6章 帰りの道
クリスマスイブ。
どうしてか、仕事は定時に終わってしまった。なんとなくいつもと雰囲気が違う花岡は、帰りを急いでいた。
「笹川さん、けっこう良くなったね。」
花岡は真生は背中をそっと触った。
「良くなってますか?自分じゃ見えないから。」
「少し瘡蓋になってるけど、小さくなってる。」
花岡はそう言うと、お先に、と急いで更衣室を出ていった。
今日は定時で帰ろうとする看護師や医療スタッフ達で、更衣室は混み合っていた。少し前まで一緒に働いていた病棟の仲間と会うと、これから彼氏の家に行くのかとからわれた。
彼氏とはとっくに別れていた事も、その人がもう亡くなってしまった事も、こんな夜に話すのは少し憐れで、何よりも面倒くさい。真生は笑って誤魔化すと、どこからか香水の匂いが漂う更衣室を後にした。
真っ暗な夜は、気持ちが悪いほど星が見える。
急いで車のエンジンを掛けると、ラジオから健一の声が聞こえてきた。
よく会うね、健一の事を思い出す。気まぐれな猫がこっちを見る様だ。
これは新しい曲なんだ。だとしたら、あの日作った歌詞なのか。
真生は車を停めてしばらく考えていると、窓を叩く音がして、そっちを見た。
「笹川、送っていけよ。」
外には同期の看護師、瀧本将大が立っていた。
「いいよ。どこまで?」
瀧本は真生の車の助手席に乗ってきた。
「桜橋のむこう。笹川の家もそのあたりだろう。家の前まで送っていけよ。」
「マサ、車は?」
「車検に出した。」
「それなら、代車を借りれば良かったのに。」
「すぐ終わると思ったけど、直してもらう所見つかってさ。それに、あいにく代車は空いてなったんだよ。」
「ふ~ん。今日は歩いて来たの?」
「姉ちゃんが送ってくれた。帰りはタクシーで帰るつもりだったけど、笹川が帰るの見えたから。」
真生は駐車場から車を出した。
「彼氏、待ってるのか?」
「待ってない。」
「出張でもしてるのか?」
「ううん。」
真生はハンドルを深く握ぎり、背中をシートから離した。
「別れたのか、寂しいクリスマスだな。」
「うるさいなぁ。歩いて帰ってよ。」
信号待ちで止まると、真生は再び運転席に寄りかかった。
「誰も待ってないなら、なんか食べてかないか?俺が奢るからさ。」
「マサが奢るなんて、明日は大雪になるかもね。そういうそっちは、ずっと1人なんでしょう?」
「ずっとって言うなよ。少し前まではいたんだよ。二股の片方だったんだけどな。」
真生はプッと吹き出した。
「笑うなよ。振ったのは俺の方だ。笹川はどうせ振られたんだろう。」
「そうよ。思いっきり笑いなよ。」
真生がそう言うと、
「お前、性格悪いな。」
瀧本は言った。
「そういう時は素直に泣けばいいだろう。しっかし今日はどこも混んでるなぁ。知り合いの店に行くから、お前の家から歩いて行こうか。」
「えぇ~、寒いから無理。」
瀧本は駐車場が混んでるからとか、タクシーがなかなか捕まらないとか、いろいろと理由を並べて、結局歩いて知り合いの店まで行く事になった。
「いつから1人になった?」
2人で並んで歩きながら、瀧本がそう聞いてきた。
「2カ月前かな。」
「振ったのか?」
「ううん、振られた。」
「清純派努力家ナースなのに、もったいないねぇな。」
「誰が清純派よ。努力家でもないし。」
真生は少し恥ずかしがると、
「腹黒で適当な奴って言えば良かったな。俺はそういう方が好きだけど。」
「……。」
瀧本の言葉に真生は何も言えなかった。
健一と会ったコンビニの前を通る。
「マサ、まだ歩くの?」
真生が聞いた。
「ねぇ、お店がある方って、もっとむこうじゃない?」
真生は繁華街を指差したが、
「もう少しだから、ちゃんと歩けよ。」
瀧本は手を上着のポケットに入れた。冷たい冬の空気の中を30分歩いたところで、
「ねぇ!」
真生は瀧本の上着を掴んだ。突然、瀧本は真生の肩を自分に寄せた。
「痛てっ。ここ、帯状疱疹が出てんの!」
真生はそういって瀧本から離れた。
「ごめん。寒いのかと思って。」
「寒くはないよ。手袋あるし。歩くのに疲れただけ。」
真生は白い息をふーっと吐いた。
「NICUになんか行ったから、あんまり歩かなくなったんだろう?」
「そんな事ないよ。」
「同期で初めての異動だな。ていうか、同期なんて何人も残ってないけど。」
「みんな辞めてどこに行くんだろうね。いい所があったら、教えてほしい。」
少し早歩きの瀧本の後を、真生は小走りでついていった。
瀧本の知り合いがやっているという店に入ると、カウンターには黒髪で少し長めの髪の男性が座っていた。一瞬こっちを見たが、
「笹川、こっち。」
瀧本はボックス席に真生を案内した。
「ヒサシさん、腹減りました。なんか作ってください。」
瀧本はそう言って、マスターにビールを頼んだ。
真生は運ばれてきた料理を美味しい美味しいと何度も言って食べていると、瀧本はたいして料理には口をつけず、ビールを3杯もおかわりしていた。
「マサも食べたら?」
真生は瀧本の皿に料理を取り分けた。
「女子みたいな事するなよ。」
瀧本が言った。
「いいから食べなよ。」
「なんだ、母ちゃんかよ。」
真生が食べるのを勧めると、瀧本は笑った。
「ここ、よくくるの?」
「たまにくるんだ。内緒だけど…、」
瀧本は真生の耳元に顔を寄せた。
「あのカウンターに座ってる人、ZINEのメンバー。」
「ZINEってあの?」
「そう。」
真生は急に食べ物が喉を通らなくなり、残りのビールを慌てて飲んだ。
「笹川、大丈夫かよ。もしかしてあの人、ストライクだったか?」
瀧本が言った。
「マサ、早く食べて。明日朝早いから、食べたらすぐに帰らないと。」
真生はそう言って食べ物を口に詰め込むと、早く帰ろうと瀧本を急かした。
「なんだよ。もう1杯くらいいいだろう?」
瀧本はそう言ったが、真生は早く早くと瀧本を立たせた。
会計をしている瀧本を待っていると、ドアの前に向かうと、少し開いたドアから、金髪が見えた。真生はその客に気づかれないように瀧本の背中に隠れた。
「マサ、新しい彼女か?」
店のマスターが瀧本に聞いている。
「そうです。」
瀧本が笑って答えていると、真生は金髪の方を恐る恐る見た。
「真生ちゃん、そういう人がいるならちゃんと言ってよ。」
金髪はそう言って、黒髪の男性の横に座った。
さっきの話し、聞こえてたんだ…。真生は両目を瞑って眉間にしわを寄せると、
「嘘ですよ。俺等ただの同期です。こいつが寂しそうにしてから、一緒に飯にきただけです。」
瀧本はマスターにそう言った。
真生は瀧本の腕を掴むと、急いで店を出た。
「あの人知り合い?」
瀧本が真生の顔を覗いた。
「マサ、早く帰ろう。」
そう言って真生は歩き出した。瀧本がその横に並ぶ。さっきよりも冷えた空気は、あっという間に真生の顔を冷たくした。鼻の頭を温めるように両手を口の前ではぁ~と息を吹きかけると、瀧本は急に立ち止まり、真生の左の頰を触れた。少しずつ瀧本の顔が近づいてくると、
「やだ~、酔っぱらい。」
真生はそう言って瀧本の顔を手で押し返した。瀧本は逃げようとする真生の手を握る。
「なんで別れたんだ。」
「関係ないでしょう?」
「俺、ずっと待ってたんだ。笹川が彼氏と別れるの。」
「そうだったの~。」
真生が笑って誤魔化すと、
「ちゃんと聞けよ。」
瀧本は逃げようとする真生の両肩を掴んだ。
「最初はさ、そのうち別れるだろうって思ってたのに、でもなかなか別れないし、このまま結婚するんだろうなって諦めてたら、笹川が車の中で泣いてるのを偶然見掛けて、もしかしたらって期待したんだ。」
真生は瀧本の真剣な視線から目を逸らし、
「ハズレです。ミスして怒られたから泣いてました。」
そう言って笑った。
「笹川、お前、卑怯だな。」
2人はまた歩き始めた。
「そうだね。きっと地獄に落ちる。」
そう言いながらも、真生は笑顔を作っていた。少しでも俯いたりでもしたら、寂しいという気持ちを見透かされてしまいそうだったから。
「嘘だって認めたのか、やっぱり寂しいだろう?」
「マサが卑怯だって言うから、それに乗っただけ。」
コンビニの灯りが見えてきた。
「私、お水買って帰るからここで。」
真生はそう言って瀧本と別れた。
真っ暗で冷え切った部屋に入り、ストーブをつけその場に座っていると、クリスマスで世の中が浮かれているせいなのか、急に孤独が隣りの座った。
健一にも、瀧本にも、会いたくなかった。
寂しくて堪らない夜なのに、ずっと鼓動が早かった。何度も携帯を見てはため息をついた。