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その「穴」は人生を変えるか  作者:


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1/4

普通の終わり

乱雑に物が置かれた空き地の中、俺は立ち尽くしていた。


地面を照らす高く登った月。


口から漏れ出す白い息。


そして、その傍らに横たわる死体。


どうしてこうなった。俺はただ、楽に生きたいだけだったのに。

────────────────

「来い! 来い! ここで来なきゃいつ来るんだよお前は!!」


スマホの画面に向かって叫ぶ。


叫ぶと言っても壁の薄い賃貸だ。


はたから見れば、小さな声でぶつぶつと呪詛を吐いているようにしか見えないだろう。


画面の中では、何頭もの馬が激しく競い合っていた。3番のゼッケンをつけた馬が先頭でコーナーを曲がり、運命の直線へと躍り出る。


ここで6番の馬の騎手が鞭を振った。

馬がそれに応え、一気に加速する。予想通りの展開だ。


「よし! そのまま! そのまま捲り上げろ!」


だが、勝利を確信したのも束の間、ゴールが近づくにつれて6番は失速していく。


「あれ? おい、嘘だろ……?」


結局、順位は惜しくも4着。他の馬の追い上げが凄まじかっただけで、厳密には失速ではない。

だが、馬券が紙屑になったことに変わりはなかった。


「全然惜しくねーよ。単勝なんだから。……複勝でも当たってねーじゃん」


画面には「6番・単勝1万円」の文字が虚しく光っている。


しがない工場のライン作業で、泥のように働いて稼いだ金が、わずか数分で電子の藻屑と消えた。ハズレ馬券の放つ悲壮感には、今やもう慣れっこだ。


「はーあ。金、溶けてく一方じゃねーか。……何とかして金持ちになれねーかな」


継守つぎもり つづる。それが俺の名前だ。


由緒正しき旧家か、あるいは高名な文豪のような響きだが、実態はしがない工場の派遣社員。


守るべき家宝もなければ、輝かしい人生を綴る予定もない。せいぜい、日々の支払いに追われる無様な記録を更新するのが関の山だ。


ギャンブルに溺れているうちは、それが絶対に叶わない夢だと理解はしている。だが、望まずにはいられない。


毎日、やりたくもない仕事をして上司に叱られ、家に帰っても特にやることもない。


こんなつまらない人生には、多少の刺激が必要だ。とはいえ、今日は少し熱くなりすぎた。


まだ月の上旬。給料日までまだ遠いというのに、手元の金はほとんど使い果たしてしまった。また貧乏生活の始まりだ。


「何か食えるもん、入ってねーかな」


ろくなものはないと知りながら、手持ち無沙汰に冷蔵庫を開ける。


案の定、奥に眠っていたのは冷や飯だけだった。


それを無理やり胃に流し込んで、俺は逃げるように布団に潜り込んだ。


翌日、いつものように不快なアラーム音に叩き起こされた俺は、信じられない光景を目にした。


「な、なんだこれ……」


寝ぼけ眼で見つめた先、いつもの見慣れた部屋の風景の中に、それはあった。


直径50センチほどの「穴」だ。


真っ黒い、底の見えない穴。それが空中にぽっかりと浮かんでいる。


わけが分からず立ち尽くしていたが、ふと思い立って、枕元にあったリモコンをその中に放り込んでみた。


リモコンは吸い込まれるように、闇の向こうへ消えていった。


やはりというか、どこか別の空間に繋がっているらしい。


「お、待てよ。ということは……」


俺は周りに散らばっているゴミを、次から次へと穴の中へ投げ込んでいった。


空のペットボトル、カップ麺の容器、通販の段ボール。面白いように吸い込まれていく。


わずか数分で、ゴミ溜めだった部屋が驚くほど綺麗になった。


「おおー! めちゃくちゃ便利だな、これ!」


最初はただの不気味な現象だったが、どうやらこれは「使える」穴だ。


その後、色々と試してみた結果、いくつかの法則が分かってきた。


一つ、穴の向こうは無尽蔵な空間に繋がっているらしいこと。


二つ、中に入れたものは、強くイメージすれば自由に取り出せるということ。


そして三つ目。この穴は、自分の意志で自在に出現させられるということだ。


「この穴があれば、何かとんでもないことができるんじゃねえか……?」


胸の高鳴りを感じたのも束の間、俺の凡庸な脳みそでは、具体的な活用法がすぐには浮かんでこなかった。


昔からそうだ。夏休みの宿題は最終日まで手をつけず、やりたくないことから逃げ続けて生きてきた。


そんな人間が、突然超能力を手に入れたからといって、急に正義のヒーローや大悪党になれるはずもない。


「……窃盗とか? いや、店先でいきなり空間に穴を開けたら目立ちすぎるだろ。通報されるのがオチだ」


「じゃあ、重い荷物を持ち運ばなくて済むとか? ……いや、確かに便利だけど、それで人生が劇的に変わるわけじゃないしな」


あれこれ考えてはみたものの、結局「凄いこと」の輪郭はぼやけたままだ。


まあ、いい。せっかく手に入れた万能の穴だ。使い道なんて、そのうち嫌でも思いつくだろう。


俺は考えるのをやめ、すべてを時間に委ねることにした。


手元に残ったのは、ゴミが消えて妙にガランとした部屋と、少しの期待感だけだった。




穴の出現から一週間が過ぎた。


結局、特に大した使い道など思い浮かばず、

あの「不思議な穴」は、もっぱらゴミを消し去るための「便利なゴミ箱」に成り下がっていた。


「あぁー! このレース、賭けておけば当たってたのになぁ……」


いつものようにスマホを眺め、無益な時間を溶かしていた時だった。


ピンポーン。


玄関の呼び鈴が、静かな部屋に鳴り響いた。


「誰だよ、もう9時前だぞ」


気怠げに廊下を進み、ドアを開ける。


そこに立っていたのは、目を覆うほど前髪の伸びた、

おかっぱ頭の小柄な男だった。


手には大きな鍋を抱えている。確か、お隣さんだ。名前は……ええと、何だったか。


「すいません、夜分遅くに。あの、作りすぎちゃったので、もしよろしければ……」


少し上ずった声が止まないうちに男が蓋を開けると、強烈なスパイスの香りが鼻腔を突き抜けた。


カレーだ。しかも、大きな鍋に、なみなみと作られている。


これまで挨拶程度の付き合いしかなかった隣人からの、突然の差し入れ。


驚いて固まっている俺の様子を察したのか、男は慌てて言葉を継いだ。


「あ、ああ、別に無理にとは言いません。ご迷惑なら自分で処分しますし。はい、絶対ではないんです。ただ、その、もしよかったら……」


「え、いや。捨てるくらいなら、頂きますよ。せっかくなんで」


そう答えると、男はパッと顔を輝かせ、こちらに鍋を差し出した。


「あ、一応、早めに食べた方がいいですよ。その方が美味しいし……今日中がいいんじゃないかなぁ、なんて」


後ろ歩きで語りかけながら、おかっぱ頭の男は吸い込まれるように自室へ帰っていった。


金欠で食糧難の身にはありがたい申し出だが、いざ一人になると、得体の知れない不安が込み上げてくる。


親交もない隣人から、突然のカレー。しかも、いくら何でも量が多すぎる。


改めて鼻を近づけてみると、鼻を突くスパイスの裏側に、何か不快な、ざらついた匂いが混じっているような気がした。


結局、俺はそのカレーに箸をつける気にはなれず、冷蔵庫の奥に眠っていた冷や飯を胃に流し込んで、布団に潜り込んだ。



翌日は、絵に描いたような自堕落な休日だった。


正午過ぎ、カーテンの隙間から差し込む無遠慮な光に顔をしかめて目を覚ます。


頭は重く、胃の中は空っぽだが、何かを胃に入れる気力すら湧かない。結局、夕方までスマホを眺めたりして過ごした。


「……何やってんだ、俺」


日が完全に沈み、部屋が夜の闇に飲み込まれた頃、ようやく重い腰を上げた。


窓を開けると、晩秋の冷気が入り込み、停滞していた部屋の空気をかき回す。俺は適当な上着を羽織り、外に出ることにした。


俺の住む町は、街灯よりも田畑や空き地の方が多い、いわゆる「割と田舎」な場所だ。


夜の9時も過ぎれば、車通りもほとんどなくなる。

舗装の剥げたアスファルトを蹴りながら、目的もなく歩く。

冷たい夜風が、少しだけ頭を冷やしてくれた。


「案外悪くないんだよな。夜の散歩って」


世界が眠りについたあとの静寂は朝の始まりとは違った重みがある。今夜は月が格別に明るい。


青白い光が足元を照らし、ライトを点けずとも夜道が鮮明に浮かび上がっていた。


しばらく歩き横道に入っていくと、不自然な光景が目に飛び込んできた。


放置されている空き地の真ん中。


ポツンと一台の軽トラックが停まっていて周りには乱雑に物が不法投棄されている。


ライトは消えているが、月明かりの下でそのシルエットは妙に際立っていた。


ふと、その軽トラのそばに人の気配を感じ、俺は反射的に足を止めた。


そこには二人の男がいた。


一人は、立ったままこちらに背を向けている。


そしてもう一人は――地面に突っ伏していた。


喧嘩か何かか? 巻き込まれないよう足音を殺して通り過ぎようとした、その時だ。


「おい」


立っていた男がこちらに気づき、近づいてきた。


近くで見ると、中々奇抜な格好をしている。

髪は茶髪で首には太いネックレス、ほぼすべての指に指輪をはめている。


面倒なことに巻き込まれた。俺は咄嗟に、敵意がないことを示す。


「……なあ、別に何も見てないからさ。誰にも言わねーよ。安心してあっち戻ってくれよ」


俺は、精一杯の「関わりたくないオーラ」を出しながら、気だるげに言った。


面倒なことに巻き込まれるくらいなら、多少の不審な光景には目をつむるのがいい。


だが男は俺の言葉には耳を貸す様子はなかった。


そのまま歩みを進め、俺に手を伸ばした。


直後、身体に強烈な電撃が走った。


「あ……っ……」


全身の筋肉が無理やり凝固させられたような感覚だった。そのまま膝から地面に崩れ落ちる。


何が起こったのか理解できない俺を尻目に、男は突っ伏している男の元へ戻り、懐から何かを取り出した。


男が何らかの処置を終え、再び懐に手を入れた。


こちらを見据えながら、ゆっくりと歩みを再開する。


その指先が抜き放ち、月光を鋭く跳ね返したのは、一振りのナイフだった。


やばい。殺される。


だが、指先一つ動かない。


神経の奥底で、先ほどの電撃の残滓が今もなおパチパチと不快に蠢いている。


肺すらも自分の意思を拒絶し、呼吸は浅く、喉の奥からはヒューヒューと情けない音しか漏れない。


(……やばい。殺される)


思考だけが、焼けるような熱を帯びて空回りする。


じりじりと、月光にナイフを反射させた男が距離を詰めてくる。その一歩一歩が、俺の死へのカウントダウンに聞こえた。


逃げろ。立て。


脳が必死に全身へ命令を送るが、肉体は微塵も動かない。


だが、その絶望の淵で、俺の意識は唯一、肉体という檻に縛られていない「感覚」に触れた。


そうだ、俺には「穴」がある。


あのごみ箱代わりに使っていた「穴」が――。


思いつかなかったわけではない。試そうとは思ったこともある。


ただ、生き物を入れることへの根源的な恐怖が勝り、踏ん切りがつかなかっただけだ。


だが、今はそんなことを言っていられる状況じゃない。


俺は、こちらへ歩いてくる男の足元に意識を集中させた。男を呑み込むための、「穴」をイメージする。


「ッ……!」


次の瞬間、男の足元の空間が墨を零したように爆ぜた。


悲鳴を上げる暇もなかった。


男は吸い込まれるように真っ逆さまに穴へと消え、

そこにはただの、静まり返ったアスファルトの地面だけが残された。


穴の先がどうなっているのか、厳密には分からない。


だが、やってしまった。


俺は、人間を異空間へ放り込んだのだ。


何事もなかったかのように引き出すこともできるのかもしれないが、今はそんな慈悲をかける余裕も、心の準備もできていない。


俺は痺れる体を無理やり起こし、男が消えた場所を凝視した。



その時だ。


「……ッ、ガハッ!」


胃液を吐き戻すような湿った音と共に、空中の穴から男が弾き出された。


まるで、異空間そのものが不純物を拒絶したかのような不自然な勢いだった。


俺も、そして放り出された男自身も、何が起きたのか分からず数秒間硬直する。


だが、地面に転がった男が状況を理解するにつれ、その表情がみるみると、どす黒い怒りに染まっていくのが分かった。


「てめえもかよ……ッ!」


逆上した男が叫び、ナイフを振りかざして突進してくる。


俺は咄嗟に「穴」を出現させると、これまで中に溜め込んできたゴミを次から次へと引き出し、ぶちまけた。


空き缶、雑誌の束、通販の段ボール。一つひとつは殺傷力のないガラクタだが、物量の雨が男の視界を奪う。


その中の一つが運よくナイフを弾き飛ばし、男が怯んだ。


「くそっ!」


その隙を見逃さず、俺は這うようにして山積みにされた不法投棄物の陰へと身を隠した。


今の攻防で、分かったことがある。


あの穴には「生きた人間」を閉じ込めることはできないのだ。


その事実にどこか安堵する一方で、この絶体絶命の状況下では、最強の武器を封じられたような失望感も拭えない。


それよりも、あいつの言葉だ。「てめえもかよ」――。


それは間違いなく、俺が「能力」を持っていることに対する反応だった。


身体を焼いたあの電撃も、あいつが放った超常的な力で間違いない。


だとしたら、なぜ穴から吐き出された直後に能力を使わなかった?


単純に動転していたからか。あるいは――。


男の方へ視線を向けると、奴は既にナイフを構え、周囲を警戒していた。


空き地の中心に陣取り、微動だにしない。


夜の闇が深いとはいえ、今夜は月明かりが妙に明るい。下手に陰を飛び出せば、即座に察知されるだろう。


ふと、出口に目を落とすと、月光を跳ね返して、アスファルトの上で何かが小さく光っているのが見えた。


「なるほどな……そういうことか?」


この仮説が正しければ、勝機はゼロじゃない。


だが、それは再びあの男と正面からやり合うことを意味していた。


奴の目を盗んで逃げ切るのは、この包囲網では不可能だ。やるしかない。


「あああああ! クソ、なんで俺がこんな目に!」


思わず頭を掻きむしる。


俺はただ、楽に生きたいだけなのに。


この「穴」の力を使って、汗もかかずにのんびり暮らしたかっただけなのに。


結局、具体的な使い道さえ思いつかないまま、ゴミ箱代わりに使っていたけども!


……いや、嘆いても始まらない。


今はあいつをブチのめして、家に帰る。


それだけが、俺に残された唯一にして最善の「明日への道」だ。


俺は男が背を向けた一瞬の隙を突き、物陰から勢いよく飛び出した。


あらかじめ決めたルートをなぞり、出口へと向かって最短距離を駆ける。


男は即座にこちらに気づき、獲物がかかったと言わんばかりの下卑た笑みを浮かべた。


「馬鹿が! 策もなく突っ込みやがって……くらえッ!」


男が叫ぶ。


だがその瞬間、俺は急制動をかけ、男の方へと進路を変えた。


同時に、俺と男の間の空間に「穴」を出現させる。



最初、奴は自分と指輪の間に電撃を放ったんだ。


出口付近にあらかじめ指輪を設置し、そこを通る者を確実に仕留める――。


先ほど俺がやられたのは、まんまとその「射線」に入ってしまったからだった。


それだけ用心深い男だ。出口以外にも、予備の指輪か、それに代わる中継地点をどこかに仕込んでいる可能性は極めて高い。


逃げ回れば、いつかまた見えない「射線」に足を掬われる。


だから、俺はあえて入ったんだ。


自ら作り出した「穴」越しに――今度は俺が、奴の射線をコントロールしてやる番だ。


本来、電撃のようなエネルギーを穴が吸い込めるかは未知数だった。


だが、俺がイメージしたのは「穴」だけではない。

穴の入り口を塞ぐように溢れ出させた不法投棄の鉄くずだ。


バチィィィッ! と鼓膜を震わせる轟音が響く。


男の放った電撃は、俺を直撃する直前で、穴から溢れ出していた金属ゴミへと吸い込まれ、霧散した。避雷針の役割を果たしたのだ。


「なっ……!?」


男が目を見開く。


攻撃を防がれることを想定していなかった奴の立ち止まった足元に、俺は間髪入れず「二つ目の穴」を開けた。


「悪いな、俺のゴミ箱は満杯なんだ。お前が入らねーなら、中身を全部返してやるよ!」


穴を「出口」として使い、溜め込んだ粗大ゴミを一気に放出させたのだ。


至近距離で「ゴミの噴火」を食らった男は、なす術もなく吹き飛ばされ、背後の軽トラの荷台へと叩きつけられた。


静寂が戻る。


男はピクリとも動かない。


「……はぁ、はぁ……。まじで、死ぬかと思った……」


膝をつき、激しく脈打つ心臓を抑える。


俺は立ち上がり、ゆっくりと男の方へ歩き出した。

その傍らには、もう動かなくなった「それ」が横たわっている。


「どうしてこうなった……俺はただ、楽に生きたいだけだったのに」


月明かりが照らす闇のなかで、継守 綴は一人立ち尽くした。

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