愛しき心臓に贈るラプソディー
どこから話をするべきでしょうか。
何度もこの話をしていますが、毎回どこから話をするか悩んでしまいます。
物語自体は至ってシンプルなものですが、物語といいますとやはり最初のエピソードで観客の心を掴まなければなりません。次の話を聞きたくて子どもたちが何度も袖を引っ張るようなわくわくとするファクターが必要不可欠なのです。
それは愛しき女王様が悪者にさらわれたり、貧乏な少年が魔法の剣を手に入れたりといった若い人々の心を掴むさわり。それだけでも心踊るような至極のエピソード。
ですが、今から話す物語にそういった要素は残念ながら含まれていません。
なにせ私の実体験ですからね。道中でピエロに会うことはあっても、魔女に会うことはありませんでした。
すでに興味を失いましたか?
そう退屈そうにしないでください。やはり何の変哲もない話はお子様にとってあまり面白くないように思えます。ですが、安心してください。なんといってもこの話には私が出てきます。生粋のエンターティナーこと私が登場人物となり、ステッキを剣に戦いを繰り広げ、歩く足取りはさながらミュージカル。美人と恋に落ちては、持ち前のパフォーマンスで観客と両方の喝采を得られましょう。
いや、そこまで露骨に嫌がらないでください。
私だって努力しているんですよ。
こんなところで幾ら話を披露してもたいていは暗くなってしまいますからね。多少うんざりしても多めに見て頂く寛大さ、観客にとってもそれは暗黙の了解なのです。
それはそうと日が落ちてきましたね。
ああ、夕日がしみます。とくに脊椎のあたりが痒くてたまりませんよ。しばらく前に鼠に齧られてから、日に当てられる度に痒くてたまらない。腕の部分が少しでも残っていれば思う存分掻きむしれるんですが。残念です。
左手をつかえ?
確かに左手は肘まで残っていますが。
よく見てください。骨が出ているでしょう。骨というのは見た目以上に神経が通っていますから、触れるだけで痛むのですよ。それにこれで引っかいてしまえば、そうでなくても脊髄というのは繊細なのですから、ずたずたになってしまう。そういうわけで、幾ら痒いといっても左手は使えません。
まあ痛みは慣れっこなので掻きむしってもいいのですが、少しでも傷つけるとあとで痛い目にあいますからね。どちらにしてもやめておくのが無難なんですよ。
何ですか。早く始めろ?
もう、分かりましたよ。さっさと始めれば文句はないのでしょう。あなたもせっかちですね。時間はたっぷりとあるんですからゆっくり語らせてくださいよ。
さて、散々出だしについて前置きをしたのですから今回は趣を変えて露店街での事から話し始めましょうか。ここで私は運命の出会いをするんですが、まずは街の様子から話ましょうか。
なんというのでしょうかね、昔のアラビアを連想させる露店街でした。どれも廃材を利用したような店で衛生という概念はないに等しいようなものですよ。汚い板の上に商品は適当に転がされていて、商品もどこかくたびれています。そういったやる気のない店が道の両側にびっしりとひしめいていました。
そこから時たま風に乗って香ばしい匂いが漂ってくるのには衛生上よろしくないと分かっていても自然と胃が刺激されました。
とはいっても、このときすでに頭はなかったので食べようと思っても味わうための舌も噛みくだす歯も喉もありませんでしたけどね。
さあ、疑問に思いましたか。
舌も喉もないとはどういう事かと思いましたか。
そうです、当時の私は今とは打って変わって健康な肉体を持っていたのです。
頭を除いて。
想像出きますかね。簡単に言えば首から上がすっぱりなくなっていたのですよ。喉仏のあたりまで首が続き、そこからは何にもありませんでした。
どうしてそうなったのか気になりますか?
頭がどうしてなくなったか気になりますか?
ですが、話せません。
残念。
観客の心を得るために謎というファクターも必要なのです。まあ、頭がなくなったことは後々話すとしましょう。
とにかく、その街は匂いや人で混ざり合いながらも統率のとれた軍隊のようにぶつかりあうことなくなだれていたのです。私はその中で他人の邪魔になるのも気にせずに自分のペースで。スキップに近い動作で歩いていました。
気分が浮かれていたのですよ。露店街にあるものを見て全てが嬉しくて仕方なかったのです。全ては順調に行っている。そういった時の幸せですかね、温度を感じられそうな陽気さが心の奥から湧いてくるのです。
ですが、風に運ばれる砂には参りました。もともと乾いた土しかない場所なのか、風がふく度に叩きつけられるように砂がぶつかってきます。周りの人々は肌を露出しまいというほど深くぼろを見にまとっていたので大丈夫なのでしょうが、私の格好と言えばタキシード。紳士に相応しい一張羅。いくら胸元に紫のスカーフを詰めているといっても間から細かい砂が入り地肌と擦れてはじわりと傷に染み込むのでした。
そうです、そのとき私はタキシードを着込んでいました。ところどころ裂けていて傷だらけ泥だけのタキシードです。紳士の私からすればこの格好は当然許されないものでしたが、まあ周りに格好を気にする人がいないのですからいいでしょう。もし周りに色鮮やかな衣装をまとった麗しきお嬢さんがいるのでしたら、こんなタキシードをかなぐり捨て自分の洗練された肉体をさらけ出していたはずですから。どれほど砂が染みても泥だらけ傷だらけのタキシードで我慢したのです。
どうです。すでに謎のファクターも揃ってきましたよ。頭のないこの私と傷だらけの体。
不思議でしょう。気になるでしょう。
いや、はい、分かりましたよ。もう言いませんから。極力物語のことだけ話しますよ。
ですが、こうやってちょくちょく私の小意気なトークを挟まないと寂しくないですか?
分かりましたよ。そんなに怒鳴らいでください。
さてさて、砂が服に入り足や腕に染み込む痛みには往生しましたが、私は周りとは違うタキシードという格好に喜びを感じていました。ここの人々はすべて黒いぼろ。それと違って私はタキシード。くわえて頭がないのです。
例えそれが奇異なものを見る目でも、他人からの視線を一心に感じることが至極の喜び。
うきうきした気分で人々の視線を待っていたのですが、残念なことにいくら露店街を歩いてもそんな視線を感じることはありませんでした。
ほぼ全員が背景の一部を見るような、ただ視界に入ったぐらいの反応しかありません。むしろ反応自体がないのです。
ここに居る人々は目が見えないのでしょうか。もしくは全員がロボトミー手術でも受けているのでしょうか。様々な疑問が浮かんでは消えましたが、その答えは案外すぐに気がつきました。
ぼろを見にまとった人以外に大道芸人らしい格好をした人物が少なからず歩いていたのです。
頭が狼にもかかわらずスレンダーな体をした赤いドレスの女。背中に多くのナイフが刺さっているハリネズミのような男。下半身がなく腕だけで歩いている緑色の生き物もいました。
そういった派手な人物がぽつぽつと露店街を歩いているのです。太刀打ちできるものではないでしょう。頭のないぼろぼろのタキシードを着た男なんていうのはそこではちょっとした仮装でしかないのです。そもそも彼らですらそれほど視線を集めているわけはないので、こちらに視線が集まる理由がありません。
目立てない鬱憤を感じながら、私はふらふらと露店街を歩いていました。どうすればここの人々に振り向いてもらえるのか。ない顎に手をやる振りをしてちらちらと周りをみながら歩いていましたが、それすら関心ないように周りの人々は通り過ぎて行きます。
面白くありません。
紳士でエンターティナーである私にとってこれほどの屈辱はないでしょう。どうしてやろうか、今から私のミュージカルでも初めて喝采を浴びようかと紳士らしい妄想を蓄えていた時です。私は運命の出会いをしました。
生々しい赤の光沢をぬめらせて、時計のよう正確に脈打つそれは乱雑に置かれているにも関わらず気品があり、汚い板の上というのがさらに色調を深めているではありませんか。どれもが宝石のように太陽の光で煌めき、脈動する度に輝きが変わります。それがところ狭しと並べられている光景は圧巻としかいいようがないのではないでしょうか。
彩り豊かな生きた心臓たち。
芸術を前にしたようなある種の優越感に浸りながら、彼らの声援に答えるべくすべての心臓たちゆっくりと眺めていきました。雛が親に餌をねだるよう必死に脈打つ姿。すべての心臓が私に見てもらうために鳴らす脈動。パーフェクトハーモニー。
どれも可愛らしい形でひょこひょこと踊っています。
私はその中の一つを手に取りました。脈動を肌で感じながら、動脈に繋がるはずだった管に手をあてて吐き出される空気を感じます。
そんな熱心に心臓を見入る私の様子を見て気に入ってくれたのでしょうか、他の人と同様ぼろをかぶり口元しか見えない店主は指先ほどしかない心臓を私に勧めてくれました。
さくらんぼほどの大きさにも関わらず、その心臓は他のものと変わらず絡めとるような血脈に覆われ、繊細な動きで小さくひくつきます。掌に落とされた小さな心臓はせわしなく鼓動を続け、その響きは本当に微々たるもので、くすぐるような振動に、思わず出るはずのないため息がもれそうになってしまいました。
そうでなくても他の心臓が常にトクントクン、ンドクンと鳴るなかで耳に入れるほどに近づけようやく聞き取るヒクヒクとした音はまるで二人だけで秘密の話を語り合っているようでした。そう、愛しき心臓が必死に私への愛を告げているようにしか聞こえなかったのです。
親指をそえるだけで潰れてしまいそうな愛しき心臓。
その健気さに私はうたれてしまいました。いつ疲労で動きを止めてもおかしくないその姿は儚く愛おしい。
私は彼女に恋をしました。
今思えば店主にうまく誘導されたように思いますが、今はこの素晴らしい出会いに祝杯をあげたい気分でした。待っていてください愛しき心臓。すぐにでもあなたをここから助け出し、心の底から愛でてあげましょう。
愛しき心臓をかかげ店主に購入の意志を示そうとしたときです。私はふと気づきました。この愛しき心臓の代価に何を払えばいいのでしょうか。
壊れないよう愛しき心臓を繊細に、なおかつ優しさをこめ台においてから腕を組みます。
偶然この街に着いたばかりで、ここがどこでありどういった社会を形成しているのかさっぱりわかりませんでした。
どこかにヒントはないかと周りを見回してみまします。店主に聞くという手段もありましたが、自分の無知をさらすのは紳士としてとても恥ずかしいことに思えました。
隣の露店に目がいきました。ぼろを見に纏った通行人が台の上にあった商品を掴むと懐から何かを取り出し店主に握らせる。つまりこの露店街も通貨制度があるということです。もちろん、私はこの街の貨幣なんていうものは持ち合わせていません。
どうしましょうか。代価が何か分かってもそれを持っていないのなら意味はありません。
何か他に方法はないかと唸っていますと先ほどと同じ露店で店に来た別の男が商品を手にとるとなにやら店主と話をして、おもむろに右腕を引きちぎったではないですか。ちぎったというより外したという表現が近いかもしれません。血が吹き出すこともなく、爪を切るほどの手軽さで引き取ったのです。そして何食わぬ顔でそれを店主に渡し、商品で有る犬のミイラを持ち帰っていきました。
これには私も仰天です。どうやら、硬貨以外の物々交換という流通も残っているようなのです。
確かにそこまで文明は発達していないのは周りを見れば分かるのですが、まさか物々交換という原始的な方法があるとは思っていませんでした。
いくらポケットを探っても葉っぱぐらいしかでてこなかった私にとっていくらか希望が見えてきたようです。
そこかしこに引掛け傷のある一張羅。そして頭以外のパーツが揃った体。愛しき心臓を手に入れるためにそれらを捨てることは造作も無いことでしょう。
私はあったはずの口元に手をやり、店主に向かって咳き込むように肩を揺らしました。もちろん、咳をする音は出しています。
「店主、この小さな心臓が欲しいのですが、私は見ての通り文無しです。ですが、この地方では物々交換というものがまだ残っているように見て取れます。どうでしょう、私のこのタキシードとそちらの心臓を交換しませんか」
私の交渉を聞き、店主は泥だらけのスーツに目をやったあと首を横にふりました。
「駄目だよ。足りない」
私もこのタキシードで交渉が成立するとは思っていません。むしろそれで成功したのならその愛しき心臓にはスーツほどの価値しかないことになってしまいます。それはこの痛い気な心臓にかえって失礼でしょう。ここで一張羅を出したのは店主の反応を見るためでした。愛しき心臓のためとはいえ私とてできるだけ消費は抑えたいのです。これはあくまで私が交渉できるというアピールに過ぎません。本番はこれからです。
「それなら、私の体を見てくください頭こそないものの肉体は健康そのものです。さあ、店主好きな部位を言ってください。その部分と交換しようじゃありませんか」
店主は伏し目がちにこちらを一瞥し、私の腕を取りました。袖をめくりあげます。もちろん覚悟はありました。旅の共に愛しき心臓を連れていけるのなら腕の一本ほど上げてしまう。それが紳士の覚悟です。あなたにもこの気持分かっていただけるでしょうか。これが本当の愛なのです。愛するもののために腕一本、肘あたりまでなら厭わない。それが紳士なのです。
「駄目だよ。取れない」
私の裸になった腕を眺め回しようやくつぶやいた店主の言葉がそれでした。
よくわかりませんが、どうにも私の腕にはその価値が見出せないということなのでしょうか。
なんという屈辱。
なんという理不尽。
私は怒りがこみ上げてくるのを感じながら、それでも紳士的に振る舞いを乱すことなく唾でも吐きつけてやろうと考えました。ですが、いかんせん吐き出す口も唾液もなかったのでやむなく諦めぜざるをえません。
愛しき心臓よ、私はいったいどうすればいいのでしょうか。
心の中で彼女に問いかけました。
もう君には会えないのかもしれない。そう思うと怒りも悲しみに変わり、最後の別れを告げる時間さえ惜しい。これほどの悲しみは今まであったでしょうか。今までの記憶がないので分かりませんが。きっとこれ以上に悲しい別れはなかったでしょう。
目の前にいるのに別れなければいけないこの悲しみ。
私のこの想いはどこへ向かえばいいのでしょうか。
私のこの悲しみをどこに向ければいいのでしょう。
もちろん、力ずくで奪うこともできるはずです。それこそ一つの愛の形なのかもしれません。ですが、私は紳士なのです。紳士以上でも以下でもなく、紳士なのです。私は彼女のために、愛のために体を差し出すことは何もためらうことはありません。ですが、この紳士のプライドだけは差し出すわけにはいかないのです。それがなくなってしまったとき、私は私でなくなるのです。ですから、店主から奪うことも泣いてすがりつくこともできないのです。
愛しき心臓よ、君の事は忘れない。いつか君にまた出会った時、私はあなたにそっとささやこう。愛しき心臓と。
私が悶々と愛しき心臓へ懺悔している間に、若い女性が露店の前にやってきました。
最初私は神聖な別れのときに邪魔な女性だと思っていましたが、私の横で心臓を眺めたあと、人の頭ほどある心臓を手にとった彼女に次第に興味が湧いてきました。
女に持ち上げられた心臓が思い出したように一度大きく脈打ちます。一呼吸してからまた脈打ちます。それでは役に立たないのではないのではと思えるマイペースさで脈打つ心臓を彼女は上から下から何かを確認するように眺めていました。
愛しき心臓を見て心臓というのは繊細な機械のように思っていましたが、やけにでかい心臓を見てその考えをあらためました。振動は飛び跳ねるようで脈打つごとに切れた管から勢いよく空気が吹き出し、いかにも豪快な生き物にしか見えません。
その心臓も奇妙なものでしたが、それを私の胸ぐらいしか背のない小柄な女性が持っているのですから奇妙な絵でしたね。
何せ彼女は美しかった。これが心臓を食べようとする魔女のような老女であれば私もここまで興味を持たなかったでしょう。ですが彼女は凛々しさと美しさを兼ね備え、その美貌もさることながらプロポーションもなかなかでした。
他の人と違い全身を覆うぼろは着ておらず、むしろ露出せんばかりにあつらえた衣装。胸元と腰に布を巻きつけただけです。その布の間から豊満な肉体が今にも飛び出さんばかりに食い込んでいるのですから紳士としてどこに目をやれば分かりません。ただ私からの視線というのは向こうからばれることはありませんので、自然と体全体を舐め尽くすのは紳士として仕方のないことでした。
彼女の体は本当に素晴らしいもので、とくに肌には何本もの縫い跡がありその形すら美を象徴しているように思えました。腹や腕や首元に縦横無尽に継ぎ接ぎ。それは一つの地図のようでお腹に伸びる一本道をしばらく歩くと十字路になっているといったような横道の多い地図です。
彼女は大きな心臓が一つ振動するごとににやにやと顔をゆがめその整った顔立ちを台無しにしていましたが、それも含めて妖艶な雰囲気を醸し出していました。
「私のこと気になる?」
いつの間にか彼女の視線がこちらに向いていました。大きく開かれた瞳。整った顔立ちにふさわしい輝き。
呟きましたよ、美しいと。
ですが、彼女はそれが聞こえなかったのか私の言葉を全く無視して心臓に視線を移しました。
「今の時代、心臓なんて物好きな爺しか好き好んで買わないのに、なんで私みたいな若い女が心臓なんて買うのか気になるんでしょ?」
店主が反応するのを隣で感じながら、私は彼女に答えました。
「そんなことはありませんよ美しいお嬢さん。ぬめるように赤い心臓はあなたが持つだけで滴るような美しさを醸し出しています。とくにあなたが持つ心臓それだけで価値のあるものに見えてきてしまいます」
彼女は私の言葉に吹き出しました。おかしな人と口元を歪めるように笑い、うっとりするようにため息を吐いた後また心臓を眺め始めます。
「心臓っていいわよね。心臓って凄く生きてるって感じがするわ」
独り言のように彼女はいい、恍惚とした表情で掲げた心臓を見上げるのでした。
「この一つ一つが生の象徴だと思うの。爺共はこれを食べるんだって。生きたまま食べて、それが長寿の秘訣。そんな迷信を信じるなんて本当に馬鹿よね。心臓はもっと尊いものよ。食べるなんて馬鹿なこと私はしない。考えてみて。生きたまま心臓を取られた動物たちのことを。本当に胸の中をがらんどうにして物を食べて歩いて生活している。どう思う?」
「そうですね、やはり体の一部が欠けているということが至極残念なことだと思いますよ」
「残念? 本当にそれだけなの。本当にそんなことしか考えられないの? それならあなたは馬鹿かとっても偉い人のどちらかだわ」
「お褒めに預かり光栄です」
彼女は私の言葉を無視して続けます。
「心臓がなくなるっていうのは体に穴があくってことなの。もちろん物理的に穴があくでしょうけどそんなことを言ってるわけじゃない。もっと精神的なこと。魂のようなものがなくなる。そしてその穴を埋めるように満たされる虚無感、漠然とした不安、どこからともなく現れる焦燥感。すくっても指の間を抜けていくそんな感情がわだかまるの」
「まるで当事者のような話し方ですね」
「あるわよ、一度心臓を売ったことがあるの。綺麗な髪が欲しくてね。でも、私の体から心臓を取り出したとき。体液でしっとりした真っ赤な心臓。脈動ごとに赤い血液を吐き出して手にそれがかかったわ。その暖かさが急速に冷えていくのを肌で感じて、これはいけないと思ったの。取り返しのつかないことになるって。でもその時心臓はなくて、代わりに綺麗な金色をした髪の毛が一房私の手元に残っていた」
彼女は思い出すように遠い目をしました。
「心臓は人の心、魂の宿る場所。それがなくなってから常に私は考えた。この胸の空白感はなんだろうって。ぽっかりと開いた穴に詰められるこの虚無感はなんだろうって。そんな時ここの店で心臓を見かけたの。私はすぐに髪の毛を売っぱらって一つの心臓を手に入れた。そしてすぐさま空になっていた場所へ心臓を入れたわ。中で脈動する心臓を肌越しに感じて今までの不安がなくなった気がした。でもね、その感動もすぐになくなってしまったの。なにせ私の買った心臓は私の心臓じゃないんだもの。だからいくら脈動して私に囁いてくれてもどこかよそよそしさを感じたわ。私はきっと心臓が足りないからだと思ったの。だって、鼓動が足りないと思ったから。私の心臓より音が小さいと思ったから、また買ったわ。代わりに臓器と交換した。それからは毎日のように新しい心臓を手に入れて空いた空間に詰め込んでいったの。でも何でかな、いくら入れても満たされることはなかった。それでいつしかその虚しさがたまらなく好きになってきた。今じゃあそれが私の趣味みたいになっちゃった」
彼女はその湿った口を動かして、しばらく心臓を眺めてから、麗しいため息を漏らし誘うような視線をこちらに向けました。
「見せてあげましょうか」
なまめかしく小首を傾げる仕草に悶える私の反応を肯定と受け取ったのか、彼女は蝋のように白く細長い指先を口元に近づけました。
心臓に劣らない鮮やかな色をした舌が唇からあらわれ指先を丹念に舐めあげます。口元から出てきた指はぐっしょりと濡れ、指先は淫らな動きで顎を伝い、ゆっくりと胸の間を進みます。唾液の跡がへそまで行くとその横に伸びているコの字のつぎはぎの中にずぶりと指をめり込ませ、本を開くような気やすさで腹の皮をめくりました。
肉の色をした何かが皮の中で蠢いているのかと思いました。
それが大小様々な心臓だということに気づいたのは、管から吹き出した体液が飛び出してからです。歯車のようにぎっしりと詰められた心臓。それが好き勝手に脈動するものですから、のた打ち回る内臓のパレードだと言われても納得したでしょう。
時計のように順序良く動けば見栄えもいいのでしょうが、いかんせん大きさがまばらな心臓たちは好き勝手に脈動しています。不協和音をとどろかせ、うごめくさまはグロテスクといったところでしょうか。
ですが、なぜでしょうか。しばらく見てると心臓のひとつひとつが形を失い混ざり合いまったく新しい劇に変わっていくのです。
人肌の幕が引かれた先にあるものは、女性の体を枠にして、ぬめりけのある心臓たちが、踊れ笑えの小喜劇。好き好きに騒ぐ心臓たちの、歌って奏でるグランギニョル。
この感動をどう伝えればいいのでしょう。分かりません。言葉で言い表せられない感動があそこにはあったのです。あなたも一度見てみればきっとあの素晴らしが理解できるはずです。端の方では心臓たちが歌って騒ぎ、それを見た心臓たちが笑いながら循環している体液を吐き出すのです。生きるために働く彼らが娯楽になってしまった業があふれているとは思いませんか。
趣味が悪い?
あなたが芸術を理解できていないだけです。もう少し大人になれば少なからず色の判別ぐらいできますよ。
さて、話を戻しましょう。
それこそ一晩中見ていても飽きない見世物でしたが、突然にその幕が降りてしまいました。屈み込んでいた私を見下ろしていた彼女はこれで終わりという風にいやらしく微笑みまた心臓にその視線を戻したのです。
立ちあがった私は立ちくらみにも似た光悦感に浸り、いっそうに心臓たちへの物欲を深めたのでした。
「この子をくださいな」
彼女はそう言って拳ほどの心臓を持っていました。その心臓は平均的な大きさで特に目立ったものはないように思えましたが、よくよく見ると脈やら血管やらが他のものと違い反対なのでした。
店主は心臓を秤にのせ、目盛りをしばらく凝視しました。
「十」
店主は無愛想にそれだけ言うと開かれた掌を彼女に見せます。
「もう少しどうにかならないの」
喋ろうとも動こうともしない店主に根をあげたのか、彼女は太もものつぎはぎに手を突っ込みもぞもぞ探ってから店主に何か差し出しました。
店主の掌に落とされたものは子供のものと思える小さな指や黄ばんだ歯でした。店主はそれを満足そうに受け取りぼろの中にしまいました。
私は硬貨と思っていいましたが、どうやらあの時隣で見たのも人の歯だということを知りました。硬貨制度はなく全て物々交換が主流のようです。いや、歯や指といったものが硬貨の代わりになっているのなら、一応硬貨制度は残っているといっても間違いではないのかもしれませんが。
それにしても、指や歯とは思いつきませんでしたね。もしお釣りがあった場合は何で払うのでしょう。自分の爪を剥がして返すのでしょうか。疑問はつきません。
「どうしたの、買わないの?」
唾液でぬめっている指を丹念に舐めながら彼女が聞きました。購入した心臓はどこへいったのだろうと疑問に思っていますと、お腹のつぎはぎから体液と思われる透明な液体が一筋垂れてしました。彼もまたギランギニョルの一員になったようです。
「いえ、買い物はもういいのです。それよりも凄いものを拝見させてもらいました。ますます心臓というものの素晴らしが理解できたように思えます」
「そう、それはよかった」
「それより一つお尋ねしたいのですが、ここらで頭を売っている店はないでしょうか。どこかで落としてしまったらしく、見あたらないのです。困ったことに頭がなくてはバランスも取れないようで体中傷だらけです。今もバランスを崩さないか冷や冷やしているのですよ」
これは私なりの冗談でした。別段頭がなくても困ったことはありませんから。
私の話を聞き、彼女はようやく口元を緩ませました。どうも、頭がなくふらふらと動く様が面白かったと見えます。
「その割にはバランスよさそうだけど、それは難儀ね。でも頭なんてそうそう売ってないと思うわ。それより頭がないのに、どうしてものが考えられるのか不思議でならない。心臓がなくても血が一滴もなくても生きていけるけど、頭がなきゃものも考えられないでしょ」
当然な疑問でしょう。ものを考えるのは頭と相場が決まっています。ですが、私にぬかりはありません。その点は、露店街へ来るまでに考えてありました。
「それは私が紳士だからでしょう」
彼女は意味がわからないと言った顔でこちらを見つめていました。きっと紳士の考え方というのは女性には理解し難いものがあるのでしょう。
「まあ、たまにいるらしいわ。あなたみたいな人。私たちは頭を軸にいろいろパーツを変えて楽しんでるけど、切り取った体に魂が宿っちゃうんですって。それで勝手に動いて喋る」
「それは初耳ですね」
「だから、あなたも今ごろ体の持ち主があんたのこと探してるんじゃない」
彼女は意地悪そうな笑みを浮かべてそういいました。
体の持ち主。私は今まで頭を探しているのは私だとばかり思っていました。
頭の方が私を探している?
「ですが、お嬢さん。私が本体ということは考えられないでしょうか。私が主人格でありり、頭の方が迷子なのです」
「別にそんなこと知らないけど。あまり実例はないみたいだし噂よ噂」
彼女はそういうと興味が失ったように、じゃあねと言って去っていきました。取り残された私は、主人の無遠慮な視線を感じとぼとぼと店の前から離れました。
項垂れても首を痛めもしない体に自嘲しながら、私は軽いめまいを起こしました。嫌な汗が全身に吹き出しています。
先程から彼女の言葉が頭から離れませんでした。
頭を探しているのが私ではなく、頭の方が私を探しているのなら。
本当の私が私を探しているのなら。
私はなんなのでしょうか。
赤ん坊のように生まれてきた存在なのでしょうか。そんなことはありません。私は私です。いかに他のものだとしても、私は私以外の何者でもないのです。私は紳士なのです。
必死で過去の記憶を探しました。一つでも記憶が残っていればそれが私の存在していた証拠になると思ったからです。
私はいったい何者なのか。ここにくるまで何をしていたのか。ひとつずつ思い出そうとしても全く思い出せません。薄暗い森の中を歩いていた。それ以前の記憶は一つの言葉や光景ですら出てくることはありませんでした。
頭が私を探しているのか?
それなら私はなんなのだ。
妙に現実感を持った不安が私を覆います。それは私の頭以外の傷口から染み込むように入り込み、どんどんと内部を犯していきました。私は唐突な吐き気に襲われながら、すがるように建物の壁に寄りそいました。
呼吸する口もなく、上下するだけの肩をなだめて私は必死で自分を励ますしかありません。
私は私だ。
何度も自分に言い聞かせ、ようやく落ち着き始めました。わだかまりのように不安はありましたが、そのうちになぜそんなに怯えていたのか不思議に思うほど私は回復していました。
ようは考えようなのです。
別に私の頭が探していてもいいじゃないですか。先程生まれてきたといってもいいじゃないですか。それならそれで、今からが私の生活が始まるのです。今日からが私の誕生日なのです。
「誕生日」
その単語をつぶやき、私は一人浮かれました。
そう、今日は私のバースディなのです。おめでとう私。今日からは毎年この日になると私のために祝おうと固く誓いました。そして、そのときは愛しき心臓が入れば申し分ないと。
ああ、愛しき心臓。どうして私はあの時に彼女を置いてきてしまったのでしょうか。
いくら頭が真っ白になってしまったとしても悔やまれます。
やはり愛しき心臓が、私の愛した女性がいなければ、私はいつか壊れてしまう。
そんな気持ちがありました。
もう一度行かなければいけません。店主に商品として売られている彼女を救い出さなければいけないのです。
ですが、私はすでに彼女を一度裏切ってしまった。のこのこと行って彼女に会えたとしても、隔てられた溝は回復しないでしょう。
そう、私は生まれ変わる必要があるのかもしれません。生まれたての私ですが、いつまた頭の方が追いかけてくる。そういった不安に陥れられるか分かりません。早急に頭を手に入れなければいけないようです。
そうです、頭がないと愛しき心臓を愛でることもままならないではないですか。
辛い時があればそっと彼女を取り出して耳をすませて囁きを聞き、悲しい時があれば彼女を取り出し口に転がし舌の上で脈動を感じる。怒りで身が壊れそうなときは脈動を歯で感じながらゆっくりと愛しき心臓を押しつぶし私と一体になるのです。快楽にも似たその感情を、私は考えただけで血の味がないはずの口元に広がるようでした。
頭がないということはここまで悲しいことなんですね。愛しき心臓を愛でてあげることもできないなんて。
この不安を打ち消すためにも、生まれ変わりに愛しき彼女に再開するためにも、頭を手にいれる必要がててきたわけです。
事が決まれば実行あるのみ。私は早速露店街を歩き回り、頭を売っている店を探しました。ですが、動物の頭を売っていたり、頭のミイラを売っている店はあるのですが、いかんせん生きた人間の頭をうっている店は見つけることができませんでした。
彼女の言葉が本当ならば、ここに住む彼らは頭にこそ物を考える意識があり、それ以外のパーツを変えて楽しむことはできても、頭を変えることはできない。言うなれば部屋の模様替えで好きな椅子を買い、ベッドを置いても、部屋の持ち主が変わってしまえば意味がないということでしょう。それならば、頭を売っているはずがないのです。
露店街は二週ほどしたぐらいでしょうか、そのうち私は疲れてしまいました。気ではまだ元気のつもりでしたが、肉体は悲鳴を上げています。思えば気がついた時からここに来るまで一度も休んでいません。
どこか休めるところはないかとあたりを伺いますと、人ごみから外れた森近くに座れるほどの岩があるではないですか。これはタイミングがいいと、私はその岩にかけより腰をおろしました。
一息着いて初めて周りを観察する余裕が生まれました。私の前にある道を様々な人が通り過ぎて行きます。誰しもが黒いぼろを見にまとい、肌を隠していました。たまに心臓の好きな彼女のように肌を露出している人もいましたが、その誰しもが体中に継ぎ接ぎをもっていました。
小指を受け取ったときの店主を思い出します。ぼろから伸びた彼の腕もつぎはぎがありました。どうやら、ここの人々はすべてつぎはぎがあるようです。しかもそれを隠す傾向があるようでした。
私は自分の腕をおもむろに捲りました。つぎはぎのないまっすぐに伸びた腕です。私は紳士なので人前で腹を出すようなことをしませんが、シャツごしから伝わる触感ではつぎはぎはないように思えます。
私はここに人間ではないのでないのではないでしょうか。
その疑問が頭をよぎったときに、黒いぼろの間から突出した色を見かけました。黒い頭の波の中に一つのつぼみが浮かんでいるのです。それはよく見るとカラフルな帽子で、それが歩く度に小刻みに揺れていました。
紫がかった青と白色の花びらを四枚入り込ませたような花のつぼみに似た帽子でした。伸びていた先が折れその先に小さな鈴がそれぞれついていました。周りの雑音で鈴の音は聞こえませんでしたが、彼が一歩歩くごとに揺れるその鈴を見て涼しい音色が聞こえてくるようでした。
ふと彼が顔を横に向けたとき、少なからずその顔を伺うことができました。鼻の先に赤く丸い鼻をつけ、大きな口をなぞらった化粧がされています。
間違いありません。ピエロです。
最高のエンターティナーである私ですが、道化師にはかないません。彼らは笑いを取るための姿勢は私には真似できないほどの熱意があり、尊敬すら覚えます。
彼と会って話がしたい。何故でしょうか彼を一目見て少なからずの既視感とともに私はそういった衝動にかられました。
どう言えばいいのでしょう。彼と話せば私がこれから生きていくヒントのようなものが手に入ると直感的に思ったのです。
そう思うと居ても立ってもいられずに、彼の後を追いかけていきました。
結構な距離があったので、見失うのだけが心配でしてましたが彼の服装は例え離れていても見失うことはありませんでした。ぼろをまとった人たちの間をすり抜けて、すぐに彼に追いつくことができました。
真後ろから彼の姿を観察します。
例の帽子の下から赤みがかった髪がのぞいています。首元にはフリルのようなものがついており、ピエロに詳しくない私はこれがいったいどういう役目をするのか気になって仕方ありませんでした。
衣装は帽子と同じ紫がかった青と白色が左右で半々に分かれているもので、肩は鞠のように盛り上がっており、そこから髪の毛と同じ色をした赤い袖が伸びていました。ズボンは紫が買った青で、赤いブーツを履いています。それはまさしく道化の格好と言わずになんというのでしょうか。
興奮したまま、どうやって話しかけようかと悩んでいますと、彼の方がふいにこちらを振り返りました。
偶然だったのでしょう。彼は確認するように後ろの露店を見ようと視線を向けるところでしたが、私を視界に入れるや驚いた顔をしてこちらに向きなおりました。驚愕で見開かれるその蒼い瞳。ひきつったような表情にいったい何があったのか不思議でなりませんでしたが、道化の青年はすぐに表情を整えしげしげとこちらを見つめるのでした。
私はどういった反応を示せばいいか分からず、通せんぼされた形でぶつかってくるぼろをまとった人々に失礼と声を掛けるしかなかったのです。
「少し、ここは少し周りの人々の邪魔になると思うのですが」
道化の青年はそう言われてようやく周りの人々の妨害をしていることに気づいたのか、顎にやっていた手をどけて大仰に驚いた振りをしてみせました。
「いや、すみません。見苦しいところを見せてしまって、どうにも気になったものがあったんで、どうですそちらがいいのなら向こうで少し話しませんか」
「こちらの方こそ話そうと思っていたのです」
二人して道を外れ、先程あった岩のあたりで腰をおろしました。
どちらが先に話すか。お互いに探り合っているのが分かりました。私は咳払いの真似事をして話し始めました。
「それで聞きたいのですが、どうして君は私を見てあれほど驚かれたのですか。私は先程からそれが気になって仕方ないのです」
「何のことはないんですよ。ただ後ろには町の人しかいないとたかをくくっていたんですが、振り向けば真後ろにタキシードを着た、それでいて頭のない人がいたから驚いただけですから」
道化の青年は表情豊かな顔に笑顔を貼りつけて、恥ずかしいと言いたげに首の裏を撫でました。
周りの人々は表情を出せば死んでしまうという強迫概念があるのかと思えるほど無表情ですからね。彼の仕草には好感がもてました。
「それはそうと、話があるとかいっていませんでしたか?」
「いや、大したことではないんですよ。それより、そちらも何か切り出したいんじゃないですか」
道化の青年の笑顔に体全体で答えながら私は期待を裏切ったような後ろめたさを感じていました。何せ明確な何かがあったわけではないのです。ただ直感的に彼なら何か知っているかもしれない。そんな単純な思考で声をかけてしまったとは言えません。
「いえ、実は私旅の大道芸人なのですが、ここの人はあまり笑わない方が多いので少し寂しいと感じていたところなのです。そこに道化の格好をした君がいたのでつい嬉しくて声をかけてしまいました」
口からでまかせが自然と出ていました。
「旅の方ですか。私はここの生まれですが、この街は大道芸人の人がよく来ますからね」
「ここの人でしたか、それは失礼なことを」
「いえ、ここの人たち愛想が悪いのは僕が一番よく分かってますから。でも、僕も新しいものはないかと戻ってきましたが、めぼしいものはあまりないですね。代わり映えのないものばかりだ。奥のところに世にも珍しい一角獣の目玉なんて売っていましたけどあれは偽物ですね。そもそも見分ける判断が瞳の色だなんて馬鹿げてる。それでも買っていく人の方が数倍馬鹿げていますけどね。嬉しそうに買っていくのがおかしくて足をかけたらそいつは転んで自分の服で目玉を潰していましたよ。あれはおかしかった」
その光景を思い出したのか道化の青年はくすくすと笑っていましたが、すぐにまた真顔に戻りました。
「ところで、何か困ったことはありませんか。私は道化ですが、人々の笑顔を見るのが大好きなんです。困っている人を見れば手をさしのべる。それが僕です」
「私が困っているように見えますか?」
「見えますね。あなたはとても大きな悩みを抱えている。それも常人が抱えているようなものでは断じてありません」
道化の青年はそうですね、とつぶやき人差し指を顎に持っていき、眉間に皺を寄せた。そして蒼い瞳の流し目でこちらを伺いました。
「頭を探しているんじゃないですか」
「これは大道芸をするための武器ですよ」
「あなたは大道芸人じゃありませんよ」
私は不審に思いました。道化の青年は実はピエロなんかではなく預言者かなにかなのかと本気で疑いましたよ。
「どうやら、図星のようですね。分かりますよ。頭がないのは心細いですからね。それであなたはどうしたいんですか?」
彼に頼んでみるのもいいように思えました。
「できればあなたの頭が欲しいのですが」
「頭ですか!」
道化の青年は大仰に驚き頭を抱えました。
「私のこの頭ですか。困りましたね」
アタマアタマと呟きながら目を閉じて考え込んでいます。もしかしたら譲ってもらえるという希望に私は胸をふくらませましたが、返ってきた言葉は当然と言えば当然という言葉です。
「すみませんが、この顔は商売道具ですからね渡すことはできません」
心底すまなさそうに言う道化の青年を見て私の方が何か悪いことをした気になりました。
「本当にすみません、あれほど力になりたいとうたっておきながら、なにもできないなんて」
分かっていたにも関わらず落ち込んでいた私に道化の青年は優しく声をかけてくれました。
「けれど、私も男。そしてピエロ。あなたの笑顔が見えるならなんだってします。どうでしょう、この目一つだけなら交換してもいいですよ」
頭でなければ意味がないのです。私はそういうつもりでした。
ですがどうでしょう、彼の目を見ていると不思議と否定の言葉が出てこないではありませんか。あの蒼い瞳が、瞳孔がこちらを誘っているように私を離しません。
「失礼ですが、目を一つ手に入れたところで何の役にもたたないのです。私には今頭が必要なのです」
「そんなことはありません」
道化の青年は声高らかに話しだしました。
「あなたは頭を手に入れたいのでしょう。それならこの目玉は頭を手にいれるための大きな一歩じゃないですか。考えても見てください。あなたに頭一つと交換できる価値のものがあるのですか?」
頭の価値。彼の目に見とれながら考えました。確かに私は頭一つと交換するものを持っていません。頭の価値は分かりませんが、いいものであれば体一つと交換ということも考えられます。
「そうでしょう、何もないでしょう。それならば、一歩ずつ小さなものから順々に手に入れていくのが物の道理だと思うのです。最初は目玉、次に鼻、頭蓋骨。ひとつずつ揃えていけば時間がかかろうともいつか念願の頭を手にいれることができる。そう思いませんか?」
「確かに、そうですね」
「でしょう。こちらもその冒険の最初の一幕に立ち会えるなんて栄光のいたりです」
「それで、何と交換すればいいんでしょうか」
たとえ必要でないにしても、何と交換すればいかぐらい聞いても損ではないはずです。
「そうですね、私の目は見てもらっても分かると思うのですが、先程申し上げた一角獣の目玉と同等の価値があるのです。ほらじっと見つめてください」
見開いた目をこちらに向けて道化の青年は静止しました。
目の中が見えます。
瞳孔の部分から伸びる毛細のようなものがゆらゆらと揺れています。それは海を貴重とした蒼い万華鏡のようできらきらと、そしてゆっくりとこちらを惹きつけて離しません。
「本当はこの目、両足ほどの価値があるのです」
「両足ですか」
思わず素っ頓狂な声を出してしまいました。失礼な言い方ですが目玉一つで両足を取られるのでは何ともやるせない気になるでしょう。何せ両足がなくなればダンスのステップすら踏めなくなります。それでは紳士として失格です。
「しかし、ここでであったのも何かの縁です。それに私はあなたの笑顔がみたいのです。どうでしょう、あなたの片腕と交換といきませんか」
「片腕、ですか?」
「そう、あなたのその片腕。もちろん肩からです」
そう囁く道化の青年の瞳に目が離せないまま、どう答えるべきなのか考えました。
片腕と交換するのはどうなのでしょうか。それでも迷ってしまいます。何せ片腕がなければ……とくに支障はないように思えます。だからといって、そうやすやすと片腕を渡すわけにはいきません。
「疑っているんですかね。僕の目が腕と同等の価値があるのか。分かります。大切な片腕ですからね」
にこにこと微笑みながら道化の青年は手を合わせます。
「そうだ、実際手にとってみてください」
道化の青年はそう言ってひらいた掌を私に見せました。手品師が何も種がありませんよという仕草に似ています。
「これは結構痛いんですが今回は特別ですから」
道化の青年はそう言いながら指先を目元に持って行きました。親指、人差し指、中指。枝のように細い三本の指が目の縁にあてられます。
何をするのかと思い凝視していますと、ゆっくりとその三本の指が眼孔へめり込んでいくではないですか。瞼や瞳の周りの皮が指と一緒に埋もれていき、何か分からない粘着性のある透明な液体がどろりとあふれます。
道化の青年は顎を少し上げ、口元をだらしなく開けて恍惚にも似た表情で指先を眼孔へめり込ませて行きます。
「これにもこつがありましてね、このまま取り出したら名称が分からないんですが目玉とつながった管のようなものが一緒で出てくるんですよ。それは別に構わないんですが、それをまた元に戻すとき目玉の隙間に入ってしまうことがあるんです。だから取り出すときに指先の爪で切っておく必要があるんです」
どこにそんな空間があるのか第二関節まで指が眼孔に飲み込まれて行きました。いつしか出てくる液体は赤いものに変わり、それは涙のように頬を伝います。
ぶちんと何かがちぎれる音が確かに聞こえました。喘ぐような声を漏らし道化の青年は指先を引き抜きました。空いていた方の手で目元を押さえ、震える手で握られた手をこちらに差し出しました。
「さあ、じかに触れてみてください」
手を出すと道化の青年はそう言って私の掌に目玉を転がしました。生温かい。ころりと赤い粘液の混じった目玉が傾きます。青い瞳孔はこちらを向くこともなく、どこか遠い方を懸命に見つめるのを見つめていました。
私は指先でその目玉をそっとなぞりました。なんともいえない生ぬるさです。少し力を入れて押すとゆっくりと沈む弾力に思わず私は手を引いてしまいました。
「どうですか、もっと強く触れてみてもいいんですよ。そう、怖がらずにつかんでください。そうすればこの目玉の素晴らしさも分かります」
「壊れてしまうんじゃないですか?」
「そんな弱いものじゃないですよ。叩きつけて踏みつぶしでもしないかぎり壊れません」
私は恐る恐るその目玉をつまみ上げました。目玉はなされるがままに持ち上げられ、こちらを睨みました。
蒼い眼球。
まるで万華鏡を見ているような。
「どうですか、これが私の目です。綺麗でしょ。飽きないでしょ。これは僕のお気に入りなんです。手放す気なんてなかったんです。でも、僕はあなたの笑顔が見たいんです。だからお譲りします。どうですか」
「もちろん、構いません」
そういった了承とも取れることば出ていました。
「腕一本で?」
「どうぞ、持っていってください」
前々からこういうのが決まっていたというように、その言葉は出てきました。話している間も視線は瞳から外れることなく、まるで私はこの目玉に何か囁かれているようにじっと聞き耳をたてて頷くしかできませんでした。
「交渉成立ですね。それで確認なんですが、腕は取り外しできませんよね?」
「すみません、できないのです。私はどうやらここに人間ではないないようなので、むしろ何故ここの人たちは取り外しができるのか分からないのです」
「彼らにとってそれが個性ですからね。私も同じです。体の一部を変えることで自分の欲を満たしているのです。それよりも、交渉成立でいいんですよね」
念を押す道化の青年の雰囲気に頷くしかありませんでした。道化の青年がこちらを伺い含んだ笑みをたくわえたていたような気がしましたが、私にはそんなもの興味はありません。この目玉との対話がその時の私の全てでした。
それではと道化の青年は一歩後ろに下がり幕が降りる前の登場人物のように手を広げ深々と礼をしました。
「私は今から準備をしてきますんで、ここで少し退場させてもらいます。本当にすぐ戻りますから待っていてください」
道化の青年は礼をした格好のまま顔だけこちらに向けました。
「私が帰るまでこれは預かっていますね。腕と交換です」
そう言って私の手から目玉を奪うと眼孔にそれをはめ込みました。ぐるりと入れられた方の瞳孔が眼内を一周しこちらを向きます。それでは失礼。道化の青年はもう一度礼をしてゆっくりと人ごみの中に紛れ込んでいきました。
ゆらゆらと揺れるつぼみをぼんやりと見つめていました。日は沈みかけようとしていましたが、露店街はまだ人で溢れています。なんともいえない虚脱感に私は苛まれながら、しばらくぼんやりとしていました。
何も考えることがなくなってしまうと滲むように不安が溢れてきました。
なにか間違った選択をしてしまった気がしてなりませんが、その考えはすぐに霧散し、意識の中にぼんやりとした靄がかかってしまいます。
楽しいことを考えましょう。私は今の滲みだすような不安を打ち消すために今まで見てきた美しいものを思い出しました。
太陽に照らされたきらきらと光る湖、蒼い瞳孔が美しい目玉、愛しき心臓。
……愛しき心臓。
私は、そう、彼女のために、頭を手に入れようと思っていたのです。一度裏切った私にはそれしか彼女に顔向けできる方法がなかった。
だから。
なぜ私はそれを忘れていたのでしょう。一番大切に思っていたのに。そう全ては彼女のためではありませんか、頭を手に入れてようやく彼女に会える。そう決めたではないですか。
そう思うと、ここで腕をなくすのは間違いでしかないということにようやく気づきました。そもそも心臓ですら小指と歯と物々交換していたのですから、幾ら素晴らしい目玉としても腕一本では割りに合わないではないですか。
思えば、あの目を見た時から何か催眠に掛かっていたような気がします。ですが、ようやく目が覚めました。
また私の心は愛しき心臓に助けられたわけです。
ありがとう愛しき心臓。待っていてください。すぐにあなたを助けに行きます。
さて、道化の青年が何を準備しているか分かりませんが、今から逃げ出した方がいいでしょう。紳士的に考えて約束を破るというのは致命的な過ちではありますが、それは向こうがフェアな場合だけです。
催眠にも似たあのビジネスはフェアとは到底言えないのです。
私は周りを見て道化の青年がいないのを確かめると逃げるように歩き出しました。残念ですが、ぼろを着た人々から見て私は背景の一部でしかありませんが、それでも黒いぼろの中では頭のないスーツの男はそこから目立つのです。道化の青年に見つからないためにも、この街から出る必要があるでしょう。
明日からまた頭を探しましょう。そして頭が手に入ったあかつきには愛しき心臓に会いに行きましょう。森への道を歩きながら、そんな事を考えていました。店主から彼女を引取り、今まで彼女を置いていてもらったお礼を述べ、彼女にこれからの愛をささやく。想像するだけでその甘美さに私は心が浮かれました。
浮かれるようなスッテプは土を踏み、木の根っこを踏み、日が沈み薄暗くなったころ森の奥へと入っていきます。目指すは今日目覚めた湖。あそこなら大きな木の下で眠れる上に、またあの朝日に映る綺麗な湖を見ることができます。
私は完全に暗くなる前につこうと森の中を歩きました。
フクロウが泣きます。木の根の凹凸の上を歩き、目の前にある葉をどけて進んで行きます。木の根を踏み、葉をどけて、フクロウの鳴き声を聞く。作業にも似たその動作を繰り返すうちに、少しずつ、意識が戻ったときのことを思い出していました。
すみませんが、一度ここで回想に入ります。話が気になると思いますが、回想はそれなりに大事なのです。本来なら物語はここから始まるはずでしたからね。
そうです、そうです。物語は最初が肝心なので切り取ったのです。
そう、全ては話しを面白くするためなのです。
本当ですよ。
いえいえ、気のせいですよ。私はいつでもハッピー。皆を笑わせるエンターティナーですから。元気がないなんてことはありえないのです。
さあ、そろそろ始めますよ。
楽しい楽しい私の物語を。
夢から覚めた、というのでしょうか。もしくははっとしたと言った方が正しいのかもしれません。私の意識があると意識したとき、私は森の中をさまよっていました。どうして私は森の中にいるのか。そんなことより今の意識を維持しなければいけない。ですが、それは夢が覚めてしまう寸前のようで、すくいとったはずの意識は指の間から流れてしまう。
何度も意識のある状態と無意識に歩く状態を繰り返し、ようやく私は自分を保つことができました。
ようやく理解できました。
ぼんやりとしたなかで体中の擦り傷の痛みに耐えながら森を歩いたという私を。
そこに疑問はありませんでした。ただ森を歩いているんだなと考えていたのを覚えています。ふらふらと歩き続け、木の根か何かに引っかかったのでしょう。足がもつれて豪快にこけてしまいました。
そのときもとくに考えることもできず、こけてしまったと言う感情だけで、起き上がろうという思考は全くできていない状態でした。本当に夢うつつという状態ですね。寝ぼけていたといってもいいかもしれません。
ですが、私は倒れたことであることに気づいたのです。手の先に湿気った土の感触を覚えながら、普通なら頬に冷たい土の感触があるはずなのにそれがないということに。
恐る恐る手を頭に持っていきます。
何もありませんでした。
頭がない?
意識は徐々に覚醒していきます。
頭がない?
どうして?
小さな疑問は堰を切ったゴキブリたちのように群がり、巨大な塊となり蠢きます。
分かるでしょうか、あの時の動揺が。
あるはずのものがない驚きに。
分かりますかあの恐怖が。
自分が何者なのかも分からず、記憶を辿ろうにも頭には過去なんて色は何もなく、そもそも頭がないとことに気づいた滑稽さに。
焦りが、不安が、恐怖が、どこまでも翳る絶望が。
私は一瞬にして何も考えられなくなり、波にも似た恐怖が遅いかかり震えるしかありませんでした。
私は何者なのか、どうしてここにいるのか。
これからどうなってしまうのか。
答えのでない疑問に手元が震え手元にあった土を握り誤魔化すしかありません。どうしようもできない不安には耐えるしか方法がなかったのです。
何も思いつかず、耐えて、耐えて、耐えて、そのうちおかしくなってきました。頭がないのになぜ怖いのか、頭がないのになぜおかしいのか、頭がないのになぜ意識があるのか。
唐突に私は高笑いを上げ、握っていた土を全身に塗りたくり、近くにあった木に抱きつきました。何度も声にならない悲鳴を上げ、地面をのた打ち回る様は傍から見ればきっと面白いショーになったでしょう。ですが、その時の私は本気でした。
本当にそうするしか方法がなかったのです。
止まらない高笑いが森にこだましました。
私は自分の高笑いがさらにおかしくなり、呼吸も忘れて笑い続けました。
苦しさに喘ぎ、また高笑いをし、疲れては喘ぎを繰り返し、いつしか高笑いもでなくなるほど疲労して倒れました。
涙を流すこともできません。
どうしろと言うのでしょうか。
この不安を何にぶつければいいのでしょうか。動かなくなった途端に蘇る恐怖に、私は抱える頭もないまま木のそばでうずくまります。もう笑う活力すらありません。
恐怖や不安の後にやってきたのはどこまでも無痛な虚脱感。
何も考えられないまま、その晩は明けていきました。
結局一睡もできないまま朝が来ました。
慣れてしまった波のような不安に、快感にも似た感情が芽生え始めていましたよ。生ぬるい血のような心地よさ。思えば、そのときはすでに限界だったのでしょう。
そんなときです。
私がふと前を見ると太陽の光できらきらと光る湖がありました。
夜には気づきませんでしたが、私のいた場所には目と鼻の先に湖があったようです。湖面に集まる鳥のさえずりに、爽やかな森林たち。朝の香りがあたりに漂っていました。
私は貪欲にこの朝を求めて立ち上がりました。その途端に鳥たちは飛び去ってしまいましたが、私はそのまま池まで行き湖の中を覗き込みました。
頭のないタキシードを着て胸元に紫のスカーフを詰めた男がそこにはいました。
これが私?
自分で問いかけます。
紳士のような服装。
その時の私はふとそんなことを思いました。
そう、紳士。淑女を助け高貴な人物。それが私なのではないでしょうか。それならば、私は紳士なのです。
今思えば苦しい考えです。見た目がタキシードだからと言って紳士ですよ。単純にも程があります。ですが、私にとってそれしか残されていませんでした。紳士として生きていく。それが何もない自分にとって唯一私を確立できる言葉だったのです。
あなたはどう思いますか。
自分が何者かも分からず、頭は行方不明で助けてくれる人も周りにはいない。狂ってしまうかの瀬戸際で、唯一の綱がこのか細い紳士という言葉だったのです。
私には紳士になるしか残されていなかったのです。
笑いますか?
まさか紳士になった原因はその服装からだったからなんて。普通紳士というのはそういう家系の人ですしね。笑ってくれてかまいませんよ。紳士と名乗るその正体がただの頭をなくした浮浪者だったのですから。
さて、話を戻しましょうか。過去の話で過去の話が出てきてややこしくなってきたでしょう。ここでまた話していた途中に戻るのですが。
どこまで話ましたっけ?
そうそう、道化の青年から逃げて森に入ったところでしたね。
あれから私はまたあの湖に戻りました。私を紳士だということに気づかされてくれたあの湖です。
その頃には日は完全に沈んで夜の空には星空が広がっていました。街の喧騒は耳に残っているだけでその池は静まりかえっていて、時々聞こえる池で魚が跳ねる音だけが響くのでした。
私はしばらく湖面に映る星空を眺めながら、前日とは違う心の変化に驚いていました。何の希望もなかったあの夜と違って今は頭を探し、愛しき心臓を探しに行くという目標ができていたのです。生きるために大切なものが手に入った。これほど嬉しいことはありません。
もちろん、不安がなくなることはありません。それでも愛しき心臓のことを思い出すと心がやすらぐのが分かるのです。
夜の湖を楽しみながら、そろそろ眠ろうかとしたときです。
森のほうから物音が聞こえました。草をどけるような音。すぐさま私は追いかけてきた道化の青年を想像しました。
音をたてないよう物陰に隠れます。
足音は次第に大きくなり、それは草陰から出てきました。
私の腰辺りまでしか身長のない男。玩具の人形のように歩くその姿は滑稽で彼もまた同芸する者の一人のように思えました。服装は白いシャツにサスペンダーを着ており、顔には三十代はしそうな強面の顔をもちツンと伸びたヒゲを蓄えていました。
星空の明かりでその顔が見えたとき、私は道化の青年とあったときに似た直感が弾けました。ここでようやく気づいたのですが、これはどこかで見たという私の記憶ではないのかと。
必死で記憶を辿りながら男の動向を伺います。小男は池までいくとその前に膝をつき、顔面を池に浸け込みました。水を飲んでいるようで、一飲みするごとに肩が揺れました。それから、飛沫とともに顔を上げ小男は動物のように顔を振りました。
野生動物のような小男を凝視しながら、ここにいてはいけないと自分の記憶が警報を鳴らし初めていました。
私は彼を知っている。
必死で辿っても何も思い出せないというのに、そうした直感と恐怖が私の頭を支配しました。
警報が鳴り続けます。
逃げろ、危ない、捕まってはいけない、と。
どうにかするべきなのでしょうが、どうにも実感がわきません。それほど彼を悪いヤツだとは思えないのです。ですが、自分の中の警報が必死に悲鳴を上げ、体だけがその言葉に反応して私は一歩後ろに下がりました。
些細な音でした。茂った草がズボンに触れるその音に小男は小動物のように反応し、こちらを振り返ります。
小男と視線が合いました。向こうの方はあったと思わなかったでしょうが。
私は驚きながらも彼がどういった行動に出るか気になって仕方ありませんでしたが、小男は私を確認するやいなや表情を崩しました。安堵という表情でしょうか。頬が緩み、今までの不安がなくなったという顔です。
「こんなところにいたのか、探したんだぞ」
小男は手を広げ私を招きました。
許容の態度。私は正直戸惑っていました。彼が何を言っているのかいまいち理解できなかったのです。
「さあ一緒に戻ろう。家に。皆心配している」
それはまるで私を受け入れてる言葉ではないでしょうか。自分の警報は嘘なのか。いったい何を信じればいいか全く分かりません。
「どうしたんだ、何を躊躇している。ほら、私だ。見覚えがあるだろ」
「あの」
躊躇いがちに私は話し始めました。
「私は、頭をなくしてしまって、それにここに来るまでの記憶がないんです。すみませんが、あなたのことも覚えていません」
小男は私が話し始めると意外そうな表情を見せましたが、私が話し終わると優しい口調で話し始めました。
「そうか、記憶を失ってしまったのか。それで帰ってこなかったのか。お前はな、俺の家族なんだ。戻ればお前の仲間もいっぱいいる。皆お前が急にどこか行ってしまったから心配してたぞ。さあ家に帰ろう」
私は心が揺れました。記憶がなくなった時から誰も私を助けてくれる人はいないと、一人で生きていくしかないと決めたのに。
いざ私を受け入れてくれる人がいると思うとどうしてここまで動揺してしまうのでしょうか。
「ですが、私は頭もありません。あなたと出会ったときの人とは違う。いわば別人になってしまいました。もうあなたといた時の私ではありません」
「何いっているんだ。お前はお前じゃないか。俺がお前のどこを見る。俺から見たらお前はいつだってお前だ。俺の家族なんだ。さあ、帰ろう。体もぼろぼろじゃないか」
足が自然と動いていました。自分のいる場所があるこれほど嬉しいことはないではないですか。
震える足で一歩ずつゆっくりと、そして躊躇い動けなくなっても、小男は辛抱強く待っていました。私はそれに勇気づけられ、ようやく小男の前に立てました。
優しく抱きしめてくれました。
その温かさに私は思わず涙の感触を感じたのです。暖かい涙が頬を伝う。その感覚がリアルに再現出来ました。
感謝しました。
誰でもいいからこの幸せを分けてあげたい。こんな幸せでいいのでしょうか。私は私でよかったのです。誰かにそれを教えてもらえることでここまで救われるのです。
「さあ行こう」
ひとしきり抱きしめたあとに小男はそう言いました。
その優しさに私は罪悪感を覚えました。
「ですが、頭がないのです。どこかで見つけなければ」
「何をいってるんだ。お前にはもともと頭なんてものはないぞ」
男はそう言ってからああそうかと一人頷きました。
「そうか記憶を無くしてたとか言っていたな」
元から頭がない?
「どういうことでしょうか。私には頭がないということはどういう意味なんでしょうか」
「意味もなにもない。お前は最初から頭がなかったんだよ」
「分かりません。どうして頭がなかったんですか? 正常な人に頭がない人なんていないはずです」
追求する私に小男は嫌な顔をしました。
もうその話はいいだろうと手を引っ張ります。強く握るその腕に私は恐怖が蘇りました。最初に彼を見かけた時の恐怖です。
「どうして止まる」
小男がそう言って私の足が止まっていることに気づきました。
また私も中の警報が鳴り響いています。嬉しさで覆われ隠れていた警報がようやく姿を表したのです。それは今ではとりかえしのつかないほど大きな音になっており、頭が割れそうでした。
「あなたが」
つっかえつっかえ、私は小男に話し始めます。
「あなたが、私の知っている人物なら教えてください。私の名前は、何ですか?」
ひきつったような笑みを見せ、小男は黙りました。
「教えてください。知っているはずでしょう。それとも私を騙そうとしているんですか」
「なんでこんな知恵がついちまったんだ」
ぼそぼそとつぶやきましたが、私にはそれがはっきりと聞き取れました。
私は小男の手を振り払いました。
「おい、どうしたんだよ。行くぞ」
いらついた声で小男は言いましたが私は彼から伸びる手を避けました。
「分かりません。あなたは誰なんですか。私はあなたに見覚えがある。それなのにあなたは私の名前を知らない。どういうことですか」
「知ってるよ、名前ぐらい」
「では、教えてください。私の名前を」
「四十七だよ」
仕方なさそうに小男は呟きました。
「ヨンジュウナナ」
私は繰り返し小男の言葉をなぞりました。それは幾らかの数字の意味でしか受け取れません。無意味で露骨な数字の羅列。
それが私の名前?
「それが私の名前なのですか?」
「そうだよ、ああ、面倒だな」
うろたえる私に小男は吐き捨てます。
「お前は俺の家畜なんだよ。他の奴らに売るために今まで育ててやったのに、出品途中で逃げやがって、クソ、服もぼろぼろじゃねえか。せっかく頭を取り払って商品になるまで長い間育ててやったって言うのに。値が下がっちまうじゃねえか」
湖がとても綺麗でした。
ぶつぶつと話しつづける小男を視界の中にとどめながら私は愛しき心臓の事を考えていました。
今こそ私は彼女を愛でたかった。
心の底から愛しき心臓を愛でたくてたまらない。
笑いますか?
軽率な私を。
笑ってください。私は紳士でありエンターティナーですから笑ってもらうのが一番の幸せなのです。
本当におかしいですよね。今でも笑いが止まりません。
いったい私は何を望んでいたのでしょうか。擦り切れて薄汚い私に暖かい場所なんてないのは分かりきっていたというのに、それが分かっていたからこそ、どこかから逃げてきたのが分かっていたからこそ一人で生きようと決めたのにこれですよ。
さあ、笑ってください。
おかしいでしょうこの私が。
頭がなく、紳士でもなんでもなく、挙句にどうしようもない馬鹿ときています。この私以上に笑いを持ってこれる人がいますか?
さあ私は最高のエンターティナーなんです。
笑ってください。
ほら。
笑ってください。
何を引き攣っているんですか。せっかくの笑うところですよ。
まあいいです。これ以降も笑うところはもちろんありますから。エンターティナーである私にぬかりはありません。
さてさて、話しを戻しましょう。小男に私は家畜だと言われ、私のとった行動と言うのは逃げるということでした。後ろを振り向かず、小男の怒声も無視して、森の中を走り続けたのです。
あの時と同じですね。
意識を取り戻したあの時です。森の中で走り続けながら、傷だらけになりながら、何かから逃れよう一心不乱に走っていたあの時と。
ただ闇雲に逃げるだけの心細さ。先に何があるか分からず、背後を振り向きたくないがために前へ進むしかないやるせなさ。
どうして私はこうなんでしょうね。
分かりません。まったく分かりません。
私が今まで何かしたのでしょうか。
何か悪いことをしたのでしょうか。
神様はいないのでしょうか。
それとも神様は家畜という私に同情して知識を授けてくれたというのでしょうか。
もしそうならば私は神を殺したい。
この苦しみも、この絶望も全て神のせいです。
ですが、もしかしたら自ら知恵の実をかじってしまったかもしれないですね。さて、知恵を得たアダムとイブはどうなってしまったんでしたっけ。忘れてしまいました。これも記憶喪失でしょうか。
それにしても知恵を持つのはそこまで罪なのでしょうか。
知恵を持ち、自分の考えを持ち、生きていくことがそれほど罪なのでしょうか。
何度も、何度も、何度も、私を底に落とすほどの罪なのでしょうか。
これなら何も知らないうちに解体され、私の腕や目玉を手に入れて皆の喜ぶ様を待った方がよかったじゃないですか。
ですが、今の私にそんなことはできません。知恵を持ってしまったばかりに、想像できてしまうのです。手を失った時の痛みが、目玉がなくなる喪失感が、それが分かっていながら解剖されるのを待てというのですか。
理不尽です。
他の奴らが悠々と体の一部を交換している傍らで私は自分の体から腕や足が取られるのを恐れているしかないのです。その時になってようやく愛しき心臓をここまで愛した理由が分かりました。彼女も私も商品でしかないのです。売られるのが分かっていながらも、必死で脈動して生きている売り物なのです。
結局、私の愛も同情心なのでしょうか。
孤独とは違う寂しさで私は本当に泣きたくなりました。
薄暗い森の中を走り続け、痛みや苦しみを訴える体の悲鳴に私は木の側で座り込んでしまいました。
後ろからあの小男が追ってくる。そう思うと全身が痙攣するように恐怖がありましたが体は言うことを聞いてくれません。私は静かに目を閉じて少ししてからまた走ろうと考えました。
目が覚めました。
いつのまにか眠っていたようです。はっとして小男がいないかとあたりを見回し、目の前に湖が広がっていることに気づきました。
まさか、今までのは全て夢だったのでしょうか。
それならどれだけいいでしょう。ですが、全身についた泥や傷が増えていることからこれが昨日の続きだと如実に語っています。
私は朝の湖を見つめながらここがどこなのか考えました。
確か昨日の夜は湖から逃げたはずです。よくよく見ると、湖の向こうに昨日一昨日とお世話になった大きな木が空に伸びていました。どうやら走っている間に湖の反対側に来てしまったようです。
なんなんでしょうね。帰省本能というやつでしょうか。私はがむしゃらに走ると湖についています。
私は昨日の朝、ここが新しいスタートの場所だとばかり考えていました。それを教えてくれたのが湖だと思っていました。ですが、それは間違いだったのかもしれません。私にとってこの湖はスタートなどではなくゴールなのかもしれません。それに気づかずに私は、ただ操られる道化の人形のように滑稽な劇をしていたのです。
少し肌寒さを感じながら私は立ち上がりました。
静かな意志を見せるように一歩ずつしっかりとした足取りで湖に近づきます。
綺麗な湖面が太陽にさらされ輝き昨日の朝とまるで同じ爽やかな朝を演出していました。
「どうしてこうも美しいのでしょうか」
あの時の感動が、生きていていいのだという感動を思い出しました。昨日の朝、私はこの湖を見てその寛大さに言葉を失い、希望をもてました。
どこまでも広がる湖がある。それならばその向こうにはきっと、もっと素晴らしいものがあるはずだと生きる希望がもてました。
ですが今、私はこの湖の向こうに何があるのか知ってしまった。
知ってしまったのです。
歩き続け湖に続く段差を一段降りました。静かな朝に水音が響きます。すり切れた傷が冷たい水に染みましたが、お構いなしにもう片方の足も湖に浸け込みます。そしてゆっくりと一歩ずつ進んで行きます。
最後の見せ場。顔があるならば泣き笑いの表情で私はそう思ったでしょう。
「さあ、見ていてください観客の皆さん」
手を広げ高らかに私は声を荒らげました。
「頭を求めさまよって、行く着く先にあてはなく、影に怯えも光を灯し、歌って踊る小意気な紳士。街で出会った孤独な少女に、己の鏡を重ねては、勘違いのまま恋に落ち、裏切り涙し再開を誓い、誓った挙句に死を選ぶ、狂って踊る道化の紳士が死ぬ様を」
拍手も何もなく足が沈んでいき、冷たさに感覚がなくなっていくのが分かりました。
両手を広げたまま太陽の残滓を追い求めるように湖の中を進みます。きっと湖に映る太陽に触れたとき、私の劇は成功しはちきれんばかりの拍手が私を包むのです。
そんな妄想に浸り、膝が浸かったころでしょうか。後ろから水の跳ねる騒音が聞こえたのは。
一瞬で寒気が走り、私は振り返ることもできず必死で前へ進みました。劇なんていう悠長なことは言っていられず、必死で手を伸ばし水をかき分けます。がむしゃらに進んで水しぶきを全身に浴びながら、少しずつ近づいてくる水音に慌てて足がもつれました。
盛大な飛沫とともに体が水に沈みます。一瞬どうなったか理解出来ずに、しばらく暴れてから膝をつき立ち上がり。
唐突に肩を捕まれました。
「いやだ、死なせてくれ」
全身を震わせて振り向こともできずそう呟きました。
「辛いんだ。もう、死なせてくれ」
「どうしてそんな早まった真似をするんですか」
その若々しい声を聞いて驚き振り返ると、私のすぐ近くに白い化粧をした男の顔がありました。口元を通りこし頬あたりまで赤い紅を引き、黒く塗った目元の下に涙を模した水玉が浮かんだ顔。道化の青年でした。
「あなたの声が聞こえると思っていたらこれです。どうしたんですか全く」
「死なせてください。私にはもう希望がなくなったんです。私は紳士でもなんでもなかった。ただの家畜だったんです。生きる希望なんてありません。私は手足や内臓をさばかれ売られていく運命しかないのです」
「あなたは馬鹿ですか。家畜がなんです、僕は道化であなたはあなたじゃないですか。なぜそれが死ぬ理由になるんです」
「何ですかその例えは、あなたの方が馬鹿じゃないですか。いいから、死なせてください。あなたに家畜の苦しみなんて分かるはずがないのです」
「そんな苦しみ分かるわけないじゃないですか。僕は道化です。人を笑わせるのが仕事なんです。そしてあなたは紳士ではなかったんですか。紳士が自らの死を選ぶなんてしないでしょう」
「だから紳士ではなく、私はただの家畜なんです!」
悲痛な叫びが届くこともなく、私は無常に響く水音を聞くしかありません。体はすでに疲れきっており、抵抗する体力も残っていませんでした。
ずるずると引きずられ、土の感触を感じたときに私は死体のように何も考えられなくなっていました。
「確かにあなたは家畜かもしれない」
息を切らしながら道化の青年は口元を拭いました。顔の化粧はところどころはげ、花のつぼみのような帽子もなくなっていました。
「でも、家畜だからって死ぬ必要があるんですか。僕にはそんな理由で死ぬ意味が分かりません。あなたは歌も歌えるし、笑えるし。なにより今、自由じゃないですか」
道化の青年の言葉はやはりどこか説得力に欠け、耳から耳へ抜けていくだけでした。
「そう自由です。何をするのも自由。誰を愛するのも自由なのです」
誰かを愛せる。
愛しき心臓の事をまた思い出しました。私は彼女を愛しています。そう、私がいなくなれば彼女はただの心臓になってしまう。私がいなければ彼女はただの心臓という商品でしかなくなってしまう。私と同じ商品になってしまう。忘れていました。私は彼女を救わなければいけない。彼女を愛しき心臓にしなければいけない。
「そうです、私はまだ死ぬわけにはいきません。愛しき心臓を助けなければいけません」
愛しき心臓が何か分からないのか道化の青年は私の話しを聞いて首をかしげましたが、すぐに私が元気になったならどうでも言うように笑顔になって喜んでくれました。
「よかった。ようやく元気になってくれたんですね」
「あなたに気付かされましたよ。しなければいけないことを思い出させてもらえました。ありがとうございます」
「それはよかった。あなたに死なれれば僕もどうしようかと思ってたんです。ぶよぶよした屍肉なんて興味がないし、そんな趣味もないから」
道化の青年は満面の笑みで続けます。
「僕の趣味はただ一つ、人の顔を歪めて笑顔にすることです。最初から歪んでいる表情をしている人をいたぶっても面白くもなんでもないですからね。泣き叫んで、命乞いをして、無意味に謝り続けるのがいいのです」
何のことかと尋ねようとした私を道化の青年は蹴り倒しました。鈍い呻き発して、私はなんとか肘をついて起き上がろうとしましたが、すぐにまた肩の根元を踏まれ地べたに倒れ腹ばいにされました。
「さあ始めましょうか」
さらに腹を蹴られ仰向きにされ、口元を吊り上げた道化の青年の向こうで太陽が輝いているのが見えました。私はその光景をぼんやりと見つめていました。疲れしかやってきなかったのです。
どこから持ってきたのでしょうか。道化の青年の手には鋸が握られていました。所々刃くずれし、何か黒いものがこびり付いているのを確認して、道化の青年は蒼い瞳をぎらつかせこちらを見下ろします。
「どうしたんですか。何か反応してくださいよ」
「命乞いをしたら助けれくれるんですか?」
「場合によっては助けますよ。そもそも最初から殺すつもりも何も、これはあなたと私が交わした取引じゃないですか。こちらが親切で腕を切り取ってあげるのですよ」
道化の青年が下品に笑います。
「それでは、取引をなしにしてもらえませんか」
「それはいけません。あれほど念をおしたんですから」
刃が肩の部分に置かれました。穴の開いた部分からその刃がひやりと感じます。
「それじゃあ始めますよ」
ゆっくりと刃が引かれました。
痛みと言うよりも衝撃ですね。脳髄が焼けてしまうような衝撃。筋肉の筋がぷちぷちと切られる音。タキシードにかかる血。声にならない呻きが森の中にこだまします。
痛みに悶える私を見て道化の青年がけらけらと笑いました。
刃の位置をまた戻します。その動作はゆっくりとしたものでした。まるで鋸を引く楽しみのあまりにそれに至るまでの過程すら楽しんでいるようでした。
「肉をそぐときに僕は一種の開放感を得るんですよ」
また鋸を引きながら、道化の青年は語り始めました。私は声にならない呻きを漏らします。
「街の人々は体の一部を交換して楽しんでいます。それは大道芸人のように商売のために替えているものもいれば、ただ単にどこかの一部を集めているものもいます。だけど、たいていはただのファッションと同じ感覚で交換しているのです。馬鹿だと思いませんか。奴らは自らを布で隠しながらその内側にある身体を一人で楽しんでいるのです」
引いては戻し、引いては戻し、少しずつ刃が肉の中に沈んでいくのを見届けながら、私は次のひと引きが来るのを待ちました。その程度しか理性が保たないのです。
ですが、構えているのを見てとったのか、道化の青年は休憩と言うように手を休めました。
「その点あなたはいいですね。一目見た時からそう思っていましたよ。舞台の上に立ち高額な値段で様々なパーツが競り落とされるあなたを見て私は興奮しました。一つの体にすべてのパーツが綺麗な皮膚で連なっている人なんて見たのは随分久しぶりだったのです。そう、なんの縫い跡もなくあなたの肌は全てが傷ひとつない皮膚でつながっていました」
鋸の刃が何か固いものに当たりました。肉の間から白いものが見えます。道化の青年は文字通り今まで持っていた鋸を放り捨て、後ろから大きな包丁のようなものを取り出しました。
それを骨にあてます。コツンと甲高い音が周りに響きました。骨の周りの肉はぱっくりと開かれていて、中から筋繊維がのぞいていました。それは血に群がるミミズの塊のようで今にももぞもぞと動き出しそうです。
「その時に私が思った事は何だと思いますか? あの体が欲しい? 違います。私はあの体を、傷ひとつないまっさら体を切り刻みたいと思ったのです。神聖なものだと思いませんか。僕はね、今その神聖なるものをそぎ落とそうとしている。何物にも代え難い人の体に刃物を突きつけ、僕はそれをそぎ取っているのです。まるで神になったようではありませんか」
道化の青年は柄を両手で握り、刃を骨にあてたまま刃の上に片足を乗せました。足の重みで私の腕が揺れ、意識が飛ぶほどの痛みが
「そう、私は神です。人を笑顔にすることができる。あなたには顔がないので分かりませんが大丈夫です。分かりますから。これまで様々なやり方で色々な笑顔を見てきたのでどのようなことをすればどんな反応が返ってくるかも分かるのです。さてさて、それでは骨を一気に切るときどんな反応をするか分かりますか?」
そう言って顔を近づけます。その顔は影になりあまり見えませんでしたが、口元が異様に吊り上がっているのだけは分かりました。
「もう何か反応すてくださいよ。まあ、どんな顔をしているのかも分かりますけどね。それじゃあ、メインディッシュといきますか」
刃の上に下半身の体重が加わり、私は痛みに悶えました。
朦朧とする意識の中、道化の青年が語る夢を聞いていました。何かが脳髄を刺激し痛みへと変換していきます。ですが、それはもう夢の中の行いのようで私には何が起こっているのか全く分からずに、どこか暗いところに沈んで行くのでした。
以上。
私の話は終りです。どうです、なかなかの喜劇だったでしょう。
なんですか。それで終わりかですって。
私が覚えているのはここまでなのですからこれで終わりに決まっているじゃないですか。
ですが、もう分かるでしょう。私はその後、倒れていたところ小男こと私の主人に拾われたのです。
夢うつつの中で小男の独り言を聞いているとどうも私の手には蒼い瞳が握られていたと言うことが分かりました。道化の青年はあれで律儀な男のようです。
そうして私は小男に連れて行かれ、ここで下半身をもぎ取られ、内臓は摘み取られ、だんだんとパーツを出荷されてしまったのです。
今考えれば自由に歩き回れたときはいい思い出です。
そうですね。
あまりいい思い出とは言えないかもしれません。知恵を持つということに私は後悔して仕方ありませんでした。ですが、下半身もなくなった頃からでしょうか。
私の仲間。家畜ですが、彼らを見ていると私の方が報われているような気がしだしたのです。なにせ、私には愛しき心臓がいます。彼女のことを思い出すだけで楽になれるのです。今でも彼女は私の希望なのです。その出会いを考えると知恵を持ったことに感謝せざるをえないのです。
ですが、本当になぜ知恵を持ってしまったのでしょうかね。不思議でなりませんよ。心臓を腹に溜め込んでいる彼女の話ではそういう例がないわけではないらしいですが、それはまったくないと言った方が正しいらしいです。
その話について小男がしていたのを聞いたことがあります。彼は私のような男を百人ほど飼っているらしいですが、知恵を持ったのは私が初めてだそうです。それはそうでしょう、離れたものに都合よく知恵をもてば交換される腕や足が逃げ出すかもしれません。そうなればもうこの世界は崩壊です。まあそうなればまだ私にも愛しき心臓を救い出せる可能性がありますからね。
そうですよ、私はまだ諦めていません。希望も見えてきました。
あなたですよ。
あなたが話しかけてきたときは驚き絶望しましたが、あなたは私の希望の光となったのです。あなたはまだ意識が定着しておらず、記憶も曖昧ですが私にとって唯一の可能性なのです。私とあなたで共通点を見つけて行けば、いずれこの世界は知恵を持ったパーツで満たされるかもしれません。
共通点がなくてもここに二つも可能性が出たのですから、それは感染症のように散らばっていく可能性がある。
そうなれば、私がここから抜け出せる可能性が出てくるのです。愛しき心臓を救える可能性が出てくるのです。それを期待してなりません。
ああ、また眠ってしまいましたか。
せっかくいいところだったんですが。
次はいつ起きてくれるんでしょうね。
まあ私はその間に次はどこから話すか考えておきましょうか。
出だしは大切ですからね。
それではおやすみなさい。
意識を持った私の血液。