第4話
こうして橋の上に佇んでいると四人の笑い声が今にも聞こえてきそうな気がした。
初めて川に飛び込んだときのことだから、小学二年の夏の出来事だ。確かあの後四人は仲良く家に帰ったのだが、その途中で岬が口にしたセリフが傑作だったのを覚えている。
「朔司、好雄が私を泣かせたって、試しにあのじいさんに言ってみてくれよ。好雄のやつ、案外ほめられたりするんじゃないかと思ってさ」
口元に不敵な笑みを浮かべて彼女はそう言ったものだった。
朔司から聞いた話によると、小学校に入る前の好雄は相当ないじめっ子で、まわりの子をいつも泣かせていたらしい。私も初めて会ったときに泣かされた口だが、そんな好雄も負けず嫌いの岬にはなぜかかなわず、逆に泣かされていたそうだ。しかし男勝りな子だった岬も、この時は怖くなってしまったらしい。次の時からはもう怖がらずにむしろ楽しんで飛び込むようになっていたのは彼女らしいが……。
それで私はよく先に飛び込む勇気が出たものだ。弱虫で泣き虫だったのに。
あの時の好雄の、やればできるんだ、という言葉は今でも胸に響いている。
「やればできるんだ、か……」
私は人のいない上臈橋をあとにした。
周囲は相変わらずのどかな田園風景が広がっている。しかし人の姿はほとんど見えない。ここまで村を横切って歩いてきたのだが、途中ですれ違ったのは数えるほどの老人だけだ。風景は同じだ。あの頃に戻ったような感覚さえ覚える。だが他はなにもかもが違うのだ。知った顔にも会わなければ、そもそも人がいない。このどこか心寂しい雰囲気は十三年前の当時にはなかったものだ。
だが、それも無理はない。
芦切沢地区はもう今年中に水の底に沈むのだ。
下流に建設中の大型のダムが近々完成を見る。そうすればここにはすぐに水が入る。今年中にだ。だから私は帰ってきた。この村の最後の夏に……。
計画が持ち上がったのはかなり前のことだった。住民との合意は順調に決まり、建設は急ピッチで進められた。世間が異常なインフラ熱に浮かされていた時代だった。
しかしそんな巨大ダムも、世間の熱が冷めると計画に対して嗷々と批判の声が上がるようになり、八割がた完成していた計画は中挫した。あの狂熱がなくともやり口が前時代的だった。
その計画がどうして去年になって再開になったのかはわからない。ただ芦切沢は、世間の狂った熱気や気まぐれな政府になすすべもなく弄ばれるしかなかった。
現在、この地区には自分の生まれ故郷に水没の直前まで居座ろうと執念く残るわずかな老人がいるだけだ。水没が決まって何年も経てば地図からも消えはする。忘れ去られもする。こののどかな風景の色づこうとしている水田の稲穂も、そんな彼らの最後の収穫なのだ。
バス停からずいぶん歩いてきた。長らく続いていた水田も途切れ、すぐ先にはこんもりと盛り上がった裏山が、その先には険しい山々が控えているのが見える。村の端までやってきたのだ。
この村の隅っこにある山、と言うよりも小高い丘と言った方が正確だが、その上には神社がある。芦切神社というのだが、そこにもたくさんの思い出が残っている。十分もあれば登りきってしまう高さだが、上の神社からは村が一望できるのだ。そこは今日の目的地でもある。私は表の旧参道ではなく裏手の新参道から登ることにした。正面の鳥居をくぐらずに迂回すると村では珍しい舗装路に出る。急な石階段の旧参道とは別に後からつくられた道で、上の神社まで車で行けるようになっているから道幅は広い。
かつてこの新参道では毎年この時期に縁日が催されていた。村総出のものだったし、今では完全に人がいなくなってしまった上流の神納地区からも人が集まったためかなりのにぎわいを見せたものだった。
参道の坂道は登り始めの急な勾配を越えるといくぶんなだらかになった。私がここでの縁日に来られたのは小学四年の時の一度きりだった。里帰りの期間と縁日の日がたまたま重ならなかったからだ。
ひらけた坂道に屋台が並ぶ。私はその日も、三人と一緒だった――――。
◇◆◇◆◇
「雪枝、まず射的やらないか。きっと今年もいいものがあるぜ?」
坂道を上るなり好雄が言った。
「私はいいよ。だって鉄砲撃てないもん」
「撃てなくても大丈夫だって。朔司も岬も行こうぜ、射的」
私は走っていく三人について行った。
「欲しいのがあったら取ってあげるからさ」
走りながら横で朔司が言った。
三人とも射的が上手かった。もう何年もやっているからなのだろう。次々と標的を落としていく。私はと言うと文字通りの的外れだった。最初に目に入った雪だるまのぬいぐるみを狙ったのだが一度も当てられなかった。私はつまらなくなってしまった。
「ねえ岬ちゃん、一緒に金魚すくい行かない?」
「うん、いいよ。ちょっと先に行ってて。金魚すくいはいつもあのカーブのところにあるんだ」
岬は狙いを定めながら坂の上のほうを指さした。
「雪枝、おまえあの雪だるまが欲しいのか?」
私がひとりそこを離れようとすると好雄が不意にたずねてきた。
「う、うん。そうだよ」
「へえ、ずいぶんかわいいのが欲しいんだな。一緒におねんねするのかなあ?」
「もう、好雄のバカ!私行くからね」
好雄はイヒヒといたずらっぽく笑っている。私は射的の屋台に背を向けて坂を上った。後ろから「悪いな雪枝、すぐに追いつくから」という岬の声が聞こえた。
焼きそば、イカ焼き、じゃがバター、居並ぶ屋台を通り過ぎると急なカーブに差しかかった。そこから先はまた坂が急になっていて、屋台はそのカーブから先には出ていない。金魚すくいは岬の言う通りその曲がり角にあった……。
◇◆◇◆◇
射的は的外れだったけど、確か金魚すくいもうまくいかなかったんだっけ。
屋台の立ち並んでいた坂道を上り、金魚すくいのあったカーブまで来た。十四年前の夏の思い出。ここにこうして立っていると、あの時の子どもたちの楽しそうな笑い声や威勢のいい屋台の呼び声、発電機の音が今にも聞こえてきそうだ。
私は十四年前と同じように金魚すくいをした場所にしゃがみこんだ。
今振り返れば、そこに岬がいるんじゃないか……。そんな気がした――――。
つづく