scene5 激変
午後の授業があったのかなかったのか、そんなことすら曖昧なまま放課後を迎えると、私はいつも通り教室に取り残された。そこでやっと、失意以外の感情が一つだけ蘇る。
――寂しい。
この状況で、ここまで寂しいと思ったことが、今までにあっただろうか。私は教科書をカバンに詰め込む気にもなれず、いつもの男子三人組のくだらなくも楽しそうな会話を背中に浴び続けていた。
しばらくすると、自分の中に連呼される一つの言葉があることに気がついた。
世界よ変われ。
こんな世界は変わってしまえと、半ば乱暴に、半ば無気力に。次第に私の手はブレザーのポケットへと伸びていき、昨日から入れっぱなしになっていたお守りを握りしめる。中に何が入っているのかは分からないけれど、金属のような硬い感触が手のひらを刺激した。
昨日は、いや今朝だってあんなに疑っていたのに。結局こんなものに縋るだなんて。こんなものに縋るしかないだなんて。
世界が変われば良いと思った。だって、どうしても自分は変われなかったから。
世界が変われば良いと思った。だって、こんな世界では寂しすぎるから。
世界が変われば良いと思った。だって、世界が変わらないとどうしようもないから。
――世界よ変われ。世界よ変われ。世界よ変われ。
はい願った。おまじない終了。効果はある?
背中に聞こえる雑談。どこかで笑い声をあげる孤独ではない誰かたち。方向を特定できそうで、そのくせ意識した途端にあやふやになる管楽器の音。
はたから見ればクールに、孤高に座っているらしい惨めな私。
ほら、変わらない。こんなものでは、何も。
何の意味もないお守りをポケットの中でぐっと握りしめる。私が愚かにも縋ろうとしたそれは何の抵抗もなく潰れてしまい、薄っぺらい布の感触だけが拳の中で虚しく残った。
「北沢さん、ちょっと良いかな」
強張った声に振り向くと、いつもアニメの話をしている三人組のうちの一人が席三つ分の距離で困ったような顔をしている。目にかかりそうな長さの前髪が丸い顔とミスマッチな彼は、確か、南川くん。大人しくて目立たないタイプで、私の認識としては、放課後になるとどこからともなく教室の後ろに現れてはアニメの話をしている、という程度だ。
「え……なに?」
「あのさ、魔女の練習曲って知ってる?」
言いたいことは言い切った、という表情の丸顔を見上げながら、私は少しの間言葉を失った。
「ああ、ええっと、知らないなら僕の勘違いで……ご、ごめん」
後ろの友達二人にもくすくすと笑われてしまうほど、彼のおどおどとした態度はなんだか可笑しくて、それなのに私がくすりとも笑うことができないのは――それどころか、気が遠のきそうになってしまうのは、
世界が変わったからだった。
「ピア……ニシモ?」
私がそう口にすると、南川くんの小さな目が重たそうな瞼の向こうできらきらと輝いた。
魔女の練習曲。一見おどろおどろしくも見えるこの文字列は、マスコットキャラクターである骸骨を連れた魔法使いの女の子が主人公の、可愛らしい絵柄をしたアニメのタイトルだ。
「ほ、ほら、知ってたじゃん、やっぱり!」
南川くんが振り返ってガッツポーズをすると、後ろの二人は驚いた声をあげながらこちらに集まってくる。
「昨日さ、マジョレンの話してたらこっち見てたじゃん。もしかしてと思ったんだよね」
急に高くなったテンションに着いていけなくて、そっか、と受け流す。マジョレンなんて言葉は聞いたことがないけれど、魔女の練習曲を省略したものなのだろう。
「北沢さんってアニメ結構観るの?」
「え、いや、あんまり。その……マジョレン? も、テレビつけたらたまたまやってて、なんとなく観たっていうか……」
「そうなんだ。何話ぐらい観たの?」
「えっと、四回ぐらい、かな。憶えてるのは、骸骨が主人公の子に呪いの話をする、とか」
「ホラー回!」
突然、南川くんの友達が大声を出した。ひょろりと細長い体格の彼は、確か、赤坂くん。その彼に、もう一人の友達である久米くんが「おまえテンション上がりすぎ」とチョップして、三人は同時に笑い声をあげた。
なんだか、三人の中で出来上がっている空気に溶け込んでいける気がしない。
「あの、骸骨。いいキャラだと思うよ」
なんとか話題を繋げるために、こっちから話を振ってみる。
「ああ、スタッカートね。おれもあいつ好き」
「マスコットキャラかと思ってたけど、戦ったら強かったよね、確か」
「そうそう! あいつ破壊魔法使えるからなあ」
久米くんが楽しそうに語りだす。ハカイマホウとやらは良く分からないけれど、自分との会話で盛り上がっている相手を見るのは、純粋に嬉しい。
「一期のは観てないの?」
裏返ったような声で、赤坂くんが久米くんの声を遮った。
「いっき?」
「えっと、ピアニシモが二期。無印が一期」
「あんまり覚えてないけど、私が観たのはピアニシモだったと思う」
「そっかー」
大きな声で短く発せられる声。ずっと声裏返ってるし、赤坂くんは喋るの苦手なのかな。
「二期は二期で面白いんだけどさ、ほとんどバトルものになっちゃってるから――ホラー回が好きなら一期の方が合ってるかもね」
別に、そのホラー回が好きだなんて一言も言ってないんだけどな。内心で苦笑しながら頷いていると、南川くんが急にテンションを下げて、さっき初めに声をかけてきたときのような顔になる。
「よかったらさ、ディスク持ってるから、貸すよ。きっと面白いから」
「でも、悪いよ」
「大丈夫。むしろ、見てみて欲しいし」
やんわりと拒否したことに気づいていないのか、南川くんは意外と押しが強い。貸してもらってまでアニメを観るのは面倒くさいなと思ってしまう自分がいるにはいるのだけれど、わざわざ断るのも悪いし、何よりも、誰かと共通の話題を持つことができるという予感は私に大きな期待を抱かせた。
「明日、一巻持ってくるよ。もし合わなかったら――そうだな、三話まで観て面白くなかったら、遠慮なく言って」
「うん、分かった。ありがとう」
会話の流れとして、自然と言うよりもいっそ予定調和的な返事を返すと、南川くんたちがおお、と歓声をあげた。
「あれっ。北沢さん何してるの」
三人のアニメ好きとは違う声。見ると、いかにも華奢そうなお下げのクラスメートが廊下から顔を覗かせている。彼女は私と目が合うと、南川くんたちに遠慮するようにただでさえ小柄な身を低くしながら教室へ入ってきた。
「ええっと、帰りの支度」
そうなんだあ。五人だけの教室に、遠慮のない声が響く。各務原さんは、小さくて大人しそうな外見とは裏腹に声が大きい、そんなキャラクターだ。
私の席の前までやってきた各務原さんがやはり大きな声でねえねえと言うと、男子三人組はそれに弾かれるようにして、じゃあまたなー、と立ち去った。
「あー、行っちゃった。邪魔しちゃったかな?」
少し抑えた声。大丈夫だよと返すと、そっかあ、という能天気そうな声が再び教室を震わせた。
「でさー、北沢さん、ちょっと用があるんだけどさあ」
そこまで言って、各務原さんは何かを思い出したように手を打つ。
「そういえば北沢さんと話すの、初じゃない? これは記念日だよ、北沢さん記念日。これから仲良くしようね、北沢さん」
「あ、うん」
どう反応すればよいのか分からなくて素っ気ない返事をすると、各務原さんは分かりやすくむくれた。
「あー、そういえば、それは今は置いといて、本題ね」
各務原さんは私の机に手を置いて、こちらを見下ろすようにした。声の大きさだけではない賑やかさに、この教室に私と彼女の二人しかいないのだということを忘れてしまいそうになる。
「北沢さんって部活やってないよね」
「うん」
「忙しいの?」
「ううん」
「だったら、今からベイバン行かない? あられシェイク食べようよ」
「あられシェイク?」
耳慣れないコラボレーションを思わず復唱してしまうと、各務原さんはなぜか得意げな顔になって、期間限定のチャレンジ商品だよー、と囁くように言った。
ベイバンか。見慣れた店構えを頭の中に浮かべると、気持ちが急に浮ついてくる。ベイカーズバンズ、略してベイバンは全国チェーンのハンバーガーショップである。各務原さんが言っているのは、駅前のお店のことだろう。
友達と学校帰りにファーストフード店に寄る。そんな些細な、ほとんど諦めていた高校生活の一幕が、とうとう現実になるのだ。
「新しい味を試したくってさ、部活ない子誘ってるんだよね。他にも何人かいるんだけど、来る?」
各務原さんはちょっとだけ顔を近づけて、くりくりとした双眸で人懐っこそうに言った。私は少し考えるふりをした後、うんいいよ、と涼しげに微笑みかける。
本当はすぐにでも二つ返事で駆け出したかったのだけれど、そんな態度をとることはなんだか恥ずかしかったのだ。
「すぐ済ませるから、待ってて」
なかなか進まずにいた帰り支度をいつになくてきぱきとこなしながら、全身がほかほかと高揚するのを感じていた。
世界が、変わった。間違いなく。
もう、昨日の相談室で感じていたような胡散臭さや恐怖は、思い出そうとすることさえ難しそうに感じられた。
お守りに、おまじないに効果があるのか、それともただの偶然なのか。そんなことにすら興味を抱く余裕もないほど、私の関心は一人ぼっちではない未来に向けられている。
どういうことだか分からないけれど、世界が変わってくれたのだ。それも、私に都合の良いように。
今、私の望んだ世界がここにある。それが全てで、だから、それで良い。
こうして私は、私の思うところの「一般的な学校生活」を手に入れた。
第一話 幕
第一話はここで終わりです。




