現在の星神教において主軸とされるのは、星神教右派と称される者たちだ。
彼らは三大聖典に記された内容を都合の良いように解釈しつつ、第三聖典によって提示された星神ステラの再臨を成し遂げる事で、人々の救済を目指す勢力であった。
信者数の大半を占める彼らだが、その内実は更に大きく2つに別れていた。
一つは再臨遂行派と呼ばれる一派だ。
彼らは大陸中に星神教の教えを広める事で、人々から理解を得たうえでステラ魔導院の解放、そしてステラの再臨を目指していた。
それだけ聞くと穏健な団体にも思えるが、残念ながら周囲からはそう思われてはいない。
彼らの教えの広め方は強引そのものであり、かつステラ魔導院の解放や各国の王権破棄を唱えており、特に貴族たちからは忌み嫌われる存在だった。
そしてもう一つは建国派と呼ばれ、現在の星神教内では最大の派閥となる。
ステラの再臨を目指し、ステラ魔導院の解放や各国の王権破棄を提唱している点では再臨遂行派と同じだったが、しかし一つ大きく異なる点がある。
それは彼らが自らの手で国を興そうとしている点だ。
星神教が治める国家を打ち立てて、そこに信者たちの理想郷を作り上げる。
それこそが彼らの目的だった。
その内実――特に上層部の多くは世俗に塗れた醜悪な者たちの集まりであり、自分たちが新たな支配者へと成り代わろうとしていた。
表向きには再臨したステラをその王として迎えるとしていたが、上層部はそのような事など望んではいない。
彼らにステラの再臨を目指す意志などなかった。
建国派が最大勢力を占める現在の星神教は、始祖ネルトゥスの願いから大きく外れた存在だ。
そんな彼らの存在を許しがたく思っている人々もまた数多く存在していた。
その筆頭こそが、ネルトゥス公爵家であった。
◆
窓一つない執務室にて、長たる責務を果たす若い女性が存在した。
桜色の長い髪を後ろで纏め、ゆったりとした着物を身に着けて執務に勤しんでいる。
「ああ、姉上。打ち合わせの方はどうでしたか?」
入り口の無いこの部屋に訪れる者は一人だけ。
その気配に気づき、特徴的な真っ黒の眼球がそちらへと向けられる。
そこには彼女と良く似た――顔だけではなく瞳や髪の色、背丈、纏う着物の柄までそっくりの女性がいた。
「そちらは概ね順調よ。それよりも封印の方はどうなってるのかしら?」
彼女たちの目下最大の関心事――これまで維持管理を続けていた御神体の封印解除であった。
その精神の解放を確認した彼女たちは、その作業を急いでいた。
「解封率はまだ20%にも満たないですね。もう少し時間が掛かりそうです。何分急な話でしたし、再封印からまだ5年ほどしか経っていませんので……」
御神体の――ステラの肉体は、その保護と盗難防止のため普段は厳重に封印が施されていた。
あまりに厳重すぎて、その解除には封印した本人たちでさえ長い時間を要するほどにだ。
「そうね。でも出来るだけ急がせなさい。我らが父祖――ステラ様をあまりお待たせする訳にはいかないわ」
「ええ、分かっています。あの方に再びこの大陸を統べていただく。それこそが我らが始祖――ネルトゥス様の望みですからね」
そう呟く女性は当代のネルトゥス公爵――ツバキ・ヘルツォーギン・ネルトゥス。
そしてツバキが姉上と呼ぶ女性は、先代のネルトゥス公爵にして現一巫女――カエデ・グレイス・ネルトゥスだった。
2人は始祖ネルトゥスの願い――ステラ再臨を果たすため、ずっと影で暗躍していた。
それこそが連綿と続くネルトゥス公爵家たっての悲願だからだ。
そんな最中、2人はステラの精神が一人の少女に宿ったとの情報を入手する。
かつてツバキが目を付けていた候補者の一人だった。
その少女――エステルと接触しその事実を確認したカエデは、ネルトゥス公爵家が代々保管していたステラの肉体、その封印解除を指示する。
「ステラ様をお迎えする前に、この大陸を一度清めておく必要があるわ。簒奪者たちなど、ステラ様の治世には必要ないものね」
思わぬ形で目的が達せられつつある現在、彼女たちの行動目標は他の王たちの始末へと向けられていた。
元々その果てにステラの再臨を成し遂げる予定であったため、行動方針に大きな変化は生じていない。
それされもステラが肉体を取り戻しさえすれば、どうにでもなる話ではあるのだが、そのような些事に煩わせたくはない。
彼女たちはそうも考えていた。
「ええ、ですが私たちにそれが為せるでしょうか?」
「……8割方は問題ないと思うわよ」
ツバキのそんな問いに対し、カエデは冷静な判断に基づきそう返す。
外法に手を染めながらも、長きに渡り力を蓄えてきたネルトゥス公爵家。
単独では確実に他国を圧倒出来るほどの力を秘めていたが、しかし全てを敵に回すには僅かばかりに不安があるのまた事実だった。
「……サクラがまだ不完全なのが残念ですね。あの子の教育が完了していれば、もはや憂いなど無かったのですが……」
サクラ――サクラ・グレイス・ネルトゥス。
ツバキの妹にして娘の名だ。
齢4歳にして既に2人を上回る魔力を有した強力な魔導師だが、その若さ故に経験不足は如何ともし難かった。
「そうね。あの男――聖王アレクシスさえいなければ、もっと事は簡単だったのに……」
カエデが恨みがましい声でそう吐き捨てる。
「ユングヴィが独立した事で、多少はその戦力も削られるのでしょうが……」
「さて、それはどうかしらね……。あのアルヴィスとかいう男。思った以上の愚物みたいよ。このままだと早晩滅ぶわね、あの国」
双聖国から独立を果たし、新たにユングヴィ聖王国を建国したアルヴィス。
だがリーンハルトに逃げられた事で求心力を失い、その治世は早くも行き詰まりを見せていた。
「今にして思えば、独立などさせない方が良かったかもしれませんね。ああいう輩は内患として捨て置いた方が、逆に被害は大きかったかもしれません」
アレクシス側としては彼が反旗を翻したことで、その始末が容易になったとも言える。
一連の独立騒動は短期的には双聖国にとってマイナスに働くだろうが、中長期的には内患が一掃できる絶好の機会とも言えた。
双聖国の力を削る目的でその分裂を画策した彼女たちだったが、担ぎ上げたアルヴィスの愚劣さ無能さは想定外であったのだ。
「やはり神ならぬ私たちでは何事もままならないものね……。ああ、ステラ様の再臨が待ち遠しいわ」
「ええ、その日が本当に楽しみです」
始祖ネルトゥスのステラに対する憧憬の念は、子孫たる2人にも着実に根付いていた。
そして2人は星神の再臨を迎えるべく、その舞台の調整へと奔走する。
前半は星神教に関する解説でした。
なるべく短くまとめたつもりなのですが、それでもこの分量に。
分かりにくかったらごめんなさい。
後半はこれまでちょこちょこ出ていた2人の姉妹についての正体ばらしです。
正体はネルトゥス公爵と前公爵でした。ツバキ=誘拐犯、カエデ=鎌をくれた人、です。
同時にステラの肉体の在処もしれっと判明。
次回からは、彼女らと星神教に関するエピソードとなります。




