第十四話 ~利害の一致と身の破滅~
そんなこと知っていますよ、と。橋原は平然と言ってのけた。
こいつは一体、今までにどれほどの感情を犠牲にしてきたのだろうか。狂っているんじゃない、これはもはや壊れていると言っていいほどだ。
橋原のつまらなさそうな表情が一変して、ぱっと無邪気な笑顔が広がる。
こいつの演技は何故か、わざとらしさに違和感を感じさせない。その部分だけは、俺もわりと素直に尊敬していた。
「…そんな狂人からのお願いですよ。君は断りますか?」
橋原はそう言って、にやりと笑う。
…こいつは俺が断れない立場であることを知っていて、わざとこんなことを言って愉しんでいる。
「内容にもよるだろう。」
俺の言葉は決して強がりではない。『お願い』とやらの内容によっては、この立場をひっくり返す事だって出来るかもしれないからだ。
「なんだ、あまり弱ってはくれないんですね。つまんないなあ」
「そんなことだろうとは思ってたが、…あんたって本当に性格悪いな」
意地の悪い笑みを浮かべる橋原に、俺は苦々しげに吐き捨てた。
「そんなことありませんよ。心優しい僕は、君にも少しだけメリットを与えようというのですから。」
さも愉快そうな表情のまま、橋原は袖口から細く巻かれた紙を取り出す。
そのメリットとは何なのか。よくは分からなかったが、俺はとにかく、早く自宅で休みたかった。
「…これは」
橋原が広げたその紙を見て、俺は暫し絶句した。
―――どういうことだ。俺にこんなものを信じろというのか。
その紙に描かれているのは、船のような物体だった。その上にでかでかと「HAKOBUNE」という文字が印刷されている。どうやら周囲には細かな文字で説明書きが添えられているようなのだが、それはこの大きなテーブルを挟んでの距離ではよく見えない。
「生き残るための、情報を。」
つかんできてほしいのですよ、と言って橋原がその紙を俺に渡す。
受け取ったはいいが、突拍子もない話すぎて詳しく確認する気すら起きない。
「ハコブネというのは、ノアの大洪水の時に一部の生物を救ったという乗り物のことか。」
「そうです。…例えこの紙切れがガセネタであろうとも、政府はこの地球がぶっ壊れた時のための、何らかの脱出の術を持っている。それは確かでしょう。だから、あんなにも無謀な宣戦布告だってできてしまうんでしょうね」
無謀な、というのがどのようなことなのか、今まで考えることを放棄していた俺には分からない。が、しかし、この話そのものが眉唾物だと思う。
「…信じていませんね?」
「当たり前だ。」
俺が即答すると、橋原はふっとため息を吐いた。
「おそらく君は、政府のことを本気で信用してはいないでしょう?…むしろ憎んでさえいる。」
俺は何も答えない。それは確かな、肯定の証だった。否定しようと無駄だろう。ここへ来てからというもの、こちらの考えなど全て筒抜けのようなものなのだ。
「だから、どうした」
「僕達と一緒に、政府に煮え湯を飲ませてみませんか?」
橋原は人差し指を唇の前に立てて、悪戯っぽく笑う。そういえば、河村も似たようなことを言っていた。
「…これを政府から奪取しようというのか」
「まあ、要約すればそういうことですね。理解が早くて助かりますよ。」
俺は少しだけ、考え込む。
政府のお役人共がこぞって蒼白な顔をしているところを想像したら、何となくいい気味だ、とも思えた。だが、それだけでは、計画遂行に伴うはずのリスクと釣り合わない。そもそもこの計画を信用するためのパーツなど、ひとつとして揃っていない。
…しかし、もしもこの話が本当なら。憎いったらしい政府に、復讐ができるかもしれない。
信用するに値するメリットとしては少し足りないが、俺の心は少しだけ揺れていた。
…どうすべきか。
俺は頭の中で、生き抜くための天秤に全てを乗せた。それが一体、どちらに傾くのか。いつだって俺は、そんな風にして生きる道を探し出してきた。
なやんでいるようですね、と橋原は妙に優しげに俺に言った。その猫撫で声に、ぞわりと身の毛がよだつ。
「…それではもう一つ、おまけをつけてあげましょうか。」
嫌な予感がする。否、俺はその後に言われるであろう言葉を予想していた。
―――駄目だ、傾いてしまう。
感情に押し負けて、危険が大きいほうに天秤が傾いてしまう。それは怖くもあったけれど、何故か妙に清々しいような心地良さも感じる。
冷や汗が出るような緊張の中、橋原は俺の目をまっすぐに見つめた。その視線に、一瞬にして射抜かれる。
「計画に手を貸してくれるのならば、僕は命がけで君を生き残らせてあげますよ」
ぐらり。
体までが傾ぐ勢いで、天秤の皿に重たいものが落とされる。
「…、そんなもの、」
要らない、と言おうとしたところで橋原に遮られる。
「強がらなくたっていいんですよ。」
「強がって、など…」
平静を保てない。それが悔しいのか、余計に俺の思考は纏まりをなくしてゆく。
嘘でしょう。橋原は、声に出さずにそっと唇の動きだけで俺にそう伝える。
―――…くそ、こいつはこの状況を余裕で愉しんでやがる。
立場が、違いすぎるのだ。心の中で、俺はそう言い訳を零した。
「そう言われて君が断るはずがないことぐらい、分かりきっていますよ。」
偉そうに言いやがって。吐き出す先のない苛立ちが、どんどん募っていく。それを掻き立てるかのように、橋原はゆっくりと、今日最高の嫌味な笑顔を浮かべた。
「だって…生きたいでしょう?」
そうだ。
…俺は、『生きる』ために、生きているんだ。
(それしか「生きる意味」がない)