8章 乾いた傷
家の前まで健一に送ってもらうと、健一は車の鍵を真生に渡した。
「歩いて帰るの?」
「ここからそんなに遠くないし。」
健一が言った。
「やっぱりコンビニに寄ってもらえば良かったなぁ。お腹減ったし。」
真生はそう言うと、健一に車の鍵を渡した。真生のわがままを笑って聞いていた健一は、
「じゃあ、家の中に入ってて。すぐに行ってくるから。」
そう言ってまた鍵を手に取り、運転席に乗った。
「ちょっと待って。」
真生は健一の袖を掴んだ。
「私も行くから。」
真生は助手席に乗ろうとしたが、
「眠いんだろう?早く風呂入ってしまえよ。」
健一は行ってしまった。
コンビニはそう遠くはないのに、健一は真生がシャワーを浴びて、ドライヤーを掛け終わっても戻って来なかった。
テレビをつけると、笑い声が乾いた心に響いて、カサカサとひび割れた。
~ピンポン~
真生は玄関に向かって走った。覗き窓から外を見ると、健一が立っていた。
「ほら。」
健一はピザの入った箱を真生に渡すと、じゃあ、と手を振った。
「あがってかないの?」
真生が言うと、健一はニッコリ笑って部屋に入ってきた。
一緒にいてほしいという気持ちがなかなか言い出せない。それを伝えてしまったら、ずっと抱えている寂しさの事がバレてしまいそうだから。
健一は何も言わずテーブルの前に座った。
2人でピザを食べながら、淡々と読み上げるニュースを見ていると、
「どういう時に歌詞が浮かぶの?」
真生が突然聞いた。
「ん?」
口をモゴモゴさせらがら、健一は真生の方を見た。
「ごめん。そう言う事は聞いたらダメだったね。」
真生はピザを頬張った。
「何でもない時に、フッとかな。」
健一は言った。
「才能がある人はみんなそうやって言うよね。突然浮かぶってさ。」
「物語って、日常の中に至る所に転がってるんだよ。それを見つけただけの話し。」
「じゃあ、健一さんの毎日は辛い事だらけだね。歌ってる曲は、みんな切なすぎるもん。」
真生がそう言うと、健一は真生の背中を触った。
「真生ちゃんだって同じだろう。」
「これは少し油断してたのよ。」
真生は残りのピザを口の中に入れた。
「シャワー借りるよ。」
健一は袋から着替えを取り出した。
「えっ、泊まる気だったの?」
真生が聞いた。
「そうだよ。今日は一緒に寝ようか。」
健一は冗談めかして浴室へ向かった。
ピザの空いた箱を片付けながら、誰かが近くにいても埋められない寂しさを、全然隆一のせいにしようとしていた。
自分から心が離れた隆一と一緒にいたって、ポッカリ空いた2人の間に、冷たい風が通り抜けていったかもしれないのに。いっそ、孤独と一緒に生きていくと腹をくくった方が、寂しさの蜘蛛の巣から逃げる事ができるのかもしれない。
いや、そんな事はないか。
寂しさという蜘蛛の巣にかかってしまった蝶は、もう二度と甘い蜜を吸う事はできない。逃げ出したいと羽根をバタつかせる度に消耗していく体力と、少しずつ見えてきた自分に残されたわずかな時間。孤独を苦にもせず、ひたすら腹を満たす獲物を待っていた蜘蛛が、ゆっくり自分に近づいてきているんだ。このまま食べられて、骨も何もなくなってしまえばいいのに。
真生はシンクの下にしゃがみ込むと、健一が浴室から戻ってきた。
健一はぼんやりしている真生の頭を撫でた。
「黒がいいなら黒にしようか。」
そう言って笑った。真生は健一の髪を触った。
「このままでいいよ。」
真生が言った。
「俺の頭の色の事で悩んでるんだと思った。」
健一はしゃがんでいる真生の目線に合わせて、自分もしゃがんだ。
「俺、真生ちゃんと話しても楽しくないんだよ。」
健一が言った。
「そうだよね、ごめん。」
真生は下をむいて謝った。
「ずっと想ってる人がいるんだろう。」
真生は健一の顔を見た。
「思ってたよりもかわいい顔してるんだね。こりゃモテるわ。」
真生はそう言って話しを誤魔化した。
「どういう意味だよ、それ。」
「わざとに金髪にしてるの?人が怖がるように。」
「それは真生ちゃんの主観だろう。」
「ううん。世間一般の意見だよ。」
真生はそう言って立ち上がった。
「布団出すから手伝って。」
「ちょっと、真生ちゃん。」
「何?」
「今日は一緒に寝てやるよ。」
健一は真生の後ろでそう言ったが、真生は聞こえないフリをした。
「ねえ。」
真生の前に来て、押し入れから布団を出そうとしている真生の手を、健一はぎゅっと掴んだ。
「冗談でしょう。」
真生は健一を避けようとした。
「なんでそんなに辛そうなの?初めて会った時からずっとそう思ってた。」
健一はそう言うと、真生は無表情で押し入れから布団を出した。
「さっきマサと話してた事、聞こえてなかった?」
真生が言った。
「ぜんぜん。」
真生は布団を敷き終えると、膝を抱えてその上に座った。
「ここに座って。」
そう言って健一を隣りに呼ぶ。
「4年くらい付き合ってた彼氏がいてね。ケンカもしてたけど、このまま結婚するのかぁって思うくらいずっと一緒にいたの。だけど彼は私の事が嫌いだったみたいで、去年の夏に別れようって言われた。健一さんと会った時は彼のお葬式の後。彼のお母さんは、私とまだ続いていると思って連絡をくれたのよ。」
「その人はなんで亡くなったの?」
「山にスキーに出掛けて、滑落したらしいね。私はそんな趣味があるのも知らなかった。きっと、私の前ではずっと我慢していたんだね。」
「じゃあ、真生ちゃんと一緒にいたら、今でも生きていたんじゃない?」
「それはタラレバの話しよ。私とは一緒にいたくなかったんだし。それに、彼にはもう新しい彼女がいたの。その人と並んで彼の遺骨を拾う惨めさったら…。」
真生は膝の上に顎を乗せた。
「あの彼は?」
「ん?」
「さっきの彼。」
「同期なの。学校も同じ。」
「好きな人が彼氏と早く別れてくれないか、よく言ってたよ。」
「そっか。」
「忘れられないのか?元彼の事。」
「だって、嫌いになったわけじゃないないから。」
真生は健一を見て少し目を潤ませた。
「バカみたいでしょう。寂しくて寂しくてたまらないの。」
真生は顔を伏せた。
健一は真生の髪を撫でると、
「触らないでよ。また寂しくなるから。」
真生は顔を伏せたままそう言った。
「誰かが隣りに座ってるから、寂しいって言えるんだろう?」
「ん?」
健一の言葉に真生は顔を上げた。
「言葉がなくても、1人でいたら、ため息が出るよ。」
真生は少し溢れそうになった涙を拭った。
「悲しみは時間が経てば薄れていくけど、寂しさは募っていく。」
健一が言った。
「それは、新しい曲の歌詞にでもするの?そっか。健一さんの好きな人も亡くなったんだよね。気に障るような事ばっかり言ってごめん。」
真生は健一に小さく頭を下げた。
「真生ちゃん。」
「ん?」
「近くにいたらダメかな?」
真生は吹き出した。
「金髪にしてるならもっと硬派に生きたら?健一さんのお友達の、ほら、あの黒髪の人なら、そうやって甘えるのもわかるけど。」
「ナオの事か?」
「あの人、ナオって言うんだね。黒目が大きくて、けっこうタイプだなぁ。」
真生はそう言って、健一の話しをかわした。
「ナオは結婚してる。」
「嘘!それならいつもあの店にいるのはおかしいよ。」
「ナオの奥さんは消防士なんだ。だからナオがあの店にくるのは、奥さんが当直の時だけ。」
健一が言った。
「ショックだなぁ。大失恋。」
真生は笑いながらまた膝に顎を乗せた。
「俺をここに入れたのって、少しはその気があるんだろう?」
健一は真剣に真生を見ていた。
「違うよ。寂しい気持ちが勘違いしただけ。」
真生がそう言って顔をそらすと、健一は真生に体を寄せて顔を近づけた。
「つまらないよ、こんな女。」
真生はそう言いながら、健一の目をずっと見ていた。静かに真生の唇に自分の唇を重ねた健一は、冷たい真生の頬を手のひらで包む。
少しずつ温かくなっていく真生の頬は、自分が触れてくれるのを待っている様だった。
健一は真生をそのまま布団に倒した。
見つめ合った2人の形のない寂しさは、どうしようもないくらいに空間を埋め尽くしている。健一は真生をきつく抱くと、2人の間にあったその寂しさを深く吸い込んだ。