scene7 白い奈落
とりあえず、渡り廊下へと向かう。
と、
「おお、神崎じゃん」
高めの、脂の乗ったような、男声。
油断していた。渡り廊下の先は、三年生の教室のある棟だった。
足が止まる。咄嗟のことで、逃げることはできなかった。
咄嗟のことで、ということにした。
足が竦んだから、だなんて認めたくなかった。
声を出せずにいると、副部長は取り巻きを引き連れてこちらへ向かってくる。取り巻きは四人。一人は、演劇部の三年生。他の三人には見覚えがなかった。
「何やってんの、こんな所で」
副部長が声をかけたので、取り巻きの興味深げな視線が私に集まる。多くの生徒が帰る時間とは言え、別棟へ行くような者は少ないらしく渡り廊下の人通りはまばらだ。
固まっちゃってんじゃん、とか、知り合い?だとか、取り巻きの無遠慮な話し声が私のことを更に射竦める。
「おぉい、何か返事しろよ神崎ぃ」
気軽な感じで、親しい友達をからかうみたいな感じで、副部長が顔を覗き込む。覗き込まれてはじめて、私は自分が下を向いていたことに気づいた。
「こいつ、部活の後輩。なんか無視してくるんだけど。むかつくだろ?」
「お前がなんかしたんじゃねぇの?」
取り巻きの軽口。副部長が「なんもしてねえって」と笑うと、取り巻きもどっと笑い声をあげた。
「こいつ昨日突っかかってきたのにさあ、なんか今は被害者ぶってて意味わかんねぇよ」
笑い声。笑い声。
「あんた、また後輩にちょっかいかけてんの?」
女の人の声。思わず視線を上げると、見覚えのある三年生が副部長に呆れたような目を向けている。
あの人は――
「だから、そんなんじゃねえって」
副部長の、悪びれる様子もない口ぶりに、女の先輩はけらけらと笑いだす。
「ほどほどにしときなよ」
あの人も、よく副部長と一緒にいる先輩だ。
ここは、敵だらけだ。
「なあ神崎」
声が、近づく。
整った顔立ち。
すらりとした、大きな手、が。
「明日はちゃんと、部活来いよ」
肩に乗った。
暴力的に、掴むように。
「ていうかさ、今日は慧真と一緒じゃねぇの?」
全身に、鳥肌が立った。
ひときわ大きな、副部長の笑い声が、無力な私とすれ違って行く。
「神崎が相手してくんねぇから慧真探しに行くわぁ」
なに、それ。
ちょっと、待って。
出かかった言葉が、喉に引っかかって、出てこない。思い出す、昨日の感覚。涙が、反射的に溢れ出す。
待って。
言った方が良いのか。言わない方が良いのか。
見捨てた方が良いのか。
慧真を。
選ぶ勇気もなかった。
そんな私は、無力な私は、耐えきれなくて、その場でへたり込んだ。
副部長たちの視線が集まるのを肌で感じる。その視線は困惑であり、だけどすぐに好奇に変わった。
「おいおいどうしたんだよ神崎ぃ。調子悪いの?」
腕を掴まれて、無理やりに立ち上がらせられた。肩を貸してもらうかたちになった私は、制汗剤の香りに思わず息を止めた。取り巻きが副部長に対して、優しーだなんて茶々を入れている。
ああ、よかった。なんて考えた。慧真を見捨てることにならなくて、良かった。
「神崎」
耳元で、憎い声。恐ろしい声。
「昨日のこと、謝る気になった?」
優しい声。
私は、声が、出なかった。
謝ったらどうなるんだろう。
謝らなかったらどうなるんだろう。
嗚咽だけが漏れた。
「はっきりしろよ」
副部長の怒声は、たぶん、そう言っていた。
怒声とともに床に打ち捨てられた私の耳には、はっきりとは届かなかった。
「こいつ慧真より根性ねぇじゃん」
視界には、黄緑色をしたビニル製の床。床に広げられた自分の手。そこに、ぼたぼたと涙が降っていく。
慧真は、
これよりも嫌な目に遭ったのだろうか。
私は、これからもっと嫌な目に遭うのだろうか。
「せんぱい」
やっと声が出る。どうしようもなく、涙声。
「嫌なこと、しないでください」
どっ、と笑い声が上がった。
ああ、まったく、聞く耳を持たれていない。
なんて、なんて無力なんだろう。
床を見下ろす視界の縁に、先輩たちの脚が並んでいる。取り囲まれているんだ。
こんな場所じゃ、だめだ。
息が、詰まる。
鼓動が、早まる。
なんだって、こんなことになったんだろう。
答えは、分かっていた。答えを、思い出した。
無力じゃないからだ。私は。
頭の中で、何かがぶちんと断ち切れた。
「うわああああああぁぁぁぁぁぁ!」
叫びながら、取り巻きを掻き分けて走り出す。「待てよ!」という副部長の声とともに誰かの手が私に追い縋って、ブレザーが引き剥がされた。それでも、走った。
高三男子の脚は速い。すぐに追いつかれるだろう。捕まったら、酷い目に遭うかも知れない。いや、私はもう酷い目に遭っているし、あいつらは私を酷い目に遭わせようとしているんだ。
だったら。
渡り廊下の端で、私は振り向いた。
一瞬。ほんの一瞬で、彼らは私に追いつくだろう。そんな距離。
やったことはなかった。
やったことはなかったけど、できる気がした。頭の中で断ち切れた何かの代わりに、別の何かが繋がった気がした。精神は昂って、そして、笑えるほどに澄んでいた。
「ホワイトアビス」
だってほら、授業中に技名だって考えたんだ。
できるに決まってる。
精神を集中させて床と天井とを交互に睨み付けると、直径一メートルほどの穴が空間を穿ち、走って来た先輩たちはそこに吸い込まれるように落下した。
その瞬間の間の抜けた顔と言ったらない。
なんだ、やっぱり、間抜けだ、こいつは。
床の穴は天井に繋げていた。落ちたはずの副部長たちは、私の目の前で天井から振って来ると、再び床の穴に落ちていく。穴を閉じてやると、天井から二回目の落下を果たした五人組は、大げさな音をたてて床に叩きつけられた。
渡り廊下の向こうで、さっき私のことをあざ笑っていた女の先輩が悲鳴をあげている。
ああ、なんて、笑える。
私がこんなに強いだなんて。
慧真、これで私、あなたを守れるよ。
床で虫けらのように呻き声をあげている間抜けたちに背を向けて、私は頬を押さえて、それでも抑えきれない笑みを浮かべた。
第七話 おわり




