無名日記
「髪の毛」
それはとても良いものだ。さらさらしていてとても良い匂いがする。だがしかし、「髪の毛」という言葉はいささか変に思える。髪の毛というと髪からさらに何か毛が生えているみたいではないか。それはもはや枝毛だとボクは思うのだ。それに、「髪の毛」とわざわざ長く言う必要性もわからない。確かに「紙」やら「神」やらいろいろ同音異義語はたくさん存在するが、これらと間違えるのが嫌ならば、いっそのこと「頭髪」と言ってしまえばいいのだ。そもそも他の毛のことは「すね毛」だの「胸毛」だの生えている場所を明示して呼んでいるのにどうして「髪の毛」だけこんなどこの馬の毛かも分からない呼び方をしているのだろう。ボクはそんなことを考えながら斜め前に座っている夕霞薨をちらっと盗み見た。ボクの片思い相手の恋人だ。何を言っているのかって?言葉通りの意味だ。まだたったの一度も声をかけることは出来ていないがボクの頭の中ではすでに恋人だから問題はないのだ。授業の板書を写すため上下する頭に合わせてゆらゆらさらさらと揺れる髪の毛…いや、頭髪か。暫くそれを眺めていた。出来ることなら触ってみたいと思うところだが流石にそれはいけないと分かっているので自重する。薨はきっと誰かに髪の毛を触られても特に気にはしないだろう。薨はそういう性格の子なのだ。でも…。
そういえば薨は花が好きらしい。薨の机の上にはいつも花瓶に入った綺麗な菊の花が置いてある。薨はよくその菊の花の手入れをしている。ボクは薨が花の世話をしている様子を見るのが好きだ。あまりにも菊を大事そうに扱うからボクは菊に嫉妬してしまいそうになる。
薨は人気者だ。薨の周りにはいつでもたくさんの人がいる。そこにボクが入り込む余地はない。だからボクはいつも少し離れたところから薨を見守っている。薨の周りはいつも笑顔でいっぱいだ。でもボクは薨の笑顔だけは一度たりとも見たことがない。そんな薨もクールでかっこいいけれどボクは一度でもいいから薨の笑顔を見てみたいと思ってしまう。薨の笑顔はきっと綺麗だから。その笑顔がボクに向けられたものでなくとも。
最近薨は怪我が多い。もともと薨は少しドジなところがあるから心配で放っておけなかった。だからボクは何回も家に帰る薨の後を追いかけようとした。それなのに学校の校門付近でいつも見失って迷ってしまうのだ。いつも道に迷うことなんてないのにおかしいと思わないか?最近疲れているのだろうか?
今日は雨だ。ボクは雨が嫌いだ。雨が降ると気分が沈む。何故かはよく分からない。でも不快だといつも思ってしまう。異常なほどに。ボクがいつもの定位置に座り込んでいるとクラスのみんなが登校してきた。教室が明るくなると気分がマシになってくるようなそんな気がする。今日も薨の机の上の菊の花は綺麗だ。だけど今日は肝心の薨がなかなか登校して来ない。心配で教室をウロウロしていると教室のドアが急に「ダァン!!」と音を立ててびしょ濡れの薨が姿を現した。みんな一瞬あっけにとられたように薨を見たけれどすぐに教室はいつもの賑やかさを取り戻した。薨もいつも通り自分の机について何もなかった風にしている。薨の周りは今日も相変わらず賑やかだ。けれど、誰も薨の格好を気にする素振りは見せなかった。ボクはその様子が心配で教室の中を右往左往していた。
最近ずっと雨が続いている。なんとなくクラスの雰囲気もどんよりしている気がする。その原因が湿気のせいなのか、実際にみんなの気分が少し沈んでいるのかボクには分からないが。あの日以降薨は、たまにずぶ濡れで学校に来るようになった。そのうえ昼放課になると何処かへ行ってしまう。ボクは学校内なら見失うことはないだろうと思い、今日の昼放課は薨の後をつけていくことにした。
ぐるぐるぐるぐる。螺旋階段を上る薨と後をつけて上っていくボク。この学校の屋上に続く螺旋階段は長く、急なため、薨の荒い息遣いだけがあたりに響いていた。薨は屋上の扉の前に立つと躊躇いなく扉を開け、雨の中屋上へと歩を進めた。薨は慣れた手つきで上靴を脱ぎ、フェンスを乗り越えていった。そっしてじっと空を見上げている。そこに何かあるのだろうか。薨と同じ方向を見てみたがそこには何もなくただひたすらに雨を垂れ流している雨雲があった。ボクは薨が何を考えてこんな行動をしているのか全く理解ができなかった。暫くの間ボクはぼーっと薨を眺めていた。あれほど嫌いな雨も気にならなくなるくらいに。
気がつけばボクは薨のすぐ横に立っていた。こんなに薨に近づいたのは初めてだ。近くで見る薨はやはりとても綺麗だった。ボクは思わず手を伸ばしかけた。しかし思い直して手を引っ込めようとした。その時、薨がいきなり振り向いて「誰。」とつぶやいた。振り向いたとき、薨の髪の毛はボクの手に触れてしまっていた。
後日談
縁:「結~。ま~た今日も雨だよ~。ど~にかしてよ~。」
結:「どうにかってどうすれば良いのよ。自分で何とかしなさいよ。巡もなんとか言って頂戴。」
巡:「そうね。それより何でこの机には菊の花が飾られているのかしら。随分と綺麗な花ね。よく手入れされているわ。」
結:「あ~。この花ね。確か先週くらいからあったはずよ?覚えてる?あの朝の。」
縁:「あの心霊現象があったときか!」
巡:「違うわよ。心霊現象ではないわ。ただ強い風が当たっただけよ。廊下の窓が開いていたから。」
縁:「それだと音が鳴る理由にはなってもドアが開く理由にはならないでしょ~?」
結:「縁。何を言っているの。ドアは元々開いていたでしょう?」
縁:「…あれ?」
巡:「結。縁の記憶力は鳩程度しかないのだからあまり酷なこと言ってはダメよ?」
結:「巡…。流石に縁が可哀そうよ?」
縁:「?なんで私可哀そうなの…?」
結:「…っもういいわ!それより次は移動教室よ!早く行きましょ!」
縁:「結~。教科書忘れた…。」
結:「は!?どの教科書を忘れたのよ!?」
縁:「…ぜ…全部…。」
結:「…隣のクラスの子に貸してもらいなさい。」
縁:「今日の分…全部忘れた…。」
結:「ホラー…。」
巡:「ホラーね。縁…頑張って…。」
縁:「え、ちょっ、まってよ!」
同じ世界線の短編をもうあと何話か書こうと思ってます。
感想書いてくれると嬉しいです。