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23/23

第22話 白衣の外で、君と話す


 昼下がりの光は、午前とも夕方とも違う、どこか中途半端で、それでいて妙にやさしい色をしていた。


 鋭くもない。

 弱くもない。


 ただ、確かにそこにあって、時間が流れていることだけを、静かに、逃げ場のない正確さで伝えてくる光だった。


 病棟の廊下は、その光を受けて、白い床に淡い反射を落としていた。


 磨かれた床の上には、窓枠の影が薄く伸びている。

 影はくっきりとはしていない。

 昼を過ぎた陽射しは強すぎず、輪郭を少しだけぼかしながら、白い壁も、白い天井も、白い手すりも、全部を均一に照らしていた。


 遠くでワゴンの車輪が転がる音がする。


 ナースステーションからは、紙をめくる乾いた音。

 端末を叩く軽い打鍵音。

 誰かが小声で患者の名前を呼ぶ声。

 どこかの病室から漏れてくるテレビの、音量を絞ったような声。

 点滴スタンドの金属が、わずかに触れ合って鳴る小さな音。


 すべてが重なって、空気の層の中に沈んでいく。


 昼食後。


 この時間は、何かが起きるわけでもなく、かといって完全に止まっているわけでもない。


 ただ、“続いている”時間だった。


 病院の一日は、派手に区切られない。


 朝の忙しさが少しだけほどけて、昼の静けさへ移り、その静けさもまた、次の処置やリハビリや面会や検査によって、また別の忙しさへ崩れていく。


 その狭間にある、ほんの短い緩み。


 けれど、その緩みがあるからこそ、人は急に自分の内側を見てしまう。


 黒瀬湊は、ベッドの縁に手をついたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。


(……長いな)


 何が、とは言い切れない。


 時間だ。

 たぶん、時間そのものだ。


 身体は回復してきている。

 痛みも、以前よりはずっと引いている。

 筋肉の奥に残る鈍さや、動くたびに思い出すような違和感はまだある。


 けれど、それでも、“どうにもならない”ところからは確実に抜け出していた。


 だからこそ、見えるようになったものがある。


 ――時間。


 何も起きない時間。

 何も起きていないことがわかる時間。

 自分の身体が持て余すほどではないのに、自分の頭が勝手に色々考え始める時間。


 それは、思っていた以上に長くて、そして少しだけ扱いづらかった。


 最初の頃は違った。


 痛みが強くて、頭も身体も余裕がなくて、ただ目の前のことに耐えるだけで一日が終わっていた。


 次の処置。

 次の検査。

 次のリハビリ。


 流れてくる予定に合わせているだけで精一杯だったし、むしろそれ以外を考える余裕なんてなかった。


 だが今は違う。


 少し動けるようになって。

 少し余裕ができて。


 そのぶん、“何も起きない時間”が見えるようになった。


 窓から差し込む光は、朝よりもわずかにやわらかい。

 白いシーツの上に落ちる影は、角度を変えて、ゆっくりと伸びている。


 時間が進んでいるのが、はっきりわかる。


 だからこそ、そのあいだに何も起きていないことも、はっきりわかる。


(……こういう時間が、一番長く感じるな)


 視界の端に、青白い光が静かに浮かび上がった。


『黒瀬湊』


『レベル:11』

『現在経験値:745/6100』

『現在スキル経験値:2520/2600』

『現在恋愛ポイント:2445』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.7』

『次回スキルレベルアップまで:80』


『現在ステータス』

・身体回復:中

・視力補正:安定

・行動範囲:病棟内/車椅子移動可

・疲労:軽度

・精神状態:思考過多/整理中/受容傾向


『所持スキル』

・《感情トレースLv.3》

・《言外読解Lv.3》

・《身体感覚補正Lv.2》

・《安心感付与Lv.2》

・《重心把握Lv.2》

・《疲労看破Lv.2》

・《関係負荷軽減Lv.2》

・《役割把握Lv.1》

・《優先順位把握Lv.1》

・《違和感感知Lv.1》

・《空気読みLv.1》

・《回復感覚Lv.1》

・《会話持続Lv.1》


『所持アイテム』

・《微睡みミント》×1

・《メンタルリカバリーチケット》×1

・《リハビリサポートバンド》×1

・《ナースメモカード》×1

・《ミントタブレット》×1

・《栄養補助スープ》×1

・《暇つぶしカード》×1

・《非常用簡易メモ》×1

・《夜勤対応メモ》×1

・《小型ライト》×1

・《集中維持パッチ》×1

・《夜明けのメモリーカード》×1

・《完全回復アンプル(小)》×1

・《リスタートバンド》×1

・《温度のメモ》×1

・《売店チョコ》×1

・《食堂スープ予約券》×1

・《リフレッシュミント》×1

・《売店おすすめメモ》×1

・《栄養バランスゼリー》×1

・《午後の共有メモ》×1


『解放済み機能』

・イベント危険度表示

・会話相性表示

・選択肢リスク予測

・ステータス詳細表示

・軽会話ログ保存

・食事相性表示

・患者心理補正

・感情隠蔽補正表示

・イベント危険度表示・強化

・選択肢リスク予測・拡張

・連携相性表示

・緊急時優先対象抽出

・複数対象同時補正

・本音接触率表示

・不可視感情検知

・既知関係補正

・会話テンポ補正


『現在進行中イベント』

・《白石結衣:白衣の外の話》進行中

・《佐倉奈緒:背負い方の変化》継続中

・《神宮寺綾乃:信頼形成 初期》継続中

・《桐谷美月:連携ルート》継続中

・《朝比奈紬:再会したはずの距離》PHASE1待機

・《白峰紗雪:止まれなかった手》待機中


『特殊フラグ』

・《朝比奈紬:長期蓄積感情》

・《白峰紗雪:止まれなかった手》

・《リリス観測補助:不明》


(……あと少しで、スキルレベルが上がるのか)


 湊はその表示を見つめながら、小さく息を吐いた。


 経験値。

 スキル経験値。

 恋愛ポイント。


 現実とは思えない数字が、現実の病室の中に浮かんでいる。


 けれど、もう驚きは薄い。


 むしろ最近は、その数字だけで測れないものの方が気になっていた。


 朝比奈紬の、見えなかった好感度。

 西野あかりの、軽口の奥にある体温。

 宮本奈々の、ひとくち分の元気。

 吉岡沙織の、長い午後を分ける静けさ。


 数字は出る。

 イベント名も出る。

 報酬も表示される。


 それなのに、肝心な部分はいつも数字の外側に残る。


(……結局、そこなんだよな)


 そう思った時だった。


「黒瀬さん」


 やわらかい声が、静かな水面に小石を落とすように届いた。


 顔を上げると、そこには白石結衣がいた。


 白衣姿。

 タブレットを抱えている。

 いつも通りの看護師の格好。


 ――のはずなのに。


 どこか、いつもと違う。


 白衣の襟元は整っている。

 髪もきちんとまとめられている。

 名札もまっすぐだ。


 勤務中の見習い看護師としては、いつも通り。

 いや、むしろ少しだけ丁寧なくらいだった。


 なのに、目だけが違う。


 少しだけ落ち着かなくて。

 少しだけ決意していて。

 少しだけ逃げたいのに、逃げないでいる目。


 視界の端の光が、すぐにそれを言語化した。


『《白石結衣》》

『年齢:20』

『職業:見習い看護師』


『レベル:18』

『レア度:★★★☆☆』


『好感度:88%』


『状態:緊張/決意/感情抑制(限界付近)』

『補足:本音開示率 上昇中』


(……ああ)


 湊は、ほんの一瞬で理解した。


 今日の結衣は、“いつもと違う”。


 ただの業務ではない。

 いつもの確認でもない。

 いつもの声かけでもない。


 何かを決めてきた顔だった。


「少し……時間、ありますか」

 結衣は言った。


 言い方は丁寧だ。

 いつも通り、患者に確認するような言い方。


 でも、その奥にあるものは、明らかに違っていた。


「リハビリまで、少し空いてるので……」

 一拍。

「その……少しだけ、話したくて」


 その一言で、空気がわずかに変わる。


 病棟の白い空気の中に、急に別の温度が混ざる。


 業務の時間の中に、個人の時間が滑り込んでくる感じ。


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


「……ああ」

「行くか」


 それだけで十分だった。


 結衣はほんの少しだけ目を見開き、それから小さく頷いた。


「はい」


 声が少しだけ上ずっていた。

 だが、それでも嬉しそうだった。


 移乗の動きは、かなり自然になっていた。


 手の位置。

 重心の移動。

 足の置き方。

 腰を浮かせるタイミング。

 車椅子の位置との距離。


 すべてを意識しながらも、流れとして繋がっている。


 まだ完全ではない。

 ほんの少しでも油断すれば崩れる段階ではある。


 だが、“できない”から“慎重にやればできる”へは、確実に進んでいた。


 結衣はその動きを、すぐ近くで見ていた。


 手を出すこともできる。

 支えることもできる。


 支えたい気持ちは、たぶん今も強い。


 でも――出さない。


 ギリギリまで、出さない。


(……変わった)


 結衣は、自分でもそれを感じていた。


 前なら、すぐに手を出していた。


 不安だったから。

 怖かったから。

 少しでも危なそうなら、支えなきゃと思っていた。


 でも今は違う。


 信じている。


 湊の回復を。

 湊の身体を。

 そして――湊自身を。


 それでも、もし本当に崩れそうになったら、たぶん反射で手を出すだろう。

 そういう自分もわかっている。


 けれど、その境界が少しだけ遅くなった。


 それはたぶん、結衣が看護師としてだけではなく、一人の人間としても湊を見始めているからだ。


 支えたい。

 でも、奪いたくない。


 その二つが、今の結衣の中でせめぎ合っていた。


 廊下へ出る。


 午後の光が広がる。


 人の流れは穏やかで、どこか余白がある。

 午前中のような張りつめた忙しさではない。

 けれど完全に止まっているわけでもない。


 人がいて。

 声があって。

 でも全体のテンポが半歩だけ遅い。


 その中を、二人で進む。


 車椅子のタイヤが、床のわずかな継ぎ目を越えるたび、小さな振動が伝わる。


 結衣は、その振動にすら神経を向けていた。


 早すぎず。

 遅すぎず。

 押しすぎず。

 でも迷いすぎず。


 今の自分の歩調が、湊にどう伝わるかまで気にしてしまう。


「……黒瀬さん」

 結衣が、小さく声をかけた。


「ん?」


「さっきから……」

 一拍。

「少しだけ、顔がやわらかいです」


 湊は少しだけ目を細めた。


「そうか?」


「はい」

 結衣は頷く。

「ぼんやりしてる時の顔じゃなくて……」

「ちゃんと、考えようとしてる時の顔です」

「朝の、ちょっと遠い顔じゃなくて」

「今は、ちゃんとこっちにいる感じ」


(……見てるな)


 そう思う。


 そして、それが嫌ではないことにも気づく。


 人に見られるのは、本来あまり好きじゃない。


 昔の自分なら、そういう観察を面倒だと思ったかもしれない。

 勝手に見透かされるようで、少し距離を置いたかもしれない。


 でも、結衣のそれは、嫌な意味での詮索じゃない。


 ちゃんと気にかけて。

 ちゃんと見て。

 ちゃんと変化を拾ってくれている視線だ。


 その視線なら、少しだけ受け取ってもいいと思えた。


「ここ……好きなんです」

 結衣がぽつりと言った。


 たどり着いたのは、病棟の端にある小さな窓際スペースだった。


 白い壁。

 大きな窓。

 簡素な椅子と小さなテーブル。

 隅に積まれた雑誌やパンフレット。


 何もない場所。


 だからこそ、“何かを置ける場所”。


 窓の向こうには、病院の敷地を囲む低い植え込みが見える。

 その向こうに、道路。

 さらにその向こうに、春から初夏へ向かう街路樹の緑。


 車の音は、ここまではほとんど届かない。

 見えているのに、遠い。


 病院の中から見る外の世界は、いつも少しだけ現実感が薄い。


「そうなのか」

 湊が言うと、結衣は小さく頷いた。


「はい」

 一拍。

「何もないので」

「逆に、落ち着くというか……」

「忙しい時に来ると、ここだけ空気がちょっと違うんです」

「患者さんも、職員さんも、たぶんそう思ってるから、だから人気なんだと思います」


「何もないって、いいよな」

 湊は少しだけ笑った。

「変に考えなくていいし」


「……そうですね」

 結衣も小さく笑う。


 だが。


 今日は違う。


 “何もない場所”で、“何かを話す”ために来ている。


 沈黙が落ちる。


 だが、それは逃げるための沈黙ではない。

 むしろ、逃げ道を塞いでいく沈黙だ。


 結衣はその沈黙の中で、自分の鼓動をはっきり聞いていた。


(言う)

(今日、ちゃんと言う)

(また今度じゃなくて)

(落ち着いてからじゃなくて)

(今)


 ここまで来るのに、結構かかった。


 西野あかりと湊が自然に軽口を交わすのを見た時。


 売店という場所に、彼女はあまりにも馴染んでいた。

 軽くて、柔らかくて、でもちゃんと相手を見ている。

 距離の取り方がうまくて、踏み込みすぎないのに、必要な時だけ一歩入ってくる。


 あの時、結衣は思った。


 自分には、あんなふうにはできない。


 宮本奈々が食堂で、生活の近さみたいな距離で湊に触れた時。


 彼女は“食べること”で人を支えていた。

 体調を見るというより、生活そのものを見るみたいに、湊の疲れや食欲や気持ちを拾っていた。

 支える手も、声のかけ方も、自然だった。


 あの時も、結衣は思った。


 自分は、ちゃんとそばにいるのに。

 自分は、もっと前から見ているのに。


 それでも、ああいう自然さは持っていない。


 吉岡沙織が窓際で、同世代らしい静かな共有をしていた時。


 大げさなことは何も言っていなかった。

 ただ、暇が長いという話をしていただけ。

 ただ、同じ景色を見ていただけ。


 それなのに、あの空気は妙に近かった。


 看護師でもない。

 職員でもない。

 年上でもない。


 同じ病棟にいる、同じくらいの年齢の女の子。


 その距離は、結衣にはどうしても真似できないものだった。


 ずっと近くにいるのは自分のはずなのに。

 いちばんそばで支えてきたつもりなのに。


 それなのに“近い”だけでは足りないのだと、何度も思い知らされた。


 そのたびに、自分で自分を叱っていた。


 看護師なのだから。

 患者にそんな感情をぶつけるのは違う。

 ちゃんとしなきゃいけない。

 笑って見ていなきゃいけない。


 けれど、ちゃんとしているだけでは、少しずつ苦しくなっていた。


「……あの」


 結衣が、口を開いた。


「私」

 一拍。

「ちょっと変だと思うんです」


 湊は何も言わない。

 ただ、聞く。


 その“ただ聞く”姿勢が、今の結衣にはありがたかった。


 急かさない。

 軽くしない。

 変に助け舟も出さない。


 だからこそ、自分の言葉で行かなければいけない。


「最近……」

「黒瀬さんのこと」


 言葉が詰まる。


 呼吸が少しだけ浅くなる。

 白衣の裾を握った指先に、力が入る。


「患者さんとしてだけ、見られなくなってきてて」


 やっと出た言葉。


 でも、それは始まりにすぎない。


「もちろん、ちゃんと仕事はします」

「看護師としてやることも、ちゃんとやります」

「体調のこととか、薬のこととか、移動のこととか」

「そういうのを疎かにしたいわけじゃなくて」

「むしろ、ちゃんとしたいんです」

「今まで通り、ちゃんと……」


 一拍。


「でも……」


 指先が、白衣の裾をぎゅっと握る。


「それだけじゃ、足りなくなってきてて」


 湊の胸の奥が、わずかに揺れる。


 視界の端の光が、反応を示す。


『《不可視感情検知》反応増大』


『対象:白石結衣』


『感情傾向:好意/不安/独占欲(微)/自己抑制崩壊』


『本音接触率:72% → 84%』


 結衣は、顔を上げられないまま続けた。


「他の人と話してるの、見てると」

 一拍。

「ちょっとだけ、嫌だなって思ってしまうんです」


 声が少しだけ震える。


「西野さんの時も」

「奈々さんの時も」

「沙織さんの時も」

「皆さん悪い人じゃないし」

「むしろ、みんなちゃんと黒瀬さんのことを見ていて」

「それがわかるから、余計に自分が嫌になるんですけど……」


 結衣は一度、唇を噛んだ。


「でも、嫌だなって思うんです」

「なんでそんなに自然に近づけるんだろうって」

「なんで私は、こんなにずっと近くにいるのに、同じみたいにできないんだろうって」

「西野さんみたいに軽く笑わせることもできなくて」

「奈々さんみたいに自然に世話を焼くこともできなくて」

「沙織さんみたいに、同じ景色を静かに見られるわけでもなくて」


 一拍。


「私は、いつも体温とか、薬とか、危ないとか、大丈夫ですかとか」

「そういう言葉ばかりで……」


 声が小さくなる。


「でも、それだけじゃ嫌だって、思ってしまったんです」


 湊は黙って聞いていた。


 結衣の言葉は、決して綺麗に整ってはいなかった。


 でも、だからこそ本音だった。


 整えすぎた言葉ではなく、胸の奥から少しずつ掘り出しているような言葉だった。


「でも、それを出すのは違うと思って」

「看護師ですし」

「そんなことで空気変えたらダメだって思って」

「仕事中にそんな顔、絶対見せたくないって思って」


 小さく、息を吸う。


「だから、ずっと我慢してました」


 その“我慢してました”に、結衣のここしばらくの全部が詰まっていた。


 笑っていたこと。

 見送っていたこと。

 大丈夫そうな顔をしていたこと。

 自分の中で感情を何度も押し込めたこと。


 その全部の裏で、少しずつ積もっていた感情。


 結衣は続ける。


「私、たぶん」

「近くにいるのに、足りないって思ってるんです」

「そばにいるだけじゃ、もう足りなくて」

「黒瀬さんの中で、ちゃんと私の場所が欲しいって思ってる」

「でもそんなの、勝手だし」

「看護師として近いのと、女の子として近いのは違うって、自分でもわかってるし」


 そこで、ようやく顔を上げる。


 怖かった。

 でも、逃げたくなかった。


「でも」


 真っ直ぐだった。


 逃げていない。

 誤魔化していない。


「今日は……ちゃんと、自分の言葉で話したくて」

「白石結衣として、言いたくて」

「看護師じゃなくて」

「仕事のついでじゃなくて」

「ちゃんと私の時間をもらって、話したかったんです」


 それだけで、十分だった。


 派手な告白じゃない。

 恋愛の決定打でもない。


 けれど、逃げずに出した本音としては、これ以上ないくらい真っ直ぐだった。


 湊は、ゆっくりと息を吐いた。


 結衣の顔を見る。


 少し赤くて。

 少し強がっていて。

 でも、ちゃんと自分で立っている顔だった。


 視界の端に、選択肢が浮かぶ。


『▼白石結衣 イベントLv.3』

『名称:白衣の外の話』


『A:看護師としての距離を守るよう伝える』

『B:気持ちは受け取るが、今は答えを保留する』

『C:結衣の本音を肯定して、白石結衣として受け取る』

『D:冗談で空気を軽くして逃がす』


(……Cだ)


 迷わなかった。


 今の結衣に必要なのは、正解の告白返しじゃない。

 安易な恋愛の答えでもない。


 ただ、出した本音を否定されないこと。

 看護師という役割の奥にある“白石結衣”を、ちゃんと見てもらうこと。


 だったら。


「……変じゃない」


 結衣が、わずかに目を見開く。


「近くにいたからだろ」

「それだけ見てたってことだ」

「毎日ここにいて、俺の顔見て、体調見て、気分見て」

「危ないところも、ちょっと戻ったところも、変な顔してるところも」

「たぶん、俺自身より見てた」


 一拍。


「それで何も思わない方が、たぶん不自然だ」


 結衣の指先が、わずかに震える。


「だから今日は」

「看護師じゃなくていい」


 結衣の呼吸が止まる。


「結衣の言葉として聞く」


 その一言が、静かに落ちる。


 結衣の目が、わずかに揺れる。


 泣きそう、というほどではない。

 でも、ずっと張りつめていた何かが少しだけほどけた顔だった。


「……ずるいです」


 小さく笑う。


「そういう言い方、ずるいです」

「逃げられないじゃないですか、そんなふうに言われたら」


「そうか?」


「はい」

 一拍。

「でも……嬉しいです」

「すごく」


 ほんの少しだけ、距離が近くなる。


 車椅子の肘掛けに置いた湊の手と、白衣の裾を握っていた結衣の手の距離が、数センチだけ縮まる。


 触れるほどではない。


 でも、お互いにその近さを意識するには十分な距離だった。


 窓の外の光が、二人の間に落ちる。


 白い壁。

 静かな廊下。

 遠くの物音。


 その全部が、急に遠くなる。


「私」

「近くにいるのに、足りないって思うの」

「変だと思ってたんですけど」

「ずっとそばにいるのに、もっと欲しいって思うの、すごく勝手だと思ってたんですけど」


 一拍。


「変じゃないなら……少し安心しました」


 その笑顔は、どこかやわらかくて、少しだけ照れていた。


 沈黙が落ちる。


 だが、それは心地いい。


 言うべきことを言って。

 聞くべきことを聞いたあとの、静かな沈黙。


 窓の外の空は、昼の青を少しずつ薄め始めていた。

 まだ午後は長い。


 でも、さっきまでの“何も起きない時間”とは違う長さになっている。


「また……」

 結衣が言う。


「こうやって話してもいいですか」

「その、ちゃんと時間取って」

「私から……」


「結衣からなら、いつでもいい」


 一瞬。


 結衣の表情が、完全に崩れる。


 驚きと、照れと、安心と、嬉しさ。

 全部がいっぺんに浮かんで、隠しきれなくなる。


「……はい」


 小さく頷く。


 それで、十分だった。


 視界の端に、光が広がる。


『▼白石結衣 イベントLv.3 CLEAR』


『名称:白衣の外の話』


『▼経験値+420』

『▼スキル経験値+120』

『▼恋愛ポイント+240』


『▼アイテム獲得』

《白衣の外のメモ》×1

《結衣の本音ログ》×1

《やさしい体温のメモ》×1


『▼スキル熟練』

《不可視感情検知》使用経験を獲得しました

《言外読解》使用経験を獲得しました

《安心感付与》使用経験を獲得しました


『▼スキル経験値加算』

2520 → 2640 / 2600


『▼固有スキルレベルアップ』

《恋愛選択肢表示》Lv.7 → Lv.8


『▼新機能解放』

《本音開示率表示》

《関係段階表示》


『▼経験値加算』

745 → 1165 / 6100


『▼恋愛ポイント加算』

2445 → 2685


『▼レベルアップ判定』

必要経験値に未達


『黒瀬湊 Lv.11 継続』


『固有スキル:《恋愛選択肢表示》Lv.8』

『次回スキルレベルアップまで:3200』


(……上がった)


 頭の奥が、ほんの少し熱を持つ。


 視界が澄む。

 周囲の空気の層が、今までより少しだけ細かく分かれる。


 けれど、それは数字が増えたというより、人の言葉の奥にある“段階”が見えるようになる感覚だった。


 好意。

 信頼。

 依存。

 安心。

 緊張。

 期待。

 独占欲。

 遠慮。


 それらが全部、一つの感情として混ざっているのではなく、いくつもの薄い層として重なっている。


(……便利だけど、また厄介な機能だな)


 そう思いながらも、湊の意識は数字よりも結衣へ戻っていた。


 目の前の結衣の方が、ずっと大きかった。


 少しだけ照れて。

 でも、ちゃんと笑っている。


 白衣の外の顔で。


 その時だった。


「――へえ」


 軽い声が、横から飛んできた。


 桐谷美月だ。


 いつからそこにいたのか、まるで気配がなかった。


 少し離れた壁にもたれながら、腕を組み、いかにも面白いものを見たという顔をしている。


『《桐谷美月》》

『年齢:25』

『職業:理学療法士』


『レベル:21』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:36%』


『状態:観察/面白がり/納得』

『関係段階:軽口を許される観察者』


「がんばれ若者、って感じだね」

 桐谷は言う。

「ちゃんと行ったじゃん、結衣ちゃん」


「き、聞いてたんですか!?」

 結衣の顔が一気に赤くなる。


「全部は聞いてない」

 桐谷は肩をすくめる。

「でも空気でだいたいわかる」

「あと、結衣ちゃんが行く前から“今日いよいよだな”って顔してたし」


「そんな顔してました……?」


「してた」

 桐谷は即答する。

「もうね、“言うか言わないかで三回くらい死にそうになってる人”の顔」

「わかりやすかったよ」


「桐谷さん……」

 結衣は半分恥ずかしさで、半分抗議で声を漏らす。


「でも良かったじゃん」

 桐谷は少しだけ目を細めた。

「言えないまま引きずるより、ずっといい」

「体だって感情だって、溜め込みすぎるとろくなことないし」


 その言葉は軽く聞こえるのに、変に重さがある。


 桐谷もまた、見てきたのだろう。


 我慢して壊れる人を。

 言えなくて崩れる人を。

 平気な顔のまま、身体だけが先に悲鳴を上げる人を。


 理学療法士は、身体を見る。

 でも、身体だけを見ているわけではない。


 そのことを、湊はもう知っていた。


 結衣は、そんな桐谷の言葉に小さく頷いた。


「……はい」

「たしかに、言えてよかったです」

「すごく恥ずかしかったですけど」


「うん」

 桐谷が笑う。

「見てるこっちもそこそこ恥ずかしかった」


「もうやめてくださいっ!」


 結衣の抗議に、桐谷が楽しそうに笑う。


 その軽さのおかげで、少しだけ張りつめていた空気がやわらぐ。


 そのタイミングで、静かな足音が近づいてきた。


 奈緒だった。


 書類を持ったまま、まず湊の姿勢を見る。

 次に結衣の顔。

 最後に、少し離れた位置にいる桐谷。


 ほんの数秒で状況を読んだのだろう。


『《佐倉奈緒》》

『年齢:26』

『職業:看護師』


『レベル:23』

『レア度:★★★★☆』


『好感度:48%』


『状態:平静/観察/揺れ(微)』

『補足:白石結衣の変化を確認/自覚進行中』

『関係段階:信頼形成中/静かな保留』


「白石さん」

 奈緒が静かに言う。


「は、はい」


「話せましたか」


 結衣が、一瞬だけ目を見開く。


 奈緒は最初からわかっていたのだ。


 結衣が今日、何か言おうとしていたことを。

 その顔をしていたことを。


「……はい」

 結衣は小さく頷いた。

「ちゃんと、話せました」


「なら良かったです」

 奈緒はそれだけ言う。


 だが、その短い言葉の中にあるものを、結衣は感じ取った。


 背中を押してくれていたこと。

 見守ってくれていたこと。

 そして今、ちゃんと“良かった”と思ってくれていること。


 奈緒は続ける。


「言いたいことがあるのに、言わないままにしておく顔をしていたので」

「たぶん、今日言わないとあとで後悔すると」


 その一言は、奈緒自身にも少しだけ返ってきているように聞こえた。


 言わないままにしておく顔。

 後悔する顔。


 それを見抜けるのは、たぶん奈緒自身にも似たような感情があるからだ。


 結衣は少しだけ目を潤ませて、でもちゃんと笑った。


「……ありがとうございます」


 奈緒はすぐには答えず、少しだけ視線を外してから言った。


「お礼を言われることは、あまりしていません」

「ただ、仕事に支障が出る前に整理した方がいいと思っただけです」


 相変わらず、言い方は正論寄りだ。


 でも、その正論の中に優しさがあることくらい、もう皆わかっている。


 その時、通りすがりの足音が一つ、止まった。


 綾乃だった。


 白衣をきっちり着こなし、相変わらず無駄のない立ち姿でこちらを見る。


 湊。

 結衣。

 奈緒。

 桐谷。


 その四人の空気を、一瞬で読む。


『《神宮寺綾乃》》

『年齢:28』

『職業:外科医』


『レベル:31』

『レア度:★★★★★』


『好感度:31%』


『状態:平静/観察/微細な許容』

『関係段階:警戒と信頼の境界』


「休憩中?」


 短い。

 クールだ。

 だが、ただの確認ではない。


「はい」

 奈緒が答える。

「短時間です」


 綾乃は数秒だけ結衣を見る。


 その視線に、結衣は少しだけ背筋を伸ばした。


「勤務に支障が出ないなら、好きにして」

 一拍。

「ただし泣くなら休憩中にして」


 結衣の顔が一気に赤くなる。


「な、泣いてません!」


「ならいいです」

 綾乃は淡々と返す。


 一瞬だけ、沈黙。


 そして、ほんの少しだけ声の角度を変える。


「……話すのは、逃げるよりましです」


 それだけ言って、歩き去っていく。


 短い。

 短いのに、妙に深く残る。


 逃げるよりまし。


 綾乃らしい言い方だった。

 優しく包むのではなく、逃げなかったことを評価する言い方。


 結衣はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。


「神宮寺先生って」

「たまに、すごく刺さること言いますよね……」


「うん」

 桐谷が笑う。

「本人はたぶん無自覚だけどね」


 窓の外の光は、さらに少しだけ傾いていた。


 長い午後は、まだ続く。


 けれど、さっきまでの“空白”とはもう違う。


 結衣が言葉を言い切ったことで。

 湊がそれを受け取ったことで。

 奈緒と桐谷と綾乃が、それぞれ違う形でそこに関わったことで。


 その時間は、ただ長いだけのものではなくなっていた。


 結衣は、少しだけ深く息を吸ってから、もう一度湊を見た。


「……黒瀬さん」


「ん?」


「今度は」

 一拍。

「ちゃんと、もう少し普通の話もしたいです」


「普通の話?」


「はい」

 結衣は少しだけ笑う。

「体調とか、薬とか、そういうのじゃない話」

「好きなものとか」

「昔のこととか」

「そういうの、ちゃんと聞いてみたいです」


 それは小さな前進だった。


 告白の先にある、もっと普通の距離への希望。


 湊はその顔を見て、ゆっくり頷いた。


「……わかった」

「次はその話にするか」


 結衣の目が少しだけやわらかくなる。


「はい」


 それだけで、十分だった。


 視界の端に、青白い光がもう一度小さく脈打つ。


『《白石結衣》》

『状態更新:決意/照れ/期待 → 安堵/親密/次段階準備』

『関係段階:看護師と患者 → 白衣の外で話せる相手』


 そして、その少し下で、別の表示が静かに揺れた。


『《佐倉奈緒》》

『状態更新:平静/観察/揺れ(微) → 自覚(微)/静かな動揺』


(……来たか)


 湊は、その小さな表示を見つめた。


 結衣が一歩前に出たことで、止まっていたものがまた別のところで動き始める。


 病院ステージは、やはり静かに忙しい。


 その時、廊下の奥で誰かの足音が止まった。


 湊がそちらを見る。


 白峰紗雪だった。


 ほんの一瞬だけ。

 本当に、通りがかっただけのように。


 彼女は少し離れた場所から、こちらの空気を見ていた。


 その表情は読みにくい。

 何かを言いたそうで、でも言えない。

 近づきたいのに、足が動かない。


 そんな、危うい沈黙をまとっていた。


 視界の端に、表示が揺れる。


『《白峰紗雪》》

『年齢:17』

『職業:高校生患者』


『レベル:不明』

『レア度:測定中』


『好感度:測定保留』


『状態:接近未遂/後悔/躊躇』

『特殊フラグ:《止まれなかった手》反応中』


『警告:イベント発生条件が接近しています』


(……白峰)


 湊が名前を意識した瞬間、紗雪は小さく目を伏せた。


 そして何も言わず、廊下の向こうへ歩いていく。


 呼び止めるには、少し遠い。

 追うには、今の身体ではまだ遅い。


 だが、その背中だけは、妙にはっきり残った。


 結衣も、その一瞬の気配に気づいたらしい。

 小さく首を傾げる。


「……今の方」


「白峰」

 湊は短く言った。

「たぶん、まだ何かある」


 奈緒の表情が、ほんのわずかに引き締まる。


 桐谷の目も、からかいの色を少しだけ引っ込めた。


「へえ」

 桐谷は静かに言う。

「次は、そっちかもね」


 綾乃のいない廊下に、白い光だけが残っている。


 午後の光は、白い窓際をやわらかく満たしていた。


 その光の中で、結衣はもう、白衣の中に全部を隠してはいなかった。


 近くにいすぎたからこそ、足りないと思ってしまった気持ち。

 看護師としてではなく、一人の女の子として向き合いたかった気持ち。

 それを言葉にしてしまったあとの、少しだけ軽くなった顔。


 湊はその顔を見ながら、小さく息を吐いた。


 長い午後は、まだ終わらない。


 でもその時間は、もう“空白”ではなかった。


 ちゃんと誰かの言葉で埋まった、意味のある時間になっていた。


 そして、その意味のある時間の向こう側で。


 まだ言えない誰かの後悔が、静かにこちらへ近づいていた。




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