第6話
あの時、私は夢でも見ていたのかもしれない。
ひとつ溜息をつくとベンチから立ち上がった。周囲の蝉の声はいやがうえにも私を現実に引き戻す。
この神社に初めて来たのはいつのことだろう。お参りを済ませて本殿から表の手水場へ出るとすぐに古い石の階段が長々と下へのびているのが見える。芦切神社の旧参道。この神社がいつできたのかは知らないが、その時からある表参道だ。鬱蒼と茂る木々に囲まれた石階段は昼なお暗く、木洩れ日さえ射さない。舗装された新参道が裏にできてからは暗く急な旧参道をわざわざ通る者はいなくなった。その上、この石階段にはそれらしい言い伝えがついていたからなおさらのことだった。
神社の石階段には女の幽霊が出る。
長階段は決して数えてはならない。
そう言われていた。
私は最後に一度、神社を振り返って石階段を下り始めた。古い石段は長い年月を経て角がすり減り、苔まで生えている。階段は途中で折れ曲がりながら下へ下へと続いている。辺りは蝉の鳴き声と木々のこすれ合う音しかしない。時折鳥がいるのか、折れた枝が落ちるのか、木々の間からガサガサと大きな音がするのに驚かされる。下りながら段の先を見下ろすと、急な階段から今にも転げ落ちそうな感覚をおぼえる。
階段は暗い。下へ降りるほど暗くなって見える。木洩れ日ひとつ射さない木々の上にはさっきまでの暑い夏の日射しがあるなどと、ここからでは想像すらさせてくれない。私は暗く不気味な階段をゆっくりと下っていった――――。
◇◆◇◆◇
ガサガサと木々のこすれ合う音がする。立ち止まった私は弾む息を整え、階段を見下ろした。急な石段が下へ下へと続いている。階段はそこだけ抜き取られたように真っ暗で、強い夏の日射しもそこには全く届いていない。むしろそこだけ太陽も、いや、夏も存在していないかのようだ。
私がじゃんけんに負けて始まった鬼ごっこ。ようやく見つけた朔司を追いかけていくと、急な坂道を登り、いつしか見晴らしのいい知らない神社に辿り着いていた。
ここはどこだろう。確かに朔司が坂道を登っていくのは見たのだけれど、途中で見失ってしまった。もしかするとこの神社にまで来ていないのかもしれない。見晴らし台はとても眺めがよかったが、人気のない境内は不気味なまでに静まりかえっていて、照りつける夏の日射しの下で、どこかこの世のものではないような雰囲気があった。
「朔司くん、いるの?返事して!」
サァと風が一陣、木々をひとしきり揺らせて吹き去った。返事は返ってこない。私は怖くなった。
もうこの先の暗い階段を下っていったのかもしれない。私は石階段を下りることにした。途中にはところどころ苔生した石碑やすり減った石像が置かれている。
ここから降りなければよかった。私は何度も引き返そうかと悩みながら下っていった。段を数えていたのだがそれも途中からわからなくなった。
段の曲がり角の最初の踊り場まで来ると、そこに人がいるのが見えた。おばあさんがひとり、腰をかがめてなにかをしている。人気がまるでなかったので驚いたが、私が後ろまで近づいてもおばあさんは気付かない。しゃがみこんでごそごそと手提げの中を探している。なにをしているのだろうとよく見てみると、おばあさんの前の踊り場の隅に小さな祠を見つけた。
「おばあさん」
私は恐る恐る声をかけてみた。しかしおばあさんはまだ手提げの中をまさぐる手を止めない。ブツブツと独り言まで言い出した。
「お、おばあさん!」
大きな声で呼びかけると今度は反応があった。あれえ、と言っておばあさんは顔をあげた。
「おや、見ない顔だねえ。こんなところでどうしたんだい?」
しゃがれ声でうっそりと言うと、おばあさんはおかしいねえと、また手提げの中身を探し始めた。
「あの、ここを誰か通りませんでしたか?朔司くん、男の子が」
「朔司?ああ、あれなら今ここを走っていったがね。なにをしてるんだか……、おお、あったあった」
おばあさんは手提げの中からおまんじゅうを取り出すと、それを地面に並べた。またブツブツと独り言を言っている。
「ありがとう、おばあさん」
邪魔をしないようにと一声かけて、私は次の階段に向かった。すると後ろから急に呼び止められた。
「ちょいとお待ち」
「え?」
驚いて振り返るとしゃがんだおばあさんがこっちを向いて手招きをしていた。
「だぁめだよ、ここを通るんならちゃんと女郎さまに挨拶していくんだ。ほら、こっちにおいでな」
「あ、はい」
なんのことかわからなかったが、戻ってみるとおばあさんは手提げから出したおまんじゅうを祠に供えるところだった。本当に小さな祠だ。ひっそりと踊り場の隅にあるので普通なら見落としてしまうだろう。それくらい目立たない。まわりを見てもなんの祠なのかわかるような札も碑も見当たらなかった。
「ほら、ここにおいでな」
私は促されるままおばあさんの隣にしゃがみこんだ。おまんじゅうを渡されたので一緒に祠にお供えした。
「女郎さま、今日もお目許、ちっと通してくだしゃんせ、とおりゃんせえ」
そう言っておばあさんは祠に向かって手を合わせた。私もそれに倣った。
もう朔司はずいぶん先に行ってしまっただろう。他の2人もどこかで待っているかもしれない……。
「ほら、おまえさんも一緒にお願いするんだよ」
「あ、はい」
祠に向かって目を閉じていたら声をかけられた。私はおばあさんに続いてさっきの言葉を繰り返した。
「ねえおばあさん、女郎さまってなに?」
朔司の後を追う前に気になったので聞いてみた。
「あれ、知らないのかえ、足切女郎さま。この坂道の神様だよ。ここを通る人を悪いものから守ってくださるが、敬わなければ罰があたるとな」
「え、足切女郎って、ここがその石階段なの?」
石階段の幽霊の話は村に来てから何度か聞いたことがある。聞く度に怖い思いをしたものだが、ここがその場所だとは知らなかった。
「そうだよ。さあ、もう挨拶は済んだから行ってもいいよ。朔司のやつはもう下へ降りていったがな」
おばあさんはよっこらしょと腰をあげて下を指差した。
「あ、うん。だけど、大丈夫かな……、私、怖くなっちゃった」
「なにが怖いんだい。おまえさんはちゃんと挨拶をした。だから女郎さまが守ってくださるさ。あと、階段の数は数えちゃいけないよ、いいね?」
「え、私さっき数えちゃった……」
「本当かえ、でも、もう覚えてないようだけ」
「う、うん。途中でわからなくなっちゃった」
「じゃあ大丈夫だよ。お行き」
「はい」
私はお辞儀をしておばあさんのもとを立ち去った。すると次の階段の前でまた呼び止められた。
「ときにおまえさん、名前は?」
「あ、雪枝、能美雪枝って言います」
「ああ能美かえ。それじゃあ雪枝、気をつけておりるんだよ。転ぶんじゃないよ」
そう言っておばあさんは軽く手を振った。
「うん。ありがとうおばあさん」
「あたしゃダイっていうんだよ。ダイばあさんとお呼び」
「はい。さよなら、ダイおばあさん!」
私は手を振って踵を返した。その時、それまでずっと表情を変えなかったダイばあさんが、かすかに口元をゆるめて笑ったのが見えた……。
◇◆◇◆◇
ダイばあさん。その後も何度か顔を合わせる機会があったが、この時が初めてだった。クールなおばあさんだったが、村の間では変わり者と見られていたらしい。あの名もなき祠にお供えをしていたのもダイばあさんだけだった。
足切女郎の石階段。初めて行ったあのときまでここのことだとは知らなかったが、その怪談はその前にも聞いたことがあった。確か町内会かなにかの集まりで夜に村の青年館に行ったときに、好雄のおじいさんから聞いたのだった。
それはこんな話だった……。
つづく