第2章 冒険の始まり
20XX年XX月XX日
(Aliceのクローズドβテスト開始当日)
郊外の住宅街。
一之瀬は古アパートに住んでいる。
部屋は1階なので日当たりが悪い。
いつも薄暗かったが、寝に帰るだけなので支障はなかった。
テーブルには、食べかけのカップラーメンがいくつか放置されている。そして、コンビニで売っているツマミと、空き缶が数本散乱していた。
休日の彼は、いつも西陽が差し始める頃に、ゆっくりと動き出す。
しかし、この日は違った。
早起きすると、シャワーと食事を済ませ、そわそわしながらAliceのテスト開始を待っている。
とはいえ、サーバーオープンの刻限まではまだ時間がある。
『楽しみすぎて、早起きしすぎちゃったな』
ソファーに深く腰をかける。
少しの間、Aliceマニュアルの小冊子をパラパラとめくって時間を潰すことにした。
abyss eyeは、最新のフルダイブ型情報端末だ。後頸部に装着することで脳内に直接イメージを投影できる。
また、双方向のデバイスで、触覚、味覚といった五感もフィードバックできる。
最新技術搭載で非常に高価なため、今回のテストでは、全てのテスターに無償で貸与されることになっている。
いぶきは、Aliceの概略の項で手を止める。
Aliceでは、参加者に応じAIが即座にシナリオを展開する独自のシステムが採用されており、参加者の構成によってシナリオや世界観が全く変わる。
そのため、運営チームの一之瀬でさえ、システムやシナリオについては殆ど把握していない。
Aliceをプレイするには、事前に身長や性別等の身体的特徴の登録をしなければならない。
初回ログイン時に、登録情報と精神体の型に応じAIがアバターやスキルを作成する仕組みになっていた。
脳の混乱を防ぐため、原則としてアバターは現実に即したものが与えられる。
リセットは出来ない。
精神体の特性も加味されるため、年齢については多少の前後はあるようだった。
『どんなアバターになるかな』
色々と想像しているうちに、サーバーオープンの時間になった。
一之瀬は、abyss eyeを装着すると目を閉じる。強制ログアウトの手順等いくつかの注意事項が脳内に投影される。
それらに同意すると、「あなたのアバターネームは【いぶき】です」というアナウンスが流れ、ログインが開始された。
一瞬、強い目眩を感じ視界が暗転する。
やがて、ふわっと新緑の甘い匂いがした。
ヒューッ。
耳からは、草原を撫でる風の心地の良い音が入ってくる。
……ゆっくりと目を開ける。
すると、見渡す限りの自然が広がる丘だった。
見える範囲に人工物はない。
それは、どこかに置き去りにしてきま原初の風景だった。鮮烈な光景を目の当たりにして、いぶきは、固唾を飲む。
木の葉が舞い上がっている。吹き抜ける風で、目が乾く。彼は目を擦ろうと右手を持ち上げた。
すると、いつもとは違う手が見えた。小さくて白くて、細い手首だ。
下を向くと、控えめな二つの膨らみが見える。その向こうには、見慣れぬ細い足首が見えた。
一之瀬の脳裏に先ほどの「あなたは……」というアナウンスがよぎる。
『あなた、貴方。貴女は……』
そこで一之瀬は、自分が女性だと気づき愕然とした。Aliceでは、キャラクターの作り直しは一切できない。
つまり、彼はずっとこの女性アバターなのだ。
違和感を覚え、右手を見る。
すると、いつの間にか、紙の封筒が握られていた。
封筒の中にはメモが入っていた。
「いぶきちゃんへ。仕事サボってゲームしてる貴女にお仕置きです。 Aliceの偉い人 山﨑」
読み終えると、どこかのスパイ映画のように、メモはボッと燃え尽きた。
その炎は、普通に熱い。
っていうか、燃えるように熱い。
絶対、今のでダメージ受けたと思う。
手紙で死んだらどうするんだよ……。
男なのに運命の悪戯で女性アバターになってしまった。運営だと明かせない以上、性別の釈明はできない。
こんな特別扱いがバレたらどんな騒動が起きるか分からない。
『念のため、一人称も『わたし』で統一しとこかな。……なんか、わたしと言う度に大切な何かを失っていく気がする』
いや、でも、前向きに考えれば、違うプレイスタイルが確立するかもしれない。
とりあえずネカマの貢いでもらう系で、働かずに富豪を目指すか。お風呂とかトイレとか、どうしよう。
なんかちょっとの期待感と罪悪感があるけれど、自分の身体だし。いいよね? ね? ね?
とりあえず、自分の胸を揉んでみる。
『……柔らかい(爽やかスマイルで)』
……いやぁ、癒されるというか、新しい世界が開けた気がするよ。
いぶきがデレデレしていると、どこからともなく音声が聞こえてきた。
「「Alice運営チームです。Aliceの世界へようこそ!!この度は、本βテストにご参加くださり誠にありがとうございます」」
「「皆様には【クラスシンボル】を付与しました。握りしめることで、クラスに関する色々な情報を確認することができます。きっと、あなたの想いが反映されたクラスやスキルが与えられていることでしょう」」
「「ご確認が済みましたら、まずは、お近くのNPCに話しかけてください。彼、彼女らがアナタの冒険のキッカケを与えてくれるでしょう」」
「「皆様のアバターは、この世界でのあなた自身です。お大事になさって冒険をお楽しみください。原則として、運営は、システム不具合以外でシナリオに関与することはありません」」
「「以後のアナウンスは、ワールドAIから行わせていただきます。今後ともAliceを宜しくお願いいたします」」
っていうか、こんな無人の丘で『お近くのNPC』とかいないでしょ……。
もしかして、私だけ僻地で放置プレイ? まずはNPCを探さねば……。
いぶきは当てもなく歩き出した。
首元のネックレスを見てみると、ヘッドが十字架のような形をしている。
『クラスはクレリックかな? キリスト教徒じゃないのに、なんで? 意味わからんよ……』
いぶきは十字架を握りしめる。
すると、脳内にクラスインフォメーションの文字イメージが浮かび上がった。
———————————
クラス:神官
クラス説明:運命の女神「ウルズ」を信仰する神官。運命を切り開く加護は、冒険者が再び立ち上がるための様々な奇跡を与える。
スキル:回復加護 他
———————————
……。
ウルズって運命の女神だよね。それで回復って意味不明。それに【他】ってなんなんだよ。
設定が雑すぎる。しかも僻地に放置って、クソゲーの予感しかしない……。
文句をいいながら半日くらいは歩いただろうか。時々、心の渇きを癒すために胸を揉む。
すると、茂みの中からウサギらしき魔物が現れた。
魔物は犬より大きい。目は血走り、無数の血管が浮き出ている。ぎろりとこっちを見る。
怖っっ。
とりあえず、右腕に持った錫杖を振ってみる。
しかし、女性になった身体は思った以上に非力だった。錫杖の重みで振り回されてしまう。
いぶきは、たたらを踏んだ。
ウサギは嘲笑するような顔で立ち上がると、飛び上がり、いぶきの左肩のあたりに噛み付いた。
うさぎの前歯は簡単に服を貫通し、肩の筋肉に食い込んだ。
痛っ……!!
出血はさほどではないが、見た目以上に痛い。
痛覚がリアルすぎる。
『こんなリアルさ要らない。これで死んだら、どんだけ痛いんだ。失神しちゃうかも』
とりあえず、回復をしなければ。
試しに、ベタに「ヒール!!」と叫んでみる。
…………。
何も起こらない。そりゃあ、そうだよね。
どうやら、ヒールと叫ぶだけでは、《《回復の加護》》は発動しないらしい。
ウサギは、こちらの事情なんてお構いなしに再び飛びかかってきた。
今度は、右太ももに噛み付くと、肉を抉るように勢いよく顔を左右に振り切った。
血飛沫が舞う。
『人の血って、こんなに赤いんだ』
さっきよりも確実に痛い。
痛みで気が遠くなりそうだ。
『ヤバい。このままじゃ死ぬ。最初のモンスターで……』
ウサギは無慈悲だ。
いぶきにトドメを刺そうと、口を大きく開いて飛びかかってきた。
運営側の人間なのに、出オチでいきなり死ぬのはちょっと……。
『死ぬ前に、あと一揉みしておくか……』
諦めかけたその時。
「ちょっと、あなた、大丈夫っ?!!!」
どこからか突然、小刀を構えた少女が現れた。
いぶきとウサギの間に割って入る。
少女は小刀でいなし、ウサギの攻撃を受け流そうとした。しかし、ウサギの力の方が強い。
鈍い金属音と火花があがり、ウサギの牙は少女の右上腕を、上から下に大きく切り裂いた。
服は切り裂かれ、勢いよく血が吹き出す。
いぶきには、その光景がスローモーションのように見えた。血飛沫の一粒一粒までハッキリと見えている。
刹那に思う。
人が死ぬ時は、こんな感じなんだろうか。
……いや、ダメだ!
『このままでは、あの子が死んじゃう。助けないと。このクソゲー、俺はヒーラーだろ。なんとかしろよっ!!』
すると、いぶきの右手に。
……淡く輝く本が現れた。
いぶきは咄嗟に本を開き、そこに記されたフレーズを読み上げた。
「……彼方より来たりて、此方へ過ぎ去りし旅人の運命よ。あなたの望みは、思い残すことのなき最上の果てにて、死の運命を賜ることであろう。五素は五素へ。灰燼は凱陣へ。さぁ、運命の女神よ、旅人に幾許かの猶予を与え給え。永 劫回帰!!」
すると、少女の周りに光の粒子が集まり始める。光の粒子は、そのまま塊になって少女の腕を覆った。
吹き出した彼女の血は、時が遡るように彼女の腕に集まっていく。
イソギンチャクのように揺れながら筋肉繊維が修復されていくのが見える。
いぶきは、ちょっとグロいと思った。
ともかくも傷口は塞がった。
それにしてもこの疲労感。
この加護というスキルは、そう何度も使えそうにない。
腕の修復の終わりを待たず、あかりは小刀を逆手に構える。
足先から滑り込むように、兎の顎下に体を潜らせる。
そして、立ち上がる勢いを利用して、下から弧を描くようにウサギの喉を掻き切った。
うさぎは金切り声をあげながら絶命した。
「良かったぁ」
いぶきは、その場に座り込んで安堵する。
あかりは、そんないぶきに手を差し伸べて声をかけた。
「ありがとう。キミのスキルすごいね!!私は《《あかり》》っていうよ。クラスは《《仏士》》。あなた、ゲームくわしい? よければ一緒に街を目指さない? ちょっと事情があってね。わたし、ゲームとかよく分からないんだよね」
いぶきは、少女を見上げる。
歳の頃は、16.7くらいだろうか。
着物に袴の簡素な出で立ちだった。
ロングの黒髪は、後ろで一つに纏めて結われている。白い肌とのコントラストが美しい。
いぶきは、あかりの手をとる。
そして、立ち上がると返事をした。
「いいよ」
あかりは気まずそうに言った。
「外では自分の胸を揉むのやめた方がいいよ……?」
はっ!!!
……安心したら、無意識に揉んでた。