1章 忘却の雪
追いかけてきたのは、ただの風だった。
「ごめん。」
そう言いながら手を置いてくれるはずだと待っていた肩を、叩くように通り過ぎていったのは、少し冷たい夏の終わりの風。
見えるはずのない影を信じながら、溢れそうになった涙と僅かな思い出は、未来のゴミ箱に捨てしまおう。
「あなた誰?隆一の同級生?」
まだほんのり温かい隆一の足の骨を拾うと、隣りで同じように隆一の骨を拾っていた女性が、笹川真生に話し掛けた。
「私は、あの、」
真生が言葉に困っていると、
「身内じゃないと、胸の近くの骨は拾えないんだね。本当は家族なんかよりも強く繋がっていたかもしれないのに。」
女性はため息混じりにそう言った。
真生とその女性は、押し出されるように遺骨を拾う親族が並ぶ列から弾かれた。
「だから山になんて行くなって言ったのよ。まっ、そういう運命だったんだから、仕方ないか。」
女性は独り言なのか、真生に話し掛けたのかそう言うと、携帯でどこかに連絡をし、駐車場に停めてあった水色の軽自動車で、火葬場を後にした。
お通夜の晩。
まるでロミオとジュリエットの様に、隆一の死を嘆いていたその姿と、遺骨を拾った途端、気持ちが吹っ切れた様なその冷めた態度は、本当に同じ人物なのかと疑ってしまうほどだった。
真生は目が合った隆一の母親に頭を下げた。
「真生さん、隆一の事は早く忘れて。あなたはあなたの幸せを見つけてね。」
隆一の母は声を震わせてそう言った。
羽山隆一と出会ったのは、4年前の11月。春まで残ってしまう様な、そんな大雪が降った朝の事だった。
真生が車を出そうと、駐車場の前の雪かきをしていた時、たまたまコンビニへ行くために真生のアパートの前を隆一は歩いていた。
昨夜降っていた時は、風に舞うほどのサラサラだった雪が、一晩経つと水分を含んで、白糖が固まった様な重い雪になっていた。塊になりかけた雪をほぐし、惰性で道路にむかって投げていると、隆一はたまたまそこを通り掛かった。
「おい!」
真生の投げた雪のせいで、コートが白くなった隆一は、黙々とスコップで雪をかき出している真生の前にやって来た。
「おばさん、道路に雪を投げるなよ!」
そう言って真生に注意をすると、隆一の声に気がついて、真生は帽子を取った。
「おばさんかと思った…。」
長靴を履き、母からもらった防寒具を着てきた真生は、雪がついた服を手で払っている隆一に雪をぶつけた事に気がついた。
「ごめんなさい、すみません。」
真生はそう言うと、
「ごめん、こっちこそ、おばさんなんて言って悪かった。」
隆一は突然真生の持っているスコップを、自分が持った。
あっという間に車が出るくらいまで雪を避けると、
「ありがとうございます。どこまで行きますか?良かったら、乗せて行きますよ。」
真生はそう言って隆一を車に乗せた。
それから連絡先を交換して、なんとなく付き合いが始まった。
出会った頃は、看護師になったばかりの真生と、3つ年上で公務員だった隆一は、なかなか合わない休みでさえも、それは愛しさが募る尊い時間だった。
隆一が30歳を迎えるのをきっかけに、きっと2人はこのまま結婚するのだろうと、隆一からの言葉を期待して待っていた先月、隆一は突然別れを切り出した。
なんでこんな事になったのか自分でも、原因がわからない。隆一が並べた自分を責める理由の一つ一つが、思い当たるようで、いつの事か思い出せない。
そっか。
彼はそんなに私の事が大嫌いで、今日までずっと我慢してたんだ。真生はそう思うと、隆一に謝る気持ちよりも、自分に失望する気持ちの方が大きく膨れた。
3日前。
隆一の母親から、山スキーに出掛け、突然見合われた吹雪のせいで、隆一は帰らぬ人となったと連絡をもらった。
隆一の両親は、自分が隆一の彼女ではなくなっていた事を知らなかったのだろう。両親が悲しみにくれる中、隆一ととっくに別れていると改めて伝える事ができず、本当にこれが隆一なのかと錯覚する遺骨まで、もう彼女ではない自分は当たり前の様に拾っていた。
さっきの女性と隆一の両親は、まだ面識がなかった様だ。彼女と隆一がどんな出会いをしたのかなんて、今さらどうでもいい事だけれど、たぶん彼女は最後に隆一が抱いた女なのだろう。
隆一が私に残してくれたのは、これから縛り付ける悲しみや寂しさから、早く解放してくれる優しさなのかもしれない。失恋して落ち込む時間は、たったの1ヶ月だけだったじゃないか。なぜ別れたのか周りに詮索させる事もなく、彼は死んだんだと言ってしまえば、誰も自分の事を笑う人はいない。今はもう、彼を憎む欠片などひとつもない。
あの日、隆一のアパートを出ていった自分を、追いかけてきたのは、ただの風だった。
告別式からの帰り道。
夜中には出勤しなければならないというのに、このまま家に帰るのは、なんとなく気が引けた。
ファミレスのコミカルな看板に、吸い寄せられるように中に入ると、昼下がりのこの時間は、空席の方が多かった。たいしてお腹は空いてないけれど、コーヒーだけではお店に悪いような気がして、何かを食べて時間を潰そうと、メニューを開いた。ノンアルコールビールとおすすめと書かれたパスタを注文すると、大学生かと思われる2人連れの会話を、真生は近くの席から聞いていた。
この前食べたコンビニのスイーツが美味しかったとか、バイト先の意地悪な先輩の話しとか、2人は付き合ったばかりなのか、ただの友達なのか、つまらない話題でさえも、ダラダラと楽しそうしている。
もう一度、自分があの年頃に戻れたら、少なくとも、喪服を着て1人でファミレスに入る人生なんて選ばなかった。
真生はコップの水を飲み干すと、注文していたパスタを乗せたロボットが自分の前にやって来た。
世の中はこうしてどんどん新しいものが取り入れられていく。そのうち汗を流す労働者なんて、少しずつ社会からいなくなっていくのだろう。この先もずっと進化していくようで、何かのきっかけで退化が始まってしまう様な気持ちになる。
あっという間に原始人の様な生活に戻ってしまう事は、そう遠くない明日なのかもしれない。滑稽な格好をした4人組のバンドが、そんな未来を警告している不思議な歌が、頭の中で何度も繰り返される。
真生はロボットからパスタとノンアルコールビールを取ると、心の中でロボットにお礼を言い、空になったお盆に、ため息を乗せた。
ふと、店の奥に目をやると、金髪の男性がノートを広げて何かを考えている。窓にむけていた男性の視線が真生の視線とぶつかると、男性はこっちを見て少し不思議そうな顔をした。
そう言えば、自分は喪服を着ていたんだ。昼間からビールなんか飲んじゃって、きっとヤバイ奴って思われただろうな。真生は、男性から視線をそらすと、湯気がたっているパスタを頬張った。
店を出ると、秋から冬へと変わった乾いた風は、小さな雪虫を真生の服に運んだ。ふわふわと雪の様に待っていた雪虫は、コートの繊維に引っ掛かり、すくに息絶えた。真生はその亡骸を手で払うと、もうすぐ雪が降る、そう思いながら空を見上げた。
「だから山になんて行くなって言ったのに、」
あの女性が止めても、隆一は行ってしまったんだ。
やっと襲ってきた喪失感は、車のハンドルを握ると、熱い涙となって止まらなくなった。
真生の車の窓を叩く音がする。運転席の窓を見ると、さっきの金髪の男性が立っていた。真生は慌ててドアを開け、
「何か?」
そう言って手で涙を拭いながら男性に聞いた。
「忘れ物。」
男性は白いハンカチを真生に渡した。
「すみません。ありがとうございます。」
真生にそう言って頭を下げると、
「間に合って良かった。」
男性は優しく微笑んだ。どこかで会った事があるようで、その続きが思い出せない。
だいたい昼間のファミレスにいる金髪の男なんて、ホストかプー太郎に決まってる。真生はそう思うと、スーツ姿でサラサラと流れる様な黒髪の隆一が笑顔が浮かんだ。
男性はなかなか真生の車の横を離れてようとはしなかったけれど、自分とは一生縁のないタイプの人間だと思うと、真生は男性に頭を下げ、車に窓を閉めた。エンジンを掛けると、男性は車を離れて、真生の方を少し見ていた。
駐車場の出口で、バッグミラーを見ると、男性は入り口から入ってきた車に乗り込んでいた。
やっぱりホストだったのか。
真生はそう思い、自宅まで車を走らせた。