第1章 魔王さまと笑顔③
午後3時きっかりに、魔王さまの執務室の扉をノックする。
魔王さまも毎日この時間に訪問があることはわかっているので、すぐに「入れ」と中から返事があった。
「失礼します。お茶をお持ちしました」
声をかけながら入ると、魔王さまが伏せていた顔を上げてこちらを見た。
緊張の一瞬。
今わたしの頭は、ガラムさんも吹き出したネズミのような髪型のままだ。
「…………………」
視線が痛い。
魔王さまは無表情のまま、こちらをただ見つめている。じっと反応を待ってみるけれど、魔王さまはくすりとも笑わない。
怒っているわけでもなさそうだけれど、生きている心地がしない。どちらかと言うと、奇妙なものを観察するような眼差しだ。
「……そこに置いてくれ」
いつもならない妙な間のあとで、魔王さまは普段と同じように淡々と指示を出す。
ここに来て、猛烈な後悔と羞恥に襲われた。
わたしがバカだった。ガラムさんがあんなに笑うのだから、魔王さまだってほんの少しくらい笑ってくれるかもしれない、そんな期待をした数分前の浅はかな自分を殴りたくなる。真剣に引き止めてくれたガラムさんやポアラを信じるべきだった。
持ってきた紅茶とお菓子を机の上に置きながら、今すぐにこの場を立ち去りたい気持ちだった。何も言わられないというのが一番つらい。それなら罵ったり怒ったりしてくれたほうがまだよかった。
自分で勝手にやったこととはいえ、居たたまれなさから顔が熱くなる。
「その頭は……」
完全スルーかと思っていたのに、いきなり魔王さまが髪型に触れようとした。
「あの、これは! 決して、ふざけているわけではありません! わたしなりに真剣に考えたうえで、魔王さまの気分転換になればと言いますか、少しでも笑っていただけたらいいなと思って……すぐ戻しますね!」
弁解を口にしながら、髪を解こうと手を伸ばす。けれど、髪はまるで石のように固くて動かない。
「あれ? なんでだろう……」
「魔法で固定してあるからだ。貸してみろ」
魔王さまは椅子に座ったまま、手にしていたペンを軽く振った。髪が元通りの柔らかさに戻る感覚がして、ふわっと肩についた。
魔王さまの手によって、元の髪型に戻ったようだ。
「お手数をおかけして、申し訳ございません」
「城で働くうえで髪型に規定はない。好きな格好で働け」
働き方に寛容なのはありがたいけれど、今はそれが逆に胸を苦しくする。
「なら、さっきは何を言おうとしたんですか?」
「大したことではない。意外と城に馴染んでいることに驚いただけだ。魔法をかけたのは、厨房のやつだろう?」
「そうですが……馴染んでいるといより、からかわれているだけだと思います」
「厨房もそこまで暇ではない。気に入らいな奴にちょっかいはかけないだろう」
どう受け止めていいかわからず返事に困っていると、魔王さまが続ける。
「だが、あまり心を許し過ぎるな。人間界との国交に積極的な意見は増えているが、いまだに人間に対して敵意を持つ者も少なくない」
似たような話をカーチスさんからも聞いている。歴史的な背景から人間をよく思わない人もいれば、単純に捕食を目的にしている魔獣などの危険もあるそうだ。
「はい、気を付けます」
魔王さまは紅茶に口をつけ、そっとカップをソーサーに置きながら、「それにしても」と切り出した。
「なぜ、そこまで笑顔というものにこだわる?」
「必要だと思うからです」
「人の心を開く方法として適しているというお前の意見は否定しないが……」
魔王さまが言い淀んだ言葉の続きを想像して、代わりに口にする。
「難しいですか?」
「いや。ただ……忘れているだけだ」
「笑い方をですか?」
「長い時間、こうやって過ごしてきたからな」
「では、思い出しましょう」
「生憎、俺も暇人ではなくてな。必要でないものに、時間をかけるつもりはない。笑顔なんてものが本当に必要だと、お前はそう考えているのか?」
「はい。わたしは、人は幸せそうなものに惹きつけられるようにできているのだと思っています」
だから、ステージの上で輝くアイドルに人々は手を伸ばす。日々を生きる力を求めて。
「それに、よくも悪くも笑顔は武器です。人の前に立つ人ほど戦略的に使うべきだと思います。練習が必要であれば、いくらでもわたしが付き合いますから。前向きに検討してみてもらえませんか?」
「……そうか。考えておこう」
魔王さまは短く答えて、書類を手に取る。これ以上話すつもりはないという意思表示だと思い、わたしは執務室を後にした。
廊下を歩きながら、昔の記憶が蘇ってくる。
思えば、星来も出会ったばかりの頃は笑顔が少ない子だった。一緒にいるうちに2人でいるときには笑顔をたくさん見せてくれるようになり、ステージでも自然と笑えるようになった。そこまでに長い道のりがあったし、星来が陰で努力していた部分もあったのだろう。
笑顔ひとつと言ってしまえば簡単なように聞こえるが、それは当たり前のように笑うことができるからこその視点なのだろう。
わたしが思っているよりもずっと、魔王さまにとって笑顔というものは大きな壁なのかもしれない。




