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第1章 魔王さまと笑顔⑦


 午後の仕事も乗り切り、夜になると1日の疲れを取るためにわたしは浴室へと向かった。

 浴室は広々としていて、脱衣所には立派な鏡台まで備え付けられており、大きなバスタブのある洗い場とは薄いカーテンで区切られている。

 ただし、城の他の場所と同じように厳めしい装飾が施されており、不気味な雰囲気が漂っている。バスタブの湯口には、悪魔の顔を模した石像が付いていて、口からお湯が出てくる。

 多少の気色悪さに目を瞑れば、入浴時間はひとりでのんびりできる癒しの時間だ。

 鼻歌交じりに服を脱ぎ、バスタブの前に来たところで、ふと首に手を伸ばす。城に帰ってきてから確認したところ、魔王さまが付けていったのはチョーカーだった。赤いベロアで、中央には小さな鈴が付いている。

 危うく外すのを忘れてお風呂に入るところだったと、首の後ろに手を伸ばして外そうとする。けれど、留め具のようなものがなければ結び目もない。

 もしかして、これも魔法の類なのだろうか。


「そういえば、魔王さま何か言ってた気が……」


 去り際の魔王さまの言葉を思い出そうとしていると、指が鈴に触れる。ちりんという音に続いて、背後から低い声が聞こえてきた。


「鳴らすなと言っただろう」

「え?」


 振り返れば、薄いカーテン越しに魔王さまが立っているのが見えた。

 心臓が縮みあがり、わたしは思いっきり叫びながらバスタブに飛び込んだ。どぼんという音と共に、お湯が飛び散る。いくら元は自分の体ではないとはいえ、守らなければいけないものがあるはずだ。湯に深く浸かりながら、鼓動を落ち着かせようとする。

 すると、扉の外からカーチスさんの声が聞こえてきた。


「アカリさん、大丈夫ですか? 魔獣に襲われたような声が聞こえてきましたけど」


 どうやら叫び声を聞いて、駆け付けてくれたらしい。

 魔王さまは煩わしそうにため息を吐いて、扉の向こうに声をかけた。


「なんでもない、カーチス」

「あ、魔王さまでしたか。覗きはいけませんよ」

「うるさい。下がれ」


 それから声は聞こえなくなったので、カーチスさんはどこかへ行ってしまったらしい。


「な、なんでいるんですか、魔王さま」

「お前が呼んだからだ」

「え?」

「説明が遅くなったが、お前の首に付いているチョーカーには魔力が込められている。俺は、魔力を持つ者の声を聞く力があるが、お前には魔力がない。チョーカーはその代わりだ。今日のように面倒なことに巻き込まれたら、意識的にその鈴を鳴らせ」


 おそらく「意識的に鳴らせ」というのは、魔王さまのことを思い浮べながらという程度でも効果があるのだろう。ついさっき鈴に触れたときに、魔王さまのことを考えていたから発動してしまったようだ。


「緊急時以外は使うなよ」

「使いませんよ」

「それから、チョーカーをしている間は、俺のほうからお前を呼ぶこともできる」

「えっと、それは……」


 混乱とお湯の暑さでぼんやりしかけている頭を必死に働かせる。魔王さまを呼ぶときと逆のことが起こるということだろうか。


「もし呼ばれたら、どんなときでもわたしが魔王さまのところに瞬間移動するってことでしょうか?」

「そうだ」


 魔王さまはあっさりと肯定した。


「待ってください! それは、ちょっと話が変わってきます。呼んだら来てもらえるのは、とてもありがたいですけど、その逆は……たとえば、今みたいにお風呂に入っているときとか、着替えているときだとか……」

「やかましい」


 すべてを言い終わる前に、魔王さまはぴしゃりと遮った。


「そういう力があるから念のため伝えただけだ。緊急時以外に使うつもりはない。お前を呼ぶほど、暇ではないからな」

「ですが、わたしの人権は……!」


 さらに抗議しようとするが、魔王さまは瞬間移動をして消えてしまった。

 自分の声の残響が浴室に虚しく響く。

 初めて、魔王さまに腹が立った。


「こんなものぉぉぉ……」


 チョーカーを外そうとするが、やはりどうやっても取れそうになかった。



 お風呂から上がり気持ちが落ち着いた頃、わたしは魔王さまの執務室を訪ねた。

 魔王さまは今夜もこの時間まで仕事があるらしく、机には書類の束が積まれていた。


「なんだ、まだ文句があるのか?」

「いえ、チョーカーについては諦めました。首輪みたいで嫌ですけど」


 冷静になって考えてみれば、魔王さまの言っていたとおりだ。何か特別なことでもない限り呼ばれる機会などないだろう。


「それより、仕事の話をしたくてきました」


 そう切り出すと、魔王さまは手を止めてこちらを見た。


「わたしは、魔王さまが市民の求める姿に近づくためには、笑顔が必要だと思っていました。でも、必ずしもそうではないのかもしれません。魔王さまの魅力をみなさんに伝え、親しみやすさを持ってもらう方法は他にもあるはずだと、そう考え直しました」


 それは、今日1日を通して実感したことだった。


「人と人が心を通わすのに、共通言語なんてそんな便利な魔法はきっとないんです。また別の方法を考えるので、少しお時間をいただけませんか」


 自分から提案して何度も笑顔をお願いしてきたのに撤回したのだから、叱られるかもしれないし、呆れられるかもしれない。

 どんな言葉が返ってくるだろうと身構えていると、魔王さまが静かに告げた。


「いや……俺はお前が提案した方法を前向きに検討するつもりだ」

「えっ」


 やや遠回しな言い方に戸惑うが、噛み砕いて聞き直してみる。


「それは、笑顔で話せるように頑張ってくださる、ということでしょうか?」

「ああ、そうだ」


 これまでの渋々了承するといった態度とは異なり、今の魔王さまは言葉通り前向きに捉えてくれているようだった。


「本当ですか? でも、どうして……」

「お前とは反対に、共通言語となっている場面をこの目で見たからだ」


 目を瞬くと、魔王さまが仕方ないという感じで説明を付け足す。


「街の者がお前に心を開いたのは、俺が命令を下したからという理由だけではないはずだ。お前のことが気に入ったのだろう」

「そう……なんでしょうか」

「とはいえ、襲われそうになったのも事実だ。気を緩めるな。お前にはこれから存分に働いてもらう。首輪もあることだし、逃げられないから覚悟しておけ」


 魔王さまは頬杖をつき、めずらしく冗談めかして言う。


「はい……」


 わたしだって、もう魔王さまのマネージャーとしてやっていく覚悟はできている。


「魔王さま。前に、マネージャーという仕事はどんなものなのか尋ねましたよね?」


 今、改めて魔王さまに自分なりの覚悟を伝えたかった。


「わたしは、マネージャーは夢を一緒に背負う存在だと思っています。魔王さまが目指すものに向かって、二人三脚で走るつもりです!」


 魔王さまが理想を実現していく瞬間を、隣で見てみたい。

 首元のチョーカーに触れながら魔王さまに宣言する。


「だから、こんなものがなくても、わたしは逃げません」

「そうか」


 短く答えた瞬間、魔王さまの表情がふっと緩んだ。

 それは、ほんのわずかな緩みだったけれど、限りなく笑顔に近い表情だった。

 わたしは目を瞠り、思わず息を呑んだ。

 けれど、瞬きをしている間に、魔王さまはもう書類に目を落としていた。話は終わりという合図だろう。


「わたしはこれで失礼します」


 頭を下げて、扉へと向かう。


「魔王さま、おやすみなさい」

「ああ」


 出ていく前にもう一度声をかけてみる。魔王さまがどんな表情をしているのか気になったけれど、最後まで顔を上げなかった。

 扉をゆっくりと閉めて、廊下を歩き出す。

 頭には、さっき魔王さまが一瞬だけ見せた、本当に微かな微笑みが残っていた。

 鼓動が速い。やっぱり魔王さまには、笑顔が必要だ。あの一瞬だけで、わたしは心を掴まれた。魔王さまが笑えば、たちまちに多くの人の心を掴むはずだ。

 魔王さまも前向きに考えてくれているみたいだし、明日から笑顔の練習をしてもらおう。課題はたくさんあるけれど、それ以上に楽しみもある。

 自分の部屋まで戻る足取りは、とても軽かった。


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