長年連れ添った妻と通じなかった「あれ」の話
食事中、私は「あれを取ってくれ」という。
すると妻が何も言わず醤油を差し出してくれる。
食後に「あれはどこに置いてあったかな」と言えば、
爪楊枝を私の前にとんっと置く。
会話をしなくなって、ずいぶん久しい。
長い年月がお互いの距離を形作って来たと思っている。
最初はあんなに愛おしかった存在が、
今や空気のような存在になってしまった。
淀んだ空気の中では息苦しく、
怒りの異臭を放つときには、家の中にもいられない。
でも、懐かしく心地い匂いを放つときには、
一緒になって良かったとつくづく思うばかりだ。
まるで違う人間で、異星人のように理解不能になることもあるが、
「あれ」と言うだけで理解し合える。
貴重でかけがえのない存在でもある。
ただ、今回の「あれ」は、そうもいかなかった。
「あれはどこにやったかな」
「あれって?」
「ほら、あれだよ」
「あれ」の名前が出てこないので、「あれ」としか言いようがない。
別の表現を探す。
「ほれ、金属製の……
うん? 昔はそうだった気がするんだが、
今は素材も形もずいぶん変わってきた気がするんでな」
妻は首をかしげ、
少し面倒臭そうにしながらも、
一緒に考えを巡らせている。
「バケツですか?」
「バケツじゃない」
「ブリキ製だったか?
そういえば、今は陶器製のものがあったり、
プラスチックや、ゴム製のものもあったな」
「スプーン?
今は洒落たものもありますからね。
プラスチック製やフォークのようなスプーンもあるでしょう?
苺をつぶすスプーンとかね」
今はそんな物まであるのか、と思った。
「そんな洒落たものを知っているのか」
「そんな洒落たものでもないでしょう。
ただのスプーンでしょうに……」
同じ生活をしているのに、
私の知らない情報をどこから仕入れてくるのだか。
しかし今はその話を膨らませて、脱線させる場合ではない。
「電気製のものが、実家に置いてなかったか?」
「ええ? 今度は電気製ですか?」
別の場所を見渡しながら、家の中を探索する。
「なあ、スプーンってゴム製のものもあるのか?」
「さあ、そんなこと知りませんよ」
「あれだよ。もう、あれなんだがなあ」
「『あれ』だけじゃわからないでしょ。
もっと他にないの?」
「他にかあ、あれで思い出すもの……」
もう妻の興味はテレビに向いて、
探す素振りさえなくなってしまった。
「あれだな。
あれがなくなると、冷たくなるんだよ」
「……冷たくなるって、気持ちの話ですか?
そんなに冷たくしたことがありましたっけ?」
何の話をしているんだ。
どうして気持ちの話になるのかと思った。
「違う違う、布団が冷たく感じるんだよ」
「最初から、布団だと言ってくれればいいでしょ。
はい、あれね」
そう言って、妻が立ち上がった。
持ってきてくれた物は、私が探していたものだった。
流石に妻だ。
布団という言葉だけで、すぐに察してくれた。
「ありがとう」
なんだか昔の思い出が、ふと蘇った。
「なあ、今度、旅行に行こうか」
「何ですか急に」
「新婚旅行で行った旅先は寒かったろう?」
「そうですね」
「あの時寒くて一緒の布団で寝たろう?」
「……ふふ。そうですね」
「湯たんぽ……みたいだったよな」
「また、あの旅行に行きたいですね」
空気のようだった妻が、
その夜だけは、昔の恋人の姿に見えた。
心も体も、温まる夜となった。




