2章 曇天の太陽
深夜勤が終わると、真生は看護部長室に呼ばれた。
「笹川さん、来週からNICUへ行ってちょうだい。」
看護部長は、看護師達が毎月心待ちにしている来月の勤務表を見ながら真生に言った。真生は部長が手に持っている勤務表を覗きたいと少し前に出たが、いろんな部所の勤務表が机の上に広げられていて、自分の名前がどこにあるのか見つけられなかった。
「もういいから。次の看護師がここにくるから、後は病棟の師長に詳しく聞いて。」
部長はそう言って、別の病棟に電話を掛けた。真生は仕方なく部長室を後にすると、そのままNICUにむかって重い足を運んだ。夜勤明けのせいか、力が入らない体を連れて、NICUの入り口のドアを開けた。
「職員はここから入っちゃダメ!」
真生は近くにいた看護師にそう言われると、その看護師は反対側にある入り口の方を指差した。
「あの、どうやってここにきたら…?」
少し苛ついているその看護師に声を掛けると、
「いいよ、今日は特別。」
そう言って真生は詰所の中に案内された。看護師の名札には花岡舞と書いてあった。
「師長、来ましたよ。」
花岡はそう言うと、規則正しい電子音が聞こえる保育器の方へむかって歩いていった。
「笹川さんだっけ?突然の異動でごめんなさいね。急に急遽産休に入る職員が出てね。」
物腰の穏やかな口調の師長の高根は、真生の前に丸椅子を出した。
「4東の看護師だったわよね?」
「そうです。」
「ここはこれまで病棟とは違って、特別な場所だからね。命を見送るなんて、絶対許されない。」
高根は小さな聴診器を真生に渡すと、
「ほら、使ってる物は今までとは全然違うから。とりあえずは辞めていった人のお古を使って。」
そう言った。真生は親指の腹で隠れるほどの聴診器の表を自分にむける。
「それを体にあてる事さえも、赤ちゃんは負担に感じるものなのよ。」
高根はそう言うと、真生は今までとは違う空気に、少し戸惑った。
「大変な場所ですね。」
「初めは怖くてたまらないわよ。触ると壊れるかもしれないと思うからね。だけど、それがあなたの仕事なの。赤ちゃんはみんな触れてほしいと思ってる。」
高根は真生に勤務表を渡した。
「あなたの指導は花岡さんがやってくれるから。しばらくは花岡さんと一緒の勤務になるわよ。その後は一人立ちできるか、花岡さんに嫌味を言われるかは、笹川さん次第。」
真生は高根に案内された裏の階段から、更衣室にむかった。
今年は全くついてない。
最後の12月がこんな事になるなんて。楽しみにしていたクリスマスも、勤務表を見るとずっと日勤が続いている。どうせ一人で過ごす夜になるのなら、いっそ夜勤で働いていた方が気持ちが紛れたのかもしれないのに。だいたいどうして、私が異動の駒を引き当てしまったのだろう。しかもよりによって、異世界のNICUだなんて。
夜勤を終えて開ける玄関は、どんなに曇っていても、病院の白い壁のせいなのか、とても眩しく感じる。目の調節のために瞬きを繰り返すと、雪虫かと思った白く舞っていたものは、本当の雪だった。曇天の空を見て、とうとう本格的に雪が積もることを感じた真生は、タイヤ交換がまだ終わっていない事に気がついた。
自宅の近くのガソリンスタンドでタイヤ交換が終わるのを待っていると、店内にかかっているラジオから、今年流行したと言われる曲が次々と流れてきた。曲の名前も誰が歌っているのかは知らないけれど、聞いた事のあるメロディーがいくつかあった。少し時間が経てば、それもみんな忘れてしまうのだろう。思い出の釘に引っ掛かり、いつもと違う感情でも生まれない限り、口ずさむ事なんてほとんどない。
眠気と気だるさが瞼を重くすると、真生はそのまま眠ってしまった。
「お客さん、できましたよ。」
ガソリンスタンドの店員から、声を掛けられると、真生は慌てて飛び起きた。
「これ、サービスです。気をつけて帰ってください。」
冷たい缶コーヒーをもらうと、真生はお礼を言って車に乗り込んだ。
信号待ちの間に、さっきの缶コーヒーに口をつけると、コーヒーの苦さと、それを受け付けようとしない口の中が鼻の奥に助けを求めて、少し気持ちが悪くなった。
カーラジオをつけた。さっきの番組の続きなのだろうか、誰かの曲が流れてきた。初めて聴いたかもしれない曲なのに、やっと会えた様な気持ちになった。最近ではめずらしく、ストレートな歌詞がはっきり聞こえる。もう少し、透明な声だったら、もっと良かったのに。真生はハスキーな男性の声の主の顔を想像した。最近の人だろうか?それとも前からいた人が歌い方を変えたのだろうか?そう思っていた。
家に着いてベッドに入ると、携帯でその曲の事を調べた。
ネットでしか配信してないのか。
顔も姿もわからないその声の主の事が気になりつつも、襲ってくる眠気には勝てず、真生は眠りについた。
真夜中に目が覚めると、地面を埋め尽くした雪は、街灯の灯りに照らされて、オレンジ色に染まって見えた。今は止んでいる雪も、それは一時的なものだろう。
真生はお腹が空いて冷蔵庫をあけると、いつ買ったのかも忘れた水が、ふてくされたようにこちらを見ていた。
隆一と別れてからほとんど自炊はせず、その時に食べる物だけをコンビニから買ってきて食事を済ませていた。しばらく色とりどりの野菜とは顔を合わせていない。カップラーメンでもないのかと台所をあさったが、そう言えば今日の様な夜中が何回があり、カップラーメンはすでに食べ尽くされている事に気がついた。
仕方ない、コンビニに行くか…。
空腹には勝てず、パジャマの上からジャンパーを着ると、真生はくるぶしまで積もった雪を、ゆっくり踏みつけた。
車の上の雪をブラシで払うと、後ろから隆一が出てこないか、心が期待している。
会えるわけないよ。だって、自分は隆一に振られたんだし、そもそも隆一はもうこの世にはいないんだし。
真生は車のエンジンを掛けた。さっきまで空腹でたまらなかったお腹は、寂しさと虚しさでいっぱいになっている。このままベッドに入っても眠れないんだから、さっさとコンビニで何か買ってこよう。真生は車を走らせた。
午前2時のコンビニは、忘年会の帰りなのだろうか、大声で話しているスーツ姿の集団がいた。かごにお酒を入れてながら、これで足りるかどうかをケタケタと話している。
パジャマ姿だとわかる真生が横を通ると、誰とも繋がる事のできない女だという憐れみの目が、背中に刺さった。若い女性が甘えた声で会計をねだっているのが、まるで自分が勝ち誇ったように上から笑らわれているように感じる。
隆一が、お前と一緒にいると疲れる、そう言ったのは、こんなふうに誰かの笑い声を素直を感じられない歪んだ自分の性格のせいなんだろう。
真生は手当たり次第の食べ物をかごに入れると、まるで家族のために買い物にきているかの様に装った。
2つになった袋を両手で抱え、誰にも会わない様に下をむいて玄関にむかうと、ちょうど入ってきた男性の胸に顔がぶつかった。
「すみません。」
真生がそう言って顔を上げると、ファミレスで見た金髪の男性が真生を見ていた。
「大丈夫?」
男性はそう言うと、真生の顔を見て少し微笑んだ。
「よく会うね。」
「そう…、ですね。」
真生は恥ずかしくなり、車へ急いだ。
やっぱり外人じゃなかった。目がすごくキレイな黒だったから。
あんな風に自由に生きている人は、それなりの女性がたくさんいるのだろう。人が羨むような足首のしまった女性を横に連れて、誰かの事を笑っているんだろう。
夜中のコンビニでは、自分のみすぼらしさが目立って見えた。