第15章 運命神ウルズ 2
その廊下は石造りで、ずっとずっと奥まで続いているようだった。
仄かで薄暗く、その先は見えない。
いぶきは、直感的に悟る。
————ここは物質世界ではない。
瞬きをすると廊下の先に、女性が立っていた。
蝋燭台を右手に持ち、ベールを顎の辺りまで深く被っている。顔はよく見えないが、相当な美貌であることは、ベール越しでも窺い知れた。
「あの……」
いぶきは声をかけた。
すると女性は、いぶきの声など聞こえていないかのように身体を翻し、静かに奥へと歩き出す。
いぶきも、それについて行く。
どれ程歩いただろうか。数秒だとも思えるし、数年とも思える。そして、何故かそれを不思議とは感じない。
女性が立ち止まった。
こちらに向くと、蝋燭の火をフッと消す。
一瞬で周囲が暗闇に覆われる。
……目を開けると、いぶきは見覚えのある家の前にいた。
表札には「一之瀬」と書いてある。
家の中からは、懐かしい声が聞こえる。
音を立てないよう静かに扉を開けて中に入る。
……そこは、いぶきの家の見慣れた玄関だった。
母は、台所で忙しく料理を作っている。食卓の椅子には中学生くらいの少年がいる。
いぶきが見紛うはずのない顔。
『あれは……、私か』
母はパタパタと走り回り、仕事の前の忙しい時間に料理をしてくれているのに、彼は手伝おうともしない。
無関心な様子でテレビを観ている。
テレビでは、ぬいぐるみを持った能天気なキャスターが、聞き覚えのあるニュースを読み上げている。
大人になったいぶきは、このニュースを知っていた。
『確かこの日は……』
……そうだ。
この後、母は、信号無視で突っ込んできたトラックに轢かれて亡くなるのだ。
頭の中に、その日の光景が鮮明に蘇る。
ずっと蓋をしていた記憶。
ドクン
自分の鼓動が不規則に脈打つのを感じる。頭がぐらんぐらんして、吐き気を催す。両足が震えて跪いてしまった。
だけれど、力を振り絞って立ち上がり、中学生の自分に向かって叫んだ。
「この後、お前の母さんは死ぬんだ。手伝いくらいしろよ。ずっと後悔するぞ。今は母親孝行できるラストチャンスなんだよ!!」
いぶきの声は、小さな家の中で虚しくこだまする。その声が2人に届くことはなかった。
やがて、母の出勤時間になった。
母は玄関から覗き込むような体勢で叫ぶ。
「お母さん仕事に行くからね! ちゃんと遅刻しないでいくのよ!」
数秒の間、息子の返事を待ち、小さなため息をつく。
そして、少しだけ目を閉じて頷くと、ガチャっと玄関戸を押し開け、足早に出て行った。
カランカランと、ドアにつけた小さなベルの音が響く。
いぶきは追いかけて、追いついて。
後ろから母に抱きついて、制止しようとする。だけれど、母に触れることが出来ない。
この直後にやってくるのは、いぶきが知っている悪夢のような過去だ。
『耐えられない。見たくない』
見たくないよ。
見たくない!!
見たくないんだよ!!!
いぶきは叫ぶ。懇願するような声で。
「ウルズ、お前だろ。分かってるんだよ! 俺をここに閉じ込めるのは。やめてくれ、出してくれ! 頭がおかしくなりそうだ!!」
その瞬間、暗闇に明かりが灯る。
気づくと、いぶきは元の廊下にいた。
目の前には、先ほどの女性が蝋燭台をもって立っている。
いぶきは悲痛な声で呻いた。
「なぁ、あんた『ウルズ』なんだろう。もう十分だ。何でこんな意味のない事をするんだよ。俺を神殿に戻してくれ」
すると、女性は何も答えずに身体を翻し、蝋燭台を手に、また薄暗い廊下を歩き出す。
いぶきは、先ほどの経験を反芻する。
———あれから母さんは死んだんだ。
こんな俺のために一生懸命がんばって。
玄関を出る時、寂しそうな顔をしてた。
事故にあう直前も、きっと寂しい思いをしていたに決まってる。
俺があの時、声をかけて母さんと会話をしていたら、もしかしたら、母は事故に遭わなかったのかもしれない。
しばらくすると、女性はまた立ち止まった。
そして、さっきと同じように、ふうっと蝋燭の火を消す。
また世界が暗転する。
今度は、母さんが作ってくれたお弁当を、恥ずかしいからと持っていかなかった朝だった。
あの日も、母さんは寂しそうな顔をしていた。そして、あれ以来、母は弁当を作らなくなった。
もし、事故当日にも弁当を作っていれば……。
轢かれた日、あの瞬間にあの横断歩道には居なかったのかもしれない。
そして、また蝋燭に火をつけては消す。
また世界は暗転する。
その次も。
その次も、、。
その次も、、、、、。
何百回、何千回繰り返したのかわからない。
繰り返しの数だけ、後悔ばかりの、そして、変えられたかも知れない過去を見せられた。
もう限界だった。
これ以上、過去を見せつけられるのは苦しすぎた。
いぶきは、消え入るような声で懇願する。
「もうやめてください……。わかりましたから」
すると、さっきと同じように、また女性は立ち止まる。そして、こちらを向き、ふうっと蝋燭の火を消す。
ただし、今回だけは。
ベールの隙間から見えた女性の顔は、微笑んでいた気がした。
また世界は暗転する。
そこは、病室だった。
部屋には、春の暖かな日差しが差し込んでいる。
ベッドに赤子を抱いた女性。
あれは若い頃の母だ。
赤子はスヤスヤ寝ていたが、半目を開けると母の方を見て、口を尖らせた。
赤子は、まだ自由に動かない不自由な手で、母の胸のあたりを触ろうとする。
その手首には「一之瀬 ベビー」というタグがついている。
母は、とても幸せそうな顔で、父に話しかける。
「あらあら、さっき飲んだばかりなのに、欲張りな子ね。この子の笑顔を見てると、……それだけで私の人生は満たされていると感じられるの」
父は母の手を握る。
私の知らない、父の優しい顔。
「ああ。そうだな」
母は病室の窓から、桜を見つめている。
「ねぇ。この子の名前は『いぶき』にしましょうよ。生命が息吹くこの季節にふさわしい名前。ずっと元気で健やかに。そして、家族や友達を元気にしてくれる子になって欲しいの」
いぶきは、自分がまだ何も分からぬ赤子の時に、こんな会話があったことを初めて知った。
この瞬間の両親は。
間違いなく幸福そのものだった。
だけれど、ごめん。
あの日の俺は、貴女を元気にできなかった。
いぶきは瞬きをした。
目に涙がたまって、ハッキリと見えない。
右手の甲を子供のように頬に当てて、目を擦る。
すると、母が微笑む傍らに、蝋燭台の女性が立っていた。
……ウルズは、今度はその美しい顔を隠さず、我が子を見るような表情で赤子の私を見ている。
いぶきは思い至る。
最初に見せられた過去でも。
母が轢かれる直前、ウルズは母の傍らに立っていたのではないか。
……今ならわかる。
ウルズは、私にこの光景を見せているように。あの日の母にも、刹那で永遠な幸せを見せてくれたのだろう。
刹那は永遠。
永遠は刹那。
過去は未来。
未来は過去。
何度も見せられた不幸な過去も。
いま、目の当たりにしている幸せな光景も。
母が死の間際に見せられたであろう刹那の光景も。
幸せな過去は、幸せな将来と地続きで、同じ価値をもっている。
あの過去もこの過去も。
その中には大切な人達がいる。
たとえ、その顛末が忘れたいものであっても、どれも欠かすことのできない私の一部だ。
過去を司る運命の女神『ウルズ』の前では、過去と未来は同じように尊い物なのだろう。
いぶきは神の慈悲に感謝し。
そして、過去を愛する運命の女神に、心からの祈りを捧げるのだった。
『願わくば、私のこれからの運命にも、貴女の灯火が共にありますように』




