4章 見えない頂
「笹川さん、ちゃんと薬もらったら?」
更衣室で着替えていると花岡が真生の肩を触った。
「これですか?」
真生は背中に手を伸ばした。
「昨日より、ひどくなってる。」
「そうですか?自分じゃ見えないんで、わからないですけど。」
真生がそう言うと、
「痛くないの?」
花岡は顔をしかめていた。
「痛いのは服が擦れてるせいかと思ってました。」
真生はそう言ってセーターを頭から被った。
「笹川さんってさあ、けっこう鈍感な人だね。こういう状態でNICUには入ってほしくないから、ちゃんと松岡先生に診てもらって。」
花岡が言った。
「帯状疱疹は飛沫感染しないじゃないですか。水疱ができてても服で覆ってるし、大丈夫です。」
真生はそう言って花岡を見た。
「そんな理屈なんて言わないで、こっち!」
花岡は真生を医局に連れて行った。
「松岡先生、ちょっとこの人診て!」
花岡が入り口で松岡を呼ぶと、菓子パンを食べていた松岡を手招きした。マスクをしていない松岡を見たのは初めてだった。
「こら、ここにズカズカと入ってくるのは、花岡さんくらいだぞ。」
松岡はソファに座ってる外科部長に気を使い、頭を下げてからこちらにきた。
「松岡先生、ずいぶん人気者だね。」
外科部長は嫌味なのか、少し皮肉っぽく松岡に言った。
「どうした?」
松岡が花岡と真生の前にやってくる。
「この人、帯状疱疹になってます。」
花岡が言うと、松岡の後ろをついてきた外科部長は、
「あっ、笹川さん。姿が見えないと思ったら、小児科に異動になったんだってね。」
そう言った。
「先生、笹川さん、けっこう病んでます。」
花岡は背中を指差しながらそう言うと、
「そりゃいかんね。外来で診てあげなさい。今日は土曜日だから、下は休みだからね。外科の処置室を使ってもいいから。」
少し含み笑いをしながら、松岡の肩を叩いた。
「ありがとうございます。ほら、早く。」
2人は松岡に追い立てられるように、エレベーターに乗った。
「ここの外科外来って初めて。」
花岡は少し楽しそうだった。
処置室につくと、花岡は真生を丸椅子に座わらせた。
「私、外で待ってるよ。」
花岡がそう言うと、
「ちょっと待ってよ。ここで2人なら疑われるだろう。」
松岡は花岡の手を掴んだ。
「いつも裸の赤ちゃんを見てるくせに。」
花岡はそう言ってクスッと笑った。
「成人の女性には免疫がないんだよ。笹川さんだって嫌だろう?いくら医者だって言ったって、顔見知りなら、気まずいだろうし。」
「仕方ないなぁ。」
花岡はそう言うと、真生の上着をめくった。
「先生、笹川さん、どんだけストレス抱えてるんだろうね。」
花岡は真生の顔を見た。
「NICUは希望だったの?」
松岡は真生に聞いた。
「看護師もドラフトと同じ。足りないポジションの補強なの。松岡先生、私、薬局に行って薬もらってくる。早く処方箋書いて。」
花岡はそう言うと、1人で薬局にむかった。
真生は服をおろし、松岡の打ち込むパソコンを見ていた。
「塗り薬と飲み薬。とりあえず1週間分出しておくから。今、花岡さんが薬局から戻ってくると思うから、もう少し待ってて。」
松岡は真生の方を見た。
「情けないです。」
真生が俯いて言った。
「花岡さんも、ここにきた初めの頃はそんな事を言ってたよ。」
松岡はそう言って微笑んだ。少ししてから、花岡が戻ってきた。
「先生、薬剤師にしつこく理由を聞かれた。」
花岡はそう言って頰をふくらますと、
「アハハ。僕らはあんまり顔が知られてないからね。きっと泥棒だと疑われたんだろう。」
松岡は笑った。
「失礼だね。だいたい泥棒が塗り薬なんか欲しがるかね?」
花岡が言った。
「花岡さん、これから帰って寝るんだろう?その前に俺の洗濯物を持って帰ってよ。」
「先生、何言ってるの!それなら笹川さんに頼んでよ。」
真生が背中に手を回すと、
「ズルいね~。痛みなんてわからなかったくせに。」
そう言って花岡は真生の背中を触った。
「痛ててっ!」
真生は笑いを堪えながら痛がった。
「ちょっと、何?2人ともグルなの!」
「花岡さん、ありがとうございました。私は用事があるので、これで帰ります。」
真生はそう言って処置室を出ていった。
玄関を出ると、雪が降っていた。夜勤明けの眩しい朝が、雪の白さのせいか、さらに眩しく感じた。
車に積もった雪をブラシで払っていると、山になんて行かなきゃ良かったのに、あの女性の声が聞こえた。
隆一は私が止めたら行かなかったのかな?そんなわけないか。今までだって友人と勝手に遊びに行って連絡がつかない事もあったんだし。この季節は大嫌い。真生はそう思うと、眠い目をこすりながら車に乗り込んだ。
冷え切った車の中から、あの曲が流れる。
ずいぶんよく流れるね、これ。
家に帰り、机の中にしまった楽譜をベッドに寝転んで見ていた。
「…?」
真生は着替えると、眠気を追い払い、ショッピングモールに向かった。
土曜日の昼時のショッピングモールは、たくさんの人でにぎわっている。
真生は楽器店の前に行くと、そこの前にあるピアノの前に座った。初めは片手でメロディーを確かめるようにゆっくり弾いていたが、少しすると楽譜の通りのリズムで両手で弾き始めた。
やっぱりこれ、あの曲だ…。
ラジオから流れてきたあの曲。
もしかして、あの金髪がこの曲を作ったのかな?
それとも、どっかでこの楽譜を手に入れたのかな?
だけど、あの人はきっとホストかなんかだと思うけど。
真生は楽譜を手にとってよく見ると、裏に携帯番号が書いてあった。客を落とす手段にしては、なんだか漫画チックだね。真生はおかしくて吹き出すと、
「あの、」
真生の後ろで声がした。
「あっ、すみません。」
真生がピアノを弾くために順番を待っている人が声を掛けたのだと思い、急いでピアノの席を開けた。
「何かおかしい?」
声の方を向くと、金髪が真生を真剣に見ていた。
「あっ、金髪…。本当、よく会うね。」
真生の言葉に金髪は少し怒っている様だった。
「こっちは命を削って作ってる曲なんだ。笑わないでくれよ。」
金髪は真生に言った。
「だって、あなたはホストでしょう?これって客引きの新しい方法?」
真生は怒っている金髪に、笑いながら言った。
「ホスト、誰が?」
真生は金髪を指差す。
「あんたこそ本当、得体の知れない女だな。」
金髪は真生の肩をギュッと掴んだ。
「痛てっ…、」
真生は肩を押さえた。
「ちょっとそれ、大袈裟過ぎじゃないか?」
金髪がそう言うと、
「ここに、マズいのが出てて。」
真生は背中に手を伸ばした。不思議そうな顔をしている金髪に、
「触ると痛むのよ。ほら私、繊細だから。」
真生は言った。
「ごめん、知らなかった。」
素直に謝る金髪を見て、
「ちょっと年取ったら、みんなこうなるのよ。」
真生は金髪の右側の肩を叩いて笑った。
「いくつ?」
金髪は真生を指差した。
「28。」
「それで年とか言われたら、反則だよ。」
「金髪は?」
「30。」
そう言って答えた金髪を見て、この人、その年でまだ金髪続けてるんだ…。真生は少し引いた。
私なんて髪の毛を明るく染めるどころか、爪だって少しも伸ばした事がないのに、生きる時間は同じでも、与えられた自由は平等ではないんだね。真生はそう思い少し俯いた。
ほらまた、そんな態度を取ると、隆一が言っていた捻くれた自分が顔を出す。
〝言いたい事があったら、さっさと言ったら?〟
〝黙ってるのが一番ズルいよ。〟
真生はそう言って、なんとか這い上がろうとして言葉探している、そんな自分を呆れて見ている隆一の横顔を思い出していた。
私、やっぱり無理だ。
自分の規則で素直かどうかを判断したら、そのゲートを通過できるのは、本当の胸の内を明かそうとしない健気な自分しかいない。
皆が口にしている言葉は、嘘と言い訳と屁理屈ばかりのはずなのに、にっこり笑ったり、少し涙を見せるだけで、周りはそんなまやかしに気が付かない。
「どうかした?」
金髪は真生の顔を覗き込んだ。
「お互い、もういい大人なのにね。」
真生はそう言うと、
「あっ、これの事?」
金髪は自分の髪を触った。
「この曲は本当に金髪が作った曲なの?」
真生は金髪に聞いた。
「そうだよ。仲間と音楽をやってるんだ。」
「ホストの?」
「だから俺はホストじゃないって。ここの楽器屋の店長。」
「本当に~?」
真生は目を細めた。確かに楽器屋の名前が書いてあるジャンパーを着ている。
「そっちこそ、何してる人?」
「私は病院に勤めてる。」
「それこそ絶対に嘘だろう。」
金髪も真生に目を細めた。
「嘘ばっかりじゃ話しが進まないね。」
真生はケラケラと笑った。
「今日は仕事が休みなの?」
金髪が言った。
「仕事はもう終わったの。」
「えっ、どういう事?」
「夜勤明け。」
真生がそう言うと、
「本当だったんだ、疑ってごめん。そうだ、晩ご飯奢るよ。この前、鍵を拾ってくれたお礼にね。21時に仕事が終わるから、あのコンビニの前で待ってて。」
金髪が言った。
「そんな遅い時間に?」
真生は金髪の顔を見た。
「仕方ないだろう、店は20時までなんだし。」
「そっか。私も帰ってもう一回寝ればちょうどいっか。」