第7話
それほど昔のことではない、名は思い出せないが、この村に見目麗しい型通りの美しい上臈がいた。女は良縁に恵まれ、評判の良い村の若郷士のもとに嫁ぐこととなった。
しかし、ことの経緯はわからない。どちらかに問題があったのか、両家の間でもつれがあったのか、結納まで済ませていた縁談は男の方から一方的に破棄され、破談となった。
ここまではよくある話だが、恋に破れた女はその後、妄執にとりつかれていった。
女は我を失った。夜な夜な男の屋敷に現れ、閉め出された後も毎夜辺りを徘徊するようになった。女は妄執の果てに、男を逆恨みした。
そして舞台となる芦切神社、男はその日もいつものように参詣を済ませると、もと来た石階段から帰路についた。
上りはよいが下りは怖い。急な階段から足を滑らせぬよう、男は一段一段慎重に下りていく。朝方にひと雨あったのか、階段はまだ乾ききっていない。雨滴が時折ポタリ、ポタリと頭上の木々から落ちてくる。
「一、二、三、四……」
人の声がした気がして、男は足を止めた。陰々とした林のどこからか、女が数を数える声が聞こえたが、耳を澄ませてもその後は聞こえてこない。はて空耳かなと、頭をひねると男は再び階段を下り始めた。
ゆっくり、ゆっくりと……。
「七、八、九、十……」
男は足を止めた。すると女の声もそこで止む。もう一度段を下りてみる……。
「十一、十二、十三、十四……」
女が、どこかで自分の下りる段を数えている。
「誰ぞ、そこにおるのか」
男は段の途中で立ち止まって声をあげたが応えはない。サァと風が一陣、木々をひとしきり揺らせて吹き去っていく。
「十五、十六、十七、十八……」
段を下りると、抑揚のない女の声が数を数えてついてくる。
「二五、二六、二七、二八……」
「りょ、慮外者、姿を見せろ!」
たまりかねて男は思わず大声を出した。だがやはり応えはない。後ろを振り返ってみても誰もいない、人の気配もしない。
いや、だが……。
すぐ横の茂みに声の主が、あの女の姿があった。白装束に手には大鉈が握られ、凍りついたような表情で男を見据えている。
男は声を失った。
振り上げられた大鉈が空を切り、男は真っ逆さまに階段を転げ落ちた……。
これが足切女郎の伝説として伝えられている話である。女はその後村から姿を消し、山中で頓死したと言われるが、足を切られて石階段から転落死する者がその後も相次いだらしい。
村の者はそれを石階段の足切女郎と呼んで恐れた。恋に破れた上臈が死してなお、無念を晴らそうと石階段を下りる者の足を切るのだと……。
噂は民話となり、民話は伝説となった。
芦切神社の石階段には死装束に大鉈を持った足切女郎の幽霊が出る。長階段は決して数えてはいけない。広い新参道ができて通る者がいなくなった今でも、それは伝説として残っているのだ。
ただ、ダイばあさんの語った足切女郎は、これとは少し違っていた。
女は婚約者の男を襲った後も石階段を下りる者を襲い続け、その果て、山中で狂死した。その後も女は悪霊となって石階段を下りる者を襲い続けた。というのが村の言い伝えだが、ダイばあさんによると、女はその後、続発する転落事故の話を聞きつけた村の男衆に無残に殺されたのだという。
転落死した者全てに女が関わっていたかはわからないし、そもそも最初の男も死人に口無しで、本当に襲われたのかどうかはわからない。
女の想いは次第に妄執となり、妄執は女を狂気に染めた。山中に死した後も、恋に破れた男への想いを残して夜道をさまよい続けた、冷たく淋しい、哀れな妄執の幽霊……。
「かわいそうなひとだったんだよ」
ダイばあさんはこう言っていたものだった。村では石階段の悪霊として恐れられていたが、それがどう変じたものか、ダイばあさんの中では石階段の神様になっていたのだ。
曲がり角の踊り場にその名も無き祠はまだあった。私は用意してあったおまんじゅうをそのなにもない祠に供えた。
「女郎さま、今日もお目許、ちっと通してくだしゃんせ」
恐れられもすれば敬われもする。だが坂道の幽霊の伝説もまた、この村とともに水の底に沈んでいく。この冷たく淋しい女の幽霊は、坂道が水底に沈んだ後も石階段に残り続けるのだろうか……。
そうではないと、私は思う。
この村が水の底に沈み、人の記憶から忘れ去られれば、足切女郎の伝説も、哀れな亡霊の存在も消え去っていく。冷たく、淋しい想いだけを残したまま……。
つづく