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長年連れ添った妻と通じなかった「あれ」の話

掲載日:2026/03/01

 食事中、私は「あれを取ってくれ」という。

 すると妻が何も言わず醤油を差し出してくれる。


 食後に「あれはどこに置いてあったかな」と言えば、

 爪楊枝を私の前にとんっと置く。


 会話をしなくなって、ずいぶん久しい。


 長い年月がお互いの距離を形作って来たと思っている。

 最初はあんなに愛おしかった存在が、

 今や空気のような存在になってしまった。


 淀んだ空気の中では息苦しく、

 怒りの異臭を放つときには、家の中にもいられない。

 でも、懐かしく心地い匂いを放つときには、

 一緒になって良かったとつくづく思うばかりだ。


 まるで違う人間で、異星人のように理解不能になることもあるが、

「あれ」と言うだけで理解し合える。

 貴重でかけがえのない存在でもある。


 ただ、今回の「あれ」は、そうもいかなかった。


「あれはどこにやったかな」


「あれって?」


「ほら、あれだよ」


「あれ」の名前が出てこないので、「あれ」としか言いようがない。

 別の表現を探す。


「ほれ、金属製の……

 うん? 昔はそうだった気がするんだが、

 今は素材も形もずいぶん変わってきた気がするんでな」


 妻は首をかしげ、

 少し面倒臭そうにしながらも、

 一緒に考えを巡らせている。


「バケツですか?」


「バケツじゃない」


「ブリキ製だったか?

 そういえば、今は陶器製のものがあったり、

 プラスチックや、ゴム製のものもあったな」


「スプーン? 

 今は洒落たものもありますからね。

 プラスチック製やフォークのようなスプーンもあるでしょう? 

 苺をつぶすスプーンとかね」


 今はそんな物まであるのか、と思った。


「そんな洒落たものを知っているのか」


「そんな洒落たものでもないでしょう。

 ただのスプーンでしょうに……」


 同じ生活をしているのに、

 私の知らない情報をどこから仕入れてくるのだか。

 しかし今はその話を膨らませて、脱線させる場合ではない。


「電気製のものが、実家に置いてなかったか?」


「ええ? 今度は電気製ですか?」


 別の場所を見渡しながら、家の中を探索する。


「なあ、スプーンってゴム製のものもあるのか?」


「さあ、そんなこと知りませんよ」


「あれだよ。もう、あれなんだがなあ」


「『あれ』だけじゃわからないでしょ。

 もっと他にないの?」


「他にかあ、あれで思い出すもの……」


 もう妻の興味はテレビに向いて、

 探す素振りさえなくなってしまった。


「あれだな。

 あれがなくなると、冷たくなるんだよ」


「……冷たくなるって、気持ちの話ですか?

 そんなに冷たくしたことがありましたっけ?」


 何の話をしているんだ。

 どうして気持ちの話になるのかと思った。


「違う違う、布団が冷たく感じるんだよ」


「最初から、布団だと言ってくれればいいでしょ。

 はい、あれね」


 そう言って、妻が立ち上がった。


 持ってきてくれた物は、私が探していたものだった。


 流石に妻だ。

 布団という言葉だけで、すぐに察してくれた。


「ありがとう」


 なんだか昔の思い出が、ふと蘇った。


「なあ、今度、旅行に行こうか」


「何ですか急に」


「新婚旅行で行った旅先は寒かったろう?」


「そうですね」


「あの時寒くて一緒の布団で寝たろう?」


「……ふふ。そうですね」


「湯たんぽ……みたいだったよな」


「また、あの旅行に行きたいですね」


 空気のようだった妻が、

 その夜だけは、昔の恋人の姿に見えた。


 心も体も、温まる夜となった。

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