-boys side- scene3 告白
「ありがとうね」
放課後、皆が部活や家路に向かいだす中、矢野は潜めるような、しかしひそひそ話をするのには張りのありすぎる声で小さく頭を下げると、はにかんで首を傾けた。すぐに大原のことを言っているのだと分かったし、むしろ、いつ矢野の方から言及があるのかと、授業が終わるたびに気をもんでいたぐらいだった。
おれは何でもないふうに、白々しく、えっ、と疑問符を返した。それでもすぐに、あまりしらばっくれるのも不自然のような気がしてしまって、ああもしかして大原のこと、とやはり白々しく付け足した。
「そうそう。わざわざ朝早く来てまでやってくれるなんてさ、はらっぺ、喜んでたよ」
まるで自分が助けてもらったみたいに、本当に嬉しそうな顔。テンションが上がっているのだろうか少し上気した頬がうっかり目に入ってしまって、思わず唾を飲み込んだ。夏日に当てられているみたいに、喉が乾く。
「仲里くん、意外に優しいんだーって、びっくりしちゃったな」
「意外って、ひでえな」
照れ隠しのつもりで言うと、矢野ははっとなって口を押さえた。そこで初めて、矢野が手ぶらであることに気がついた。
「ええっと、いや、優しくなさそうってことじゃなくってさ、ほら、仲里くんってなんかムスッとしてること多いじゃん。だから、近寄りがたい雰囲気があったっていうか――」
「もっと酷いこと言ってねえか、それ」
笑いながらそう返して、心の中のどこかに一つ、氷のかけらが落ちるのを感じた。
ムスッとしてる。十分自覚はあったけれど、こうして人に言われることは初めてだった。そんな顔をしている自覚はあったくせに、矢野にそう思われているとは思いもよらなかった。だんだん、自分が今どんな顔をしているのかが気になってくる。
「矢野はさぁ」
顔を見られたくなくて、カバンの中を確認するふりをした。次の言葉を待つ矢野の息遣いが、耳の中に遠く聞こえた。
「近寄りがたいのに、おれに声かけたんだよな」
大原のために。ぼそりとそう付け加えた後に、はっとして目を向けた。窓際の、前から三つ目。いない。ああよかった、大原はもう部活に行ったんだ。
「あー、やっぱばれてたか」
「ばれてた、って、隠すつもりあったか?」
「いや、なかったけどさ」
「頼まれたのか?」
「まあね。仲里くんと話すきっかけが欲しいって言われて。はらっぺ内気だからさ」
想像していたよりもあけすけに話す矢野に驚いて、思わず彼女に目を向けてしまった。何でもないことを話すような――いや、彼女にとってはそういう面倒くさいことも、本当に何でもないことなのかも知れない――さばさばとした表情。悪気のない大きな瞳。
矢野は、こいつは、違うな。少なくとも、きっかけ作りのために友達を使う大原や、愚鈍で陰険な南川とは、確実に。
矢野が、机に置いたカバンを肩にかける。ああ、もう教室から出ていくつもりだ。
「あ、あのさ」
変な焦燥感に駆られて、小さな声で呼びかける。矢野が何かを言いかけていたような気がする。きっとそれは大原についてのことで、だからおれにはどうでも良いことだった。言葉を中断されても、矢野は嫌な顔を見せない。
「せっかくだから、おれは矢野と仲良くなりたい」
さあ、どうだろう、矢野の返事は。いや、考えるまでもない。仲良くなりたいという申し出に、ここまで話しておいてノーと返すようなやつがいるだろうか。少なくとも矢野に限って、そんな意味の分からない人間であるはずがない。とりあえずは仲良くならないと。仲良くなって、そしていずれはきっと、きっと、いや絶対におれは矢野を、矢野と――。
いつの間にか、教室は静かだった。淡く、夕陽と呼ぶにはまだ青い光が、窓側の机に白く反射している。矢野はどういうわけだか何も言わなくて、それはもしかしたら、おれの下心が見られてしまっているせいなのかも知れない。
一応、いろいろと言葉を選んだつもりだった。一瞬のうちに「どうせなら」を「せっかくだから」に言い換える配慮ができたという事実に、自分のことながらおれは酔ってしまっていた。だけどその自己陶酔が冷め始めてしまうほどには、矢野の無言は長い。
そんな気がした。
「矢野は、おれが」
耐えきれなくなって声を発した瞬間に、屈託のない矢野の笑顔が見えた。彼女の口が何か、おれの想像の範疇にあるのだろう言葉を紡ぎかけたのを悟って、おれはどうしようもなく後悔した。
その時にはもう、おれの頭は宙に浮いて、身体の、言葉の操作権を失ってしまっているようだった。
「大原と仲良くなってほしいって思ってるんだろうけどさ、おれは矢野の方がぜんぜん、良いと思うし、だから、何て言うかさ」
「ちょっと待った。待って」
言われた通りに黙ったのは、矢野らしくない細い声に戸惑ったからだった。カバンの肩紐を握ったまま俯く姿は、ほんの数分、いや数秒前に比べて信じられないほどに細い。
「それって、つまり、何?」
答えの分かり切った質問に、答えられない。そういうこと? と続けざまに尋ねられて、おれは無言で肯定した。
「ええっと、あたしさあ、そういうのあんまり慣れてなくって……だから、そういうことなら――そういう返事なら、ちょっと、待っててくれないかな」
「わかった」
どうしてそう応えてしまったのか、自分のことながら理解ができない。ここまでのやり取りを矢野の勘違いだったことにしようとすれば、まだなんとかごまかせたような気がしなくもない。ありがとう、と一歩下がるその姿は、なんだか更に細くなってしまったように見える。
「じゃあ」
明日ね。細い背中が教室から去っていく。ああ、と身のない挨拶のようなものを上ずった声で返した。何が明日、なのか。
さっきの、告白の返事か。
いや、そもそも、告白なんてしたのだろうか。
一言だって、好きだとも付き合ってくれだとも言っていないじゃないか、おれは。
本当に、今のは恋心の告白になっていたのだろうか。そう聞こえたのだろうか。矢野には、他人には、周りには本当にそう聞こえるような言い方だったというのだろうか。
周り。頭の中に浮かんだ言葉に、はっとした。ぞっとした。
周りを。教室内を見回す。
ああ、そういえば、いつも、あいつは。
目が合った。今、この瞬間に誰よりもこの場にいてほしくない人物だった。いつも、なぜか放課後の教室にたむろして、漫画だかアニメだかの話を同じような仲間とうだうだと繰り広げている、おれの大嫌いな男。
南川のぼんやりとした目が、おれの視線に気づいてぬるりと逃げた。普段目が合ったときよりも、随分と緩慢な動きに見えた。気のせいかも知れない。気のせいなのだと思いたい。思いたいということは、つまり気のせいなんかではないのだと、半ば確信しているのだろう。
聞かれていた。見られていた。これは、弱みだ。だから南川は、おれと目が合っても慌てなかったのだ。
ああ、なんて憎らしいんだろう。
頭の中で、何かが暴れるような気配がした。これまで南川に向けたことのない、向けることもあり得ないと思っていた感情が、頭に、指先に、つま先に溜まっていく。
なんだ、あの態度は。今まではいちいちおれの一挙手一投足にびびって、逃げるように隠れるようにしておれのことを苛つかせていたくせに。弱みを握った瞬間に、あんな舐めた態度を取りやがって。
こちらの視線に気づいたのか、ただならない気配を察したのか、丸顔が再びこちらに向いた。あの顔を向けられて喜びが込み上げてくるだなんて、初めてのことだった。おれはこれまでにしたことがないほどの機嫌の悪そうな顔を作って、腹の奥から笑いが漏れ出そうになるのをこらえながら、黒豆のような小さな目を睨みつけた。
南川は、目をそらした。
おれの視線にびびって慌てるはずだった南川は、なんだか面倒くさそうに、ゆっくりと、じっとりと目をそらしただけだった。それでようやく、おれは冷静になれた。
悔しい。何やら楽しそうにおれの知らない世界の話題に花を咲かせる丸い横顔が、無慈悲に敗北感を突き付けてくる。
あいつの態度に対して悔しがっているんじゃない。
自分自身が、ほんの一瞬でもあいつをびびらせてやろうと思ってしまったことが、悔しくて悔しくてたまらない。
おれはこれまでに一度だってあの男をびびらせてやろうとも、いじめてやろうとも思ったことなんかないのに、いつもあっちが勝手にこそこそと逃げるように避けるように振舞っていた。それが、憎らしくて苛立たしかったはずなのに。
それなのに今は、南川の思っている通りの人間になってしまっている。こんな、屈辱的なことがあるだろうか。
机に置きっぱなしのカバンを引っ掴んだ。自然と乱暴な持ち上げかたになっていたのか、机がずれてがらがらと大声で鳴いた。直す気にもならずにそのまま教室を後にする。見下していたはずの目に、終始冷視されているような気がした。




