9章 明けない夜
降り積もる雪も、月の光りがぼんやりしている明るい夜も、いつかは晴れるし、必ず朝を迎えると誰もが言う。だけど、晴れた空だって、やっと始まった朝だって、いつかは雨になり、夕暮れを迎える。
健一の腕の中からそっと逃げ出した真生は、カーテンを開け、また降り始めた大粒の雪を見ていた。
あっという間に膝の高さを超えそうになるくらい積もった景色を見て、健一がどうやって家に帰るのか心配になった。
「眠れないのか?」
健一は寝返りを打ちながら、真生にそう言った。
「ねぇ、目を開けて。」
真生は健一の方を見つめながら言った。
「眠いんだよ。」
健一は真生の腕を引き寄せ、腕の中に抱いた。
「目、開けて。」
真生は健一の瞼を触った。健一は仕方なさそうに薄目を開けると、
「何?」
そう言った。
「すごい雪。どうやって帰る?」
真生が聞いた。
「帰らないよ。」
健一は真生の顔を自分の胸に埋めた。健一の温かい空気が真生を包む。真生は健一のシャツを掴んで目を閉じた。
午前6時半。
健一の携帯の目覚し時計で、2人は一度目が覚めた。真生は健一のシャツから手を離すと、健一に背中をむけてまた目を閉じた。
健一は真生の背中をギュッと抱きしめる。
「遅刻するよ。」
真生は目を閉じたまま言った。
「今日は休みなんだ。」
健一がそう言うと、
「嘘つき…。」
真生はまだ目を閉じたままだった。健一のぬくもりは、また眠りを誘ってくる。これが夢なのか現実なのかわからなくなってきた真生は、健一の手がスルスルと服の中に入ってくるのがわかると、
「やめて。」
真生はそう言って閉じかけていた目を開いた。
昨夜、やっぱりそう言う事になったんだ。
健一は何も言わず、真生を正面にむけた。金髪の前髪の隙間から、黒目の大きなまあるい目が、静かにこっちに見ている。
「なんにも言わないで、始まってしまったの?」
真生は健一に言った。
「モテるあなたにはよくある事かもしれないけど…。」
真生は健一の視線から目をそらした。
「映画でも見に行こうか。」
健一は真生の話しを避けるようにそう言った。
「なによ、それ。」
ふてくされた真生の頬を包んだ健一は、乾いた真生の唇に自分の唇を押しあてた。
まるでもう何年も一緒にいた2人の様に、朝の時間が流れていく。
真生の作ったおにぎりを頬張りながら天気予報を見ていた健一は、大きなため息をついた。
「いつの間にか警報が出てたんだ。出掛けるなんて無理だね。真生ちゃん仕事は?」
「今日は深夜勤。」
「じゃあ、それまで一緒にいられるんだ。」
健一はそう言って微笑んだ。
「なんにもないのよ、私の家。」
真生は冷蔵庫を指差した。
「普段はどうやって暮らしてるの?」
「そうだね~、コンビニが多いかな。食事なんてお腹を満たせばいいんだし、少し前は賞味期限が切れた患者用のドリンクを飲んでた事もある。」
健一は真生の腕を掴んだ。健一の指が回ってしまう細い腕を見て、
「これじゃあ、力なんか出ないんじゃない?」
そう言った。
「出るよ。」
真生は食べ終えた食器を片付けにキッチンへ向かった。後をつけてきた健一が、
「少し小降りになったら、買い物に行こうか。」
そう言った。
「健一さんはそういうママゴトみたいな事がしたいの?」
真生は洗い物をしながら健一に聞く。
「一緒にいたらそんな流れになるだろう。」
健一はそう言うと、真生が洗った食器を拭き始めた。
「家族は?」
真生は健一を見た。
「親父と兄貴がいたけど、今は別の町で暮らしてて、連絡はほとんど取ってない。」
「どうして?」
「兄貴はもう結婚してるし、親父にも新しい人がいるみたいだから。高校までは、なんとなくぎこちない家族を保ってたけど、そこから先はみんな自由になったんだ。俺は東京の夜学に行ったし、親父も再就職したし。何かの時に名前の欄に書くだけだね、繋がりを思い出すのは。」
健一は拭き終えた皿を片付けようと振り返った。
「それ、こっち。」
真生は代わりに皿を受け取って棚にしまった。
「真生ちゃんは?」
「ん?」
「家族。」
「ほら、私はこんなだから、しばらく帰ってないの。」
「こっちが実家じゃないんだ。」
「そう。実家はここから8時間はかかる場所にある。私は姉の旦那さんが苦手なの。調子のいい人だから、すごく疲れる。実家に帰らない言い訳だけどね。」
真生はそう言った。
「看護師の仕事だって、誰かとうまく合わせなきゃならないんだろう?」
健一は真生の顔を覗いた。
「それは仕事だから、別。」
食器をしまい終えた真生は健一の袖を掴んだ。
「ママゴトでもいいから、もう少し一緒にいてくれる?」
健一は真生と目が合うと、
「いいよ。」
そう言って嬉しそうに真生を抱きしめた。
雪が少し止んだ。
真生と健一は近くのスーパーまでやってくると、混み合った駐車場を見て、今日が大晦日だという事を知った。いつもはいない警備員の案内に導かれる様に、人がごった返す店内に入ると、色とりどりの野菜が目についた。
健一は近くにあったミカンを手にとって、
「一緒に食べよう。」
そう言ってカゴに入れた。
「健一さんはお正月も仕事?」
「俺は2日から仕事。」
「休みは週に不定期?」
「そうだね。だいたいは火曜日か水曜日。真生ちゃんは?」
「私は3交代。」
「明日は?」
「夕方から夜中まで仕事。」
「次の日は?」
「朝から夕方まで。」
「そっか、お正月なんてないんだね。」
「家族がいない人ってね、毎年そういう感じだよ。」
2人は食材を買ってスーパーを後にした。人の波を避ける様に、そっと自分の肩に手を掛ける健一の優しさが、真生は嬉しかった。
真生の家について冷蔵庫に買ってきたものを入れていると、
「あと少しだよ。」
真生が言った。
「何が?」
「仕事に行く時間がどんどん迫ってくる。」
時計は14時を回っていた。
「まだ10時間近くは一緒にいられるよ。」
健一はそう言って、腹減ったぁ、と買ってきたお菓子を食べていた。
「お昼、だいぶ過ぎちゃったね。」
真生は大きな鍋を出して水を火にかけた。買い物袋からパスタを出すと、
「家族がいる生活に憧れるのに、家族がいたら当たり前の生活から逃げたくなるんだろうね。」
そう言った。
「真生ちゃん、強い人、弱い人?」
「私は強い人だって、言いたいね。」
真生は沸騰したお湯にパスタをパラパラと入れた。
「俺もかな。強い人だって、言いたいよ。人の強さの基準って、寂しさをどう乗り越えるかって事なのかもしれないね。」
健一が菜箸で柔らかくなってきたパスタをお湯に沈めると、
「上手だね。」
真生が言った。
「どっちの事?」
「両方。金髪なのになんでもできるし、言葉を選ぶのも長けてるし。」
「真生ちゃんはずっと金髪にこだわってるんだね。周りにいなかったの、そういう人。」
「いるわけないでしょう。」
真生はそう言って笑った。
健一は手際よくパスタにソースを絡めると、真生が用意した皿に綺麗に盛り付けた。
食事を終えて、健一は机に無造作に置かれていた漢文の解説が書かれた本を手に取った。
「こういうの読んでるの?」
「漢文っておもしろいよ。戦いに明け暮れてると、いろんな感情が生まれてくるんだろうね。どんなに強く見せたって、心の中は辛くてたまらないんだよ。」
真生がそう言った。健一はその本を座って読み始めた。真生は健一の横で洗濯物を畳んでいる。
本を半分読み終わった所で、ぼんやり窓を見ていた真生に、
「真生ちゃん。」
健一は突然名前を呼んだ。
「何?」
「ずっと一緒にいようか。」
健一が言った。真生はクスッと笑って、
「大丈夫。私は寂しくなんかないから。」
そう言った。
健一は真生に近づくと、真生の顔を両手で押さえて、激しくキスを繰り返した。
「きっと後悔するからね。」
真生が言っても、健一は黙ってキスを繰り返した。
23時。
仕事へむかう支度が終わった真生は、ベッドで眠る健一を起こした。
「健一さん、家まで送っていくから起きて。」
起き上がった健一は、真生の束ねた髪を触った。
「俺が送っていくよ。それならまだ早いだろう?」
「健一さん、家に帰らないと。」
「真生を送ってから家に帰るよ。明日の朝、仕事が終わる頃に迎えに行く。」
「そんな事しないで、次の休みにちゃんと待ち合わせして会おうよ。」
真生がそう言うと、
「嫌だ。」
健一は真生を抱きしめた。
「思ってたよりも、メンヘラなんだ。」
真生はそう言った。
「なんとでも言えよ。」