3章 昇らない月
NICUでの勤務が始まった。
真生の指導になった花岡は、NICUに勤めてから7年目の看護師だった。以前は別の病院で勤務していたらしく、花岡のスキルは、師長は高く買っていた。
初日から早口で厳しい花岡は、自分だけにそういった態度をしているのかと思ったら、わりと誰にでも無駄な笑顔は見せなかった。
「笹川さんの手、冷たいのよ。」
花岡は保育器の赤ちゃんを触ろうとしていた真生の手を止めた。
「ちゃんと温めて。ステートも。」
真生は手を擦り合わせてからスヤスヤ眠る赤ちゃんの背中に聴診器をあてると、小さな背中からトクトクと速い脈を感じた。
「お腹の中の環境も、母親の腕の中も、いくら保育器を温めても再現なんてできないの。ここの看護師は、この子達が生きるのに邪魔な物を取り除いていくのが仕事なんだから。」
花岡はそう言うと、
「ちょっとどいて。」
真生を保育器の前からずらし、赤ちゃんの背中に聴診器をあてた。
「笹川さん、先生呼んできて。」
「えっ?」
「いいから早く!」
人工呼吸器に繋がれた赤ちゃんの前で、処置を行った医師の松岡は、赤ちゃんの様子を見ていた。
「見ない顔だね、新人?」
真生にそう言うと、質問したくせに真生には興味がないようで、黙って心電図モニターを見つめていた。
「もう大丈夫な様だね。」
医師はそう言ってその場を離れた。
「この子、昨日やっと人工呼吸器が外れたのよ。両親はやっと普通に抱っこができるって喜んでいたのに。」
花岡は壁時計を見た。
「そろそろ面会に来ると思うから。」
「両親がくるんですか?」
「そうよ。」
花岡は松岡の元へ真生を連れて行き、
「松岡先生、笹川さんも同席させてください。」
そう言った。
「ああ、別にいいけど。」
少し経つとさっきの赤ちゃんの両親がNICUの入り口にやって来た。真生は松岡に言われたの通り、両親に松岡から話しがあると声を掛けた。
「あの、こちらへ。」
真生の顔を見た両親は、
「何かあったんですか?」
そう言って不安な表情を浮かべた。
ミーティングルームに入り、松岡が両親にさっきの状態を説明する。淡々と説明する松岡の前で、泣き続けている母親と、必死で現実を受け止めようとする父親の様子を、真生は見ていた。
花岡が両親を迎えにきて、赤ちゃんの元へ行くように促した。事務的な言葉を穏やかに伝える花岡は、最低限の仕事をしている様で、本当は誰にも真似できない最大限の対応をしている。
「逃げ出したくなったかい?」
松岡がそう言った。
「はい、少し。」
真生が言うと、
「正直な人だね。」
松岡が同意書を渡した。
「これ、頼むよ。」
「あの、」
「何?」
「言葉が見つかりません。」
松岡は真生の方をむくと、
「そうだろうね。ここでは背中を押そうとしたら、余計なお節介になるからね。」
そう言って真生の持っている同意書を捲った。
「1枚は両親に渡しておくんだよ。」
NICUに異動してから1週間が経ち、明日から花岡について夜勤に入る事になった。
「笹川さん、だんだん声が小さくなってきたね。」
更衣室で花岡が真生に言った。
「はぁ、そうですね。」
真生はため息まじりに返事をすると、
「今日は帰って寝るだけ?」
花岡が聞いてきた。
「寝るまえにもう一回、マニュアル読み直します。」
「松岡先生と師長のやり方って、微妙に違うから、笹川さんが新しいものを作りなよ。」
「私がですか?」
「そう。だって学校を卒業したての看護師じゃないんでしょう?」
「無理ですよ。ここはまだ2週間ですし、成人とは全くやり方が違いますから。」
「じゃあ笹川さんは、あの子達にもそうやって言える?」
「それは…。」
「ずいぶんと悩んでるね~。ここ、」
笹川が真生の背中を指差した。
「えっ?」
真生が背中に手をやると、瘡蓋になっているのがわかる。
「帯状疱疹?笹川さん、クリスマス前に男に振られた?あげくにNICUなんかに異動になっちゃって、最悪の年末だね~。」
花岡はそう言って笑った。真生は深いため息をつくと、
「花岡さんはなんでもわかるんですね。」
そう言った。
家に帰っても食べる物がないので、近くのコンビニに寄った。
実家のある町からこっちの大学に進学し、そのうち帰ろうと思っているうちに、いつの間にか帰りそびれてしまった。今さら、むこうの町で就職をしたところで、すっかり出来上がっている人間関係の中でうまくやっていく自信がなかった。こっちの町でも、けしてうまくやっていくとは思えないけど、大きな決断をするよりも、宙ぶらりんで生きているほうが、都合が良い時がある。
急に新しい部所に異動になり、ただでさえエネルギーの消費が大きかった上に、その愚痴を聞いてもらえる相手もいない1人の夜は、心がえぐられていくようだ。
真生は背中に手をやると、もっと目立つ所に出てくれれば良かったのに。そう思った。
コンビニの入り口で、ガチャガチャといろんなものがついた鍵を拾った。こんなに目立つものを落とすなんて、余程の間抜けな奴なんだろう。
真生はそれを店員に届けると、おにぎりとチョコレート買ってコンビニを出た。
駐車場で車のエンジンを掛けると、
「ちょっと待って!」
金髪の男性が真生の車の窓ガラスを叩いた。真生が窓をあけると、
「鍵、どうもありがとう。」
男性はそう言って、さっきのガチャガチャとした鍵を見せた。
また、この人か…。
「良かったですね。」
真生はそう言うと、男性は携帯を取り出した。
「お礼するよ。」
男性は真生に言った。
「携帯忘れたんで。」
真生が嘘をつくと、
「じゃあ、これ。」
男性はそう言って楽譜を渡した。
「聴いてみて。」
そう言うと、男性はコンビニの中に入って行った。
変な人。
こんな価値のないものをもらっても困るのに。
それとも、自分によっぽど自信があるのかな?ちょっと顔がいいだけで、女は誰でも落ちると思ったら大間違い。この手で店に通わせようだなんて、いかにもホストがやりそうな方法だ。
真生は家に帰ると、もらった楽譜を机の中にしまった。
23時半。
結局一睡もできず、夜勤にやってくると、花岡が先に記録を読んでいた。
けして遅刻ではないけれど、先輩よりも遅く出勤した事で、真生は罪悪感を感じた。そう言えば、花岡はいつも誰よりも早く出勤している。
「今日は2人?」
松岡が花岡に聞いた。
「笹川さんは見習いだから、もう1人きます。」
「そう、誰?」
「夏川主任です。」
「そうか。それなら今日は安心して帰ろうかな。」
松岡はそう言って立ち上がった。
もう1人の夜勤の相手、夏川主任が髪を縛りながらやってくると、
「ごめん、子供が熱出しちゃってさあ。」
そう言った。
「主任、それなら帰ってくださいよ。ここに持ち込まれたら困ります。」
花岡が言うと、
「大丈夫。母ちゃんは強いからさ。」
夏川はそう言った。
「夏川さん、ダメだよ。看護師はたくさんいるけど、お子さんの母ちゃんは夏川さんだけなんだから。それに花岡さんの言う通り、ここに感染症を持ち込まれては困るからね。」
松岡が言った。
「笹川さんを鍛えるのにはいい機会だし、今日は帰ってください。ねっ、先生も残ってくれるでしょう?」
花岡はそう言うと、
「君等は明日の朝で終わりだけど、僕は明日も仕事だからね。花岡くんに洗濯でもしてもらわないと、履くパンツもなくなっちゃうよ。」
松岡は笑った。
「お母さん、いいから早く帰ってあげて。松岡先生のパンツは、師長に洗ってもらうから。」
花岡は主任の背中を振り向かせた。
真生は寝不足と夏川が帰った事で何をするにも手が震えた。いつもの夜勤なら、静かに部屋を開けて、点滴を確認するために手に持っている懐中電灯も、ここにはない。幾人もの人を見送り、バタバタと急変に対応していた少し前は、あっという間に迎えた朝が、今日はずいぶんと程遠く感じる。
何事もなく1日を終え、新しい1日が始まる事が、こんなにも難しいだなんて、真生は保育器の中で眠る小さな背中を見つめていた。
「頑張れって言ったら、絶対にダメだからね。」
花岡が言った。
「なんでですか?」
真生は花岡の顔を見た。
「余計なお世話だからよ。」
マスクから見える花岡の目が少し笑った様に感じた。
どうして自分は、その先のむこうを見てしまうのだろう。少し顔をあげたくらいで見える景色が、ちょうど歩いていくにはいい距離なのに。
頑張れとか、もう少しとか、それはまだ余力がある人が言う言葉で、精一杯なくらいに生きていると、余計なお世話なんだよね。
お前といると疲れる、そう言った隆一の目が、真生の心に突き刺さった。