死体がない! 【『恒河沙の兄妹』シリーズ短編】
1
蒲原大吉の葬式で流れた涙の量は決して多いとはいえず、その少ない量の涙とはあくびに付随して生じたものに違いなかった。
空席が多かったわけではない。用意された席は全て喪服で埋まった。では斎場が狭かったのかというとそうでもない。高名な政治家や警視総監経験者、紫綬褒章を授与された物理学者などあらゆる著名人の葬式が催されてきた巨大な斎場で故人は南無阿弥陀仏をおくられた。国内最大手の繊維メーカー株式会社カバラコーポレートの創始者にはふさわしいお見送りの場であったといえよう。
つまるところ故蒲原大吉翁は豪者にして嫌われ者であった。面と向かって罵詈雑言を飛ばされることは日常茶飯事であり、陰口ともなれば尚更。
「天は二物を与えずとはよくいったもんだ。会社経営に関しては天賦の才を誇るじいさんだったけど、人間づきあいとなると未就学児童の駄々っ子とかわらなかったよな」
精進落としの席でのことだ。故大吉翁の長男兼吉のそのまた長男つまりは故大吉翁の孫にあたる金吉は、直接口をつけた瓶ビールをふり回しながら隣に座る吉晴に悪態をついた。
不遜なふるまいを咎めるものはいなかった。この場でそれができるのは父であり株式会社カバラコーポレートの社長を務める兼吉ぐらいであろうが、当の兼吉は別の席で実弟と義弟と実妹と義妹といっしょに亡き実父の悪口で盛り上がっている。この子にしてこの子ありだ、というのが故大吉翁の次男晴吉のそのまた長男つまりは故大吉翁の孫にあたる吉晴の思うところであった。
「よくわからないな。おべっか使いばかりが出世するこの日本で、おじいちゃんみたいな無愛想な人間がどうしてここまで成功できたんだろう」
寿司のサビをわりばしでそぎ落としながら吉晴はいった。
「社会人になれば吉晴もわかるよ」
「社会人になれなかったカネくんにいわれたくないよ」
「おれは社会人になれなかったんじゃない。ならなかったんだ」
故大吉翁は自身にとって孫にあたる金吉をカバラコーポレートの一員として迎えいれることを拒んだ。サークル活動と飲み会と女遊びに七年を費やし都内の私立大学を卒業した金吉を故大吉翁は毛嫌いしていた。金吉は現在両親からの多額の小遣いとたまに思い出したかのように行うアルバイトで食いつないでいる。
「でもねぇ。まさかあのおじいちゃんが殺されるとは思わなかったね」
剣呑な言葉が桃色の声に乗ってテーブルをまたぐ。オレンジジュースで寿司を胃に流し込んでいた吉汀は先端が醤油で黒くなったわりばしの先をふたりに向ける。ちなみに吉汀もまた故大吉翁の長女吉江のそのまた長女つまりは故大吉翁の孫にあたる。
そう。蒲原大吉は殺された。
約一週間前のことである。故大吉翁は使用人の北坂誠を連れて某温泉地を訪れた。旅先の旅館で普段は地蔵のように物静かな北坂は故大吉翁の首を絞めて殺害。青い舌を畳の上にだらりと伸ばす雇い主の姿を見て北坂の酔いは一気に醒めた。フロントを介さず自ら警察に通報。風光明媚な温泉地は赤いサイレンにその雰囲気を台無しにされた。
「天罰ってやつだ」
「不謹慎だよ」
「隠し財産って本当にあるのかな」
文脈に沿わない言葉を吉汀はつぶやく。
故大吉翁は生前よくこんなことを口にしていた。
『ツツジヶ荘には隠し財産が眠っている』
ツツジヶ荘とは山梨県の山奥に位置する故大吉翁の家のことである。株式会社カバラコーポレートの会長職を務めていた故大吉翁は北坂とふたりでここに暮らし、月に数回都内にある本社に出社しては茶菓子と煎茶をまずいまずいと口にしていた。
『隠し財産だなんてそんな冗談はやめてくださいよハハハ』と多くの者が一笑に付した。その実在を誰も信じていなかったわけだ。北坂誠を除いて。
『隠し財産ってのはどこにあるんだ』
アルコールに酔った北坂は故大吉翁の首を締めながら訊ねた。
『答えろ。ツツジヶ荘のどこにあるんだ!』
その質問に答える意志が首を絞められている故大吉翁にあったのかどうかは神のみぞ知る。だが隠し財産の実在性については神でなくとも知り得る。見つければよいのだから。
「ないない。お年玉だってろくにくれなかったじじいだぜ。いくら親子が不仲だからって孫にまできつくあたることないよなぁ」
金吉はワックスで固めた金髪をいじってみせた。
「そうかなぁ」
「お。なんだよ。お前ひょっとして、じじいは不器用だっただけで、つっけんどんとした態度の裏には愛情が隠されていたとでもいうつもりか」
「そうじゃなくて、隠し財産のこと」
手元のグラスを見つめながら吉晴はいった。
「北坂は隠し財産が存在すると信じていたからおじいちゃんにその在り処を問いただした。じゃあ北坂がそう信じるにいたった理由ってなんだろ」
「酔ってたんじゃねえの」
「酔ってたことは関係ないよ。宇宙人の存在を信じるかどうかは酔っていようといまいと変わらないでしょ。北坂は常日頃から隠し財産の存在を信じていた。長いことツツジヶ荘に勤めていた北坂は、隠し財産がたしかに存在すると確信する根拠があったわけだ。だからおじいちゃんを殺したんだよ」
ハッと思い出したように顔をあげる。吉晴の目には金吉の悪趣味な笑みが映っていた。
「よし。よしよし。おれは探すぞ。ツツジヶ荘にいって隠し財産を探す。お前もついてこいよ」
「本気で?」
「本気さ。急いで探さないとな。ツツジヶ荘ってすぐに取り壊すんだろ」
現在のツツジヶ荘に住まう者は誰もいない。実父が殺されたと知りその子どもたちはすぐに『金の無駄だから』とツツジヶ荘のライフラインを止め、取り壊しの手配をたてた。ツツジヶ荘は風光明媚な景色が望めるわけでもなく、肩こり腰痛リウマチによく効く温泉が湧き出ているわけでもない。車で行くのもひと苦労な山奥で人目を避けるようにぽつんと建っている二階建ての一軒家。それがツツジヶ荘である。
「来週には大学も春休みに入るだろう。吉汀もどうだ。いっしょに来るか」
「やだよ。なんでこの真冬に山梨県まで行かないといけないの。わたしはいま運命のひとと再会するために東京を離れられないの」
「なにが運命のひとだ。お前も来年で二十歳だろ。少しは大人になれよ」
「ふんだ。アルバイトとはいえわたしは会社で働いているんだから。プータローが偉そうにしないで」
吉汀はほほを膨らませると、そのほほと同じくらい赤いいくらの軍艦をひと口でのみこんだ。
「あ、ちょうどいいや。新田」
吉晴が喪服姿の男に向かって手招きをする。黒淵のめがねをつけた痩せ型のその男は、ビール瓶を手にテーブルとテーブルの間を飛び交っていた。男の名前は新田隆。カバラコーポレート山梨支社の社員であり、ツツジヶ荘の御用聞きを担当していた。
「新田。来週、ツツジヶ荘に行くけど、鍵ってどこにあるの」
ひと回り近く年上の新田に対して、吉晴は敬意の『け』の字もない態度で訊ねる。
「鍵でしたら、支社に保管しております。え? ツツジヶ荘に行くって、なんのために」
「そしたらその鍵、ぼくの家に送っておいて。住所わかるよね」
「まってください。わたしの一存ではなんとも。上の許可をとらないと」
「黙っといて。別に悪いことをするわけじゃないから」
「しかし、鍵は貴重品ですから。郵便で東京まで送るわけにはいきませんよ」
「じゃあうちまで持ってきてよ。次の休みいつ。日曜日。じゃあ頼むよ」
「そんな無茶な。わたし、デスクワークが山のようにたまっているんです。日曜日は支社に出社するつもりですのでご勘弁を」
「亡き蒲原大吉の孫として休日出勤なんてブラックな勤務は認められないなよ。はは。それじゃよろしくね」
2
一週間後。金吉と吉晴はツツジヶ荘を目指して東京を発った。
「カネくん本当に免許もってるの」
一時停止線を三度無視し、カーブミラーに五度ぶつかりかけ、コンビニの駐車場で十五分かけて車を停めたあとのこと。吉晴は運転席の金吉に訊ねた。
「もっているに決まってるだろ。ほら」
運転席の金吉は自信満々に財布から免許証をだした。
「それ本物? あんな運転で……」
「寝不足だから調子が悪いんだよ」
金吉は砂糖とクリームをたっぷりといれたコーヒーを飲んでいる。
「なんで寝不足なのさ」
「楽しみで眠れなかった。なぁ隠し財産ってどれくらいあるのかな。とりあえず車はもう一台欲しいだろ。そうだ、大型二輪の免許を取りに行こう。そんででっけーバイクも買ってさ。たまんねぇなぁ」
「ほら。そろそろ県境だよ。こっから先は雪道になると思うから気をつけてよね。交通事故で死ぬのはいやだし、カネくんとふたりでなんてなおさらだ」
山梨県に入りしばらく進むと、道路に残った雪が目立つようになってきた。雪の量は坂道をのぼるにつれて増えていく。
轍の色が灰色のコンクリートから半透明の雪に変わったあたりで車が一度スリップをした。十分後にもう一度スリップ。三十分後にもう一度。結局ツツジヶ荘に行くまでに吉晴は走馬灯を三度見ることになった。
「どこに停めりゃいいんだ」
ツツジヶ荘の敷地内に入ると、金吉はフロントガラスを手のひらでふきながらつぶやいた。
周りをうす暗い林で囲ったツツジヶ荘は、切り妻屋根を頭にのせた一軒家であった。ツツジヶ荘の前の開けた場所で車は停まった。
吉晴がポケットから鍵を取りだし、玄関ドアにつき差す。カチリと音がしてドアを開く。玄関の靴箱の上に、額縁に入った故大吉翁の肖像画が飾られていた。
「お、じじいがいる。あれ。これなんだ」
玄関には白い筒状のものがいくつも置いてあった。材質はプラスチック。サイズは小さなゴミ箱ほど。
「新田がいっていたじゃないか。ツツジヶ荘は既に電気が止められているから、緊急時用のランタンを明かりにしてくれって」
ランタンをひとつ手に取り、吉晴はスイッチを押した。筒の中でぼんやりと白い火の玉のような光が浮かぶ。
「そういえばそんなこといっていたような。しかしなんだ。中はずいぶん暗いなぁ」
金吉の声はかすかに震えていた。
「冷気を入れないよう窓もできるだけ少なくしているんだって。ほら、さっさとランタンを置きにいこう」
ふたりは大量のランタンを点在するように設置した。居間やキッチンのみならず、個室にも全て設置する。いちいち部屋に入った時にスイッチを押すのも面倒なので点灯したままにしておく。どの部屋も家具に足をぶつけない程度には明るくなったが、即席感は否めない。部屋の隅や家具の裏側、いたるところに黒い陰がのこっていた。
大きなテーブルのある居間にもどり、小型のバーナーとコッヘルで沸かしたお湯で遅い昼食のカップラーメンをつくる。ツツジヶ荘では電気と同じくガスも既に止まっている。ふたりが持ちこんだ食料はカップラーメンだけ。隠し財産探しは今日と明日の二日間で終わらせるつもりだった。
「思ったよりも寒くないね」
石油ストーブの火を見つめながら吉晴がいう。だが金吉の返事は『そ、そうだな』とこわばっていた。
吉晴が見ると、ランタンの光の中で金吉は顔色を青くしてあたりをキョロキョロと見まわしていた。大好物のカップラーメンしょうゆ味の減りも遅い。家鳴りがするたびにびくりと身体を飛び上がらせている。
「カネくん。この後のことなんだけど」
吉晴が声を張りあげると、金吉は『お、おう』とから返事をして箸を進める。
「どうやって探すかな。検討ついているの」
「いや別に」
金吉は自身が座っている革張りのソファをはたいてみせる。
「タンスとか机の引き出しとか、しらみつぶしに探してみるしかないだろ」
「スマートさの欠片もない」
「なんだよ。そういう吉晴は何かアイディアがあるのか」
「そりゃないけど。まったく。おじいちゃんにおべっかを使っておくべきだったね」
故大吉翁は隠し財産についてヒントを乞われると『わしを尊敬しろ』と怒鳴って返すばかりだった。意固地にならず尊敬するふりを見せればヒントをもらえたのにとふたりの孫は後悔する。
カップラーメンの容器をテーブルに置いたまま、ふたりは隠し財産探しにくりだした。
三時間後。ふたりは階段に腰をおろしていた。
「なにもないね」
冷えた空気に吉晴の声が染みわたる。金吉はクラゲの鳴き声のような模糊とした反応を示した。
決して広いとはいえないツツジヶ荘の中では隠し場所の数など高がしれている。床板を引きはがし壁を貫き天井をぶち抜くまではしなかったものの、ふたりは十分といえるほど探してみせた。だが隠し財産と呼び得るものなどひとつとして見つからなかった。
テレビ台の中から見つけた賞味期限がいつかもわからぬ板チョコをほおばりながら、金吉は肩を落とす。精進落としの場で見せた覇気はどこへいったのか。諦めたのか。ひょっとしたらもう帰ることになるかもしれない。夜道を金吉に運転させるのは不安だなと吉晴が考えていた時、玄関のドアが開く音がした。
金吉が『うわぁ』と驚きの声をあげる。中途半端に腰をあげた状態で足を滑らせ、残り五段ほどの階段に尻を叩きつけながら落ちていった。
「え、ちょっと。なになに。なにしてんの」
玄関から女性の声が聞こえた。夕刻の淡い光の中に、ボアコートに身を包んだ吉汀の姿があった。
「驚かすなよ!」
尻をさすりながら金吉が声をあげる。
「驚かせるようなことしてないよ。うわ、本当に暗いね。新田がいっていた通りだ。ランタン、これでついているのね」
吉汀は玄関から伸びる廊下の奥に首を伸ばしてのぞきこんだ。階段から現れた吉晴を見て、『よ』と軽く手をあげる。
「よ。いやぼくも驚いた。吉汀が来るとは聞いていなかったから」
「わたしだって来るつもりはなかったよ。でもほら、カネくんってば楓おばさまに何もいわずにここまで来たでしょう。おばさまったら、新田からこの話を聞いたみたいでわたしに泣きついてきたのよ」
吉汀は両手にもったビニール袋を掲げてみせる。
「ごはんをつくってあげてくれって」
「かんべんしてくれよ……」
両手で頭を抱えながら金吉は立ち上がった。
「電気が通ってなけりゃガスだって通ってないんだぜ。料理なんてできない。あのバカ親もお前も知らなかったのかよ」
「知ってる。だからカセットコンロも持ってきた。お肉も車のクーラーボックスに入ってるからさ、はやく取ってきてよ」
ふたりは玄関からドアを出て『『げ』』と声を漏らした。隠し財産探しに興じている間に、雪の勢いは増し、すでにスニーカーが隠れてしまう程度に積もっていた。
吉汀が運転してきた車は左ハンドルの外車だった。大学の入学祝に父親に買ってもらったもので、吉汀はその見た目とは裏腹にドライブを趣味としており車について精通していた。金吉は自分の車をもっているが整備のことなどは馴染みの整備工場に丸投げしている。吉晴はたまに家の車を運転する程度の準ペーパードライバーだ。
後部座席に納まっているクーラーボックスを開けてみると、中にはブランドものの国産牛が大量に入っていた。紙袋に入った土鍋は淡い色合いの結晶模様が描かれた、見るからに高級そうな一品だった。
「おかしい」
吉晴がつぶやく。
「何がだよ」
金髪に雪が積もりだしている金吉は、クーラーボックスを降ろしながらいった。
「おばさんに頼まれたからって、わざわざ山梨の山奥まで来るかな。あの吉汀が。近所の駅まで迎えに行けってわけじゃないんだ。しかも山道。しかも雪道。しかも目的地には電気もガスも通っていないときたもんだ。到着するのは夕方となれば、なかば必然的に一泊することになる。あの吉汀がだよ。こんな面倒なこと引き受けるとは思えない」
「ん? 考えてみたらこの食材もおかしくないか。なんでわざわざ高級な食材を用意しているんだ。食べさせる相手はおれとお前のふたりだけだろ。おかしいぞ。あの吉汀が? 正月にお雑煮をつくるよういわれて、顆粒出汁をお湯で溶かして冷凍ご飯をぶちこんだ吉汀が? 温まったら餅になるってどういうことだよ」
「何か裏があるね。いや、こんなにも見え見えの裏側なんて」
ツツジヶ荘に戻りキッチンに入ると、うす暗い室内で吉汀は鼻歌を歌いながら野菜を切っていた。
「お前も隠し財産を探しにきたのか」
「呆れちゃう。本当にそんなものがあると思ってるの」
濡れた手をタオルで拭きながら吉汀は鼻を鳴らす。
「正直にいえよ。いや、こっちから正直にいおう。見つからないんだ。家の中をずいぶんと探したんだけど、隠し財産は見つかってない。吉汀も手伝ってくれよ。分け前はやるからさ」
「結 構 で す」
包丁で大根を輪切りにしながら吉汀は凛とした態度で応えた。
「隠し財産なんて興味なし。わたしが興味あるのは……あ。なしなし。なんでもなーい」
「まぁ正直、晩御飯を作りに来てくれたのはありがたいよ。カップラーメンじゃ味気ないからね。だけど、えっと。手伝おうか?」
正月に出されたお雑煮もどきのことを思い出した吉晴がセーターの袖をまくりながらキッチンに近づく。
「結 構 で す」
包丁の先を向けながら吉汀は笑った。
「ふたりとも長旅で疲れたでしょう。お宝さがしは明日になってからにすれば。暗くなってきたし、朝には雪が止むそうだから、お日さまの光が入ってきて家の中も少しは明るくなるかも」
「明るくって。小さい窓ばかりで大したことないだろ」
明り取りの小窓を指さして金吉がほほを膨らませる。
「いくらかはマシでしょ。それにお宝はもしかしたら内側じゃなくて外側にあるかも。外を探すには明日の朝にならないと、ね」
金吉と吉晴は毒気を抜かれた気分になり、吉汀が持ってきた缶ビールを空けて居間のソファーに落ちついた。吉汀のいう通り身体は疲労を訴えていた。
「このツツジヶ荘の前の持ち主の話って聞いた?」
ビーフジャーキーを手にしながら吉晴がいう。
「じじいが建てたんじゃなかったのか」
「いや違う。中古物件だったんだってさ。前の持ち主は有名な資産家だったけど事業に失敗して自殺したんだって」
「おい、それってまさか。ここで? この別荘で自殺したのか」
「そう。二階にあるおじいちゃんの部屋で頸動脈を包丁で切って死んだんだって」
金吉は顔をしかめて両腕をさすり始めた。
「そんな家に普通住もうと思う? けちなおじいちゃんらしいよ。事故物件ともなればずいぶんとお手頃価格だったんだろうね」
「そそそそ。そうかそうか。なは。なははは。事故物件ね。へぇふんそう。まぁおれには関係ないことだけどね。おい吉晴。お代わりだ。ビールをもってきてくれ。あ、いやいい。いっしょに取りにいこ。うん」
ふたりがキッチンに行くと、ちょうど晩御飯の用意ができたところだった。土鍋の中で琥珀色のスープに浸かった色とりどりの野菜と牛肉が見目麗しく並んでいる。脳内のバックスクリーンにお雑煮もどきの姿を映しながら男子ふたりは感嘆の息をこぼした。
「吉汀がこんなに料理が上手だとは思わなかったよ。いや、練習したのか」
「待て待て。問題は味だ。見た目は最高、味は最低ってのはよくある話だ。どれ、ひとくち」
金吉は出汁をスプーンですくって口に運んだ。両目を見開き。うなり声をあげる。
「こりゃ……すごい。美味いよ」
「へっへーん。すごいでしょ。わたしひとりでこれだけの料理が作れるんだからね。いい? 誰の助けも借りないで、わたしひとりでつくったの。復唱。さん、はい」
「 「吉汀さんは誰の助けも借りないで、お料理を作られました」」
三人は故大吉翁の悪口を肴に鍋をつつきだした。
「正月の食事会のこと覚えてるか」
「三年前のやつでしょ。カネくんとこのおじさんが 「『ひいらぎ』で予約するけど父さん来るよな」って訊いたら、おじいちゃん行かないって答えたんだよね」
『ひいらぎ』とは都内にある蒲原家御用達の高級料亭である。
「それなのに当日になったらおじいちゃんが現れて、自分をさしおいて食事会が始まったことに大激怒したんだよね。お年玉がもらえなかったから覚えてるよ」
「本当に無茶苦茶なじじいだったよな」
そんな思い出話をしているうちに時刻は午後十時をまわり、三人は眠ることにした。
「おしょくとも六時にゃあ起きてぇ、隠し財産探しりゃあ」
酔っぱらった金吉は空になった缶ビールを持ったままいった。
「カネくん大丈夫なの。ゲロ吐いてのどにつまらせたりしないでよ。救急車を呼ぶなんてごめんだからね」
ペットボトルの水をわたしながら吉汀が心配そうに眼を細める。赤い顔の金吉は壊れたロボットのように首を上下にふってみせた。
二階にある三つの個室にそれぞれ布団を持ち寄って眠りにつく。最初に金吉が個室の中に姿を消した。トイレの横にある個室に入ろうとした吉晴の背中に、吉汀が声をかける。
「吉晴は酔ってないの」
「酔ってるよ」
「でも平気そう」
不服そうな表情で吉汀はにらみつける。
「カネくんほどのんでないだけだよ。それよりおまえ手伝う気は本当にないの。ぼくたちが見つけたら一飯の恩を主張して分け前を要求するつもり?」
「疑りぶかいなぁ。だから吉晴はもてないんだよ。わたしは隠し財産があるなんて思わないし、お金には困っていません。お父さんはわたしに甘いから何でも買ってくれるもん」
「うらやましいこと。じゃ、おやすみ」
ふたりはそれぞれ個室の中に消えた。廊下にはランタンから放たれる白い光が淡く闇を照らしていた。
数時間後。その白い光のなかに人影がひとつ姿を落とした。
3
「きゃぁぁぁ!」
ツツジヶ荘にかん高い絶叫が響きわたった。
ドアが開き、吉晴が出てきた。数秒遅れて、別の個室から金吉も青い顔をのぞかせる。
「カネくん。いまの聞いた」
「な、なんだよ。夢かと思ったけど。おい、吉汀。吉汀!」
金吉が吉汀の名前を呼ぶ。吉晴が吉汀の個室のドアを開けて中をのぞくが誰もいない。
「こ、こっちだよぉ」
階下から弱々しい声が聞こえてきた。ふたりが一階に降りると、キッチンの中で吉汀が両脚を抱えて座りこみ全身を震わせていた。
「どうした。何があった。まさか……おば、おば、おばけでも出たのか」
金吉がうわずった声で問いただす。吉汀は首をふり、ゆっくりと立ちあがった。
「わたし、殺しちゃった!」
唐突な言葉に金吉と吉晴は『はぁ?』と呆けた声を出した。
「ひとを刺しちゃったの。のどが渇いて、水をのもうと思ってキッチンに降りてきたら、黒ずくめの男がいたの。最初はカネくんか吉晴かと思ったけど、目出し帽を被っていて、わたしに気づいたら両手を突き出して襲いかかってきたの。それで――」
キッチンの包丁を取りだし、男の腹を突き刺したという。
「その男はどこに」
吉晴は顔を歪ませ、キッチンの中を見回した。
「わからない。わたしを突き飛ばして、廊下に出て右に曲がった」
廊下の右手には裏口の小さなドアがある。犯人はそこから逃げたのだろうか。
「まいったな。やっかいなことになった。カネくん。家の中を見て回ろう。何か武器になるものを」
「お、おう。まかせろ」
金吉は流しの棚を開けて包丁を取りだした。だがその手はがたがたと震えており、見ているだけで危なっかしい。
「ほら、こっちにして」
吉晴は麺棒を金吉にわたした。
「警察を呼んで!」
部屋の隅のモップを手にした吉晴の背中に吉汀が金切り声をあげた。
「強盗が来たんだよ。わたしはその強盗を刺しちゃった。救急車も呼ばないと。強盗を追いかける前に、通報するのが先でしょう」
「い、いや。おれたちの安全を確保するのが先だ。強盗のケガがかすり傷なら……つまりおれたちを襲う元気がまだあるなら、先にそいつを拘束しないと安心できない」
「うん。よく見てよ、キッチンに血の痕はない。ということは、吉汀は相手を刺したと思ったけど、本当は刺さっていなかった。たぶん外れたんだよ」
「ちがうの。男はぶ厚いコートを着ていた。暗かったけど見えたの。重ね着していたから血が服に吸われたんだと思う」
「とにかく落ち着いて。三人でいっしょに家の中を見て回ろう」
吉晴を先頭に三人はキッチンを出て、男が向かったという廊下の右の方へ進む。
キッチンを出てすぐの左手に洗面所と浴室のドアがある。ドアはかすかに開き、中からランタンの淡い光が漏れている。ハンドジェスチャーで開ける合図をしてから、吉晴がゆっくりとドアを開く――が、中には誰もいなかった。洗面所のとなりにあるトイレの中にも誰もいない。
「ねぇ……警察を呼ぼうよう」
小声を漏らしながら吉汀がふたりの肩を叩く。吉晴と金吉はそれを無視して、足音を立てないよう気をつけて先に進んだ。
「血痕はないな。やっぱり傷は浅いのか」
「それとも刺さっていないか、だね」
足元を確認してみるが血の痕はない。吉晴は黒ずくめの男が突然飛びかかってくることを覚悟して手にしたモップを強く握りしめた。
洗面所の先にはクロークがあるが、そこにも誰もいなかった。クロークの反対側にある個室にも誰もいない。キッチンより奥にある部屋はこのふたつだけだ。
突き当りにある裏口のドアを見て、金吉が『ア』と声をあげた。ドアノブの下についている鍵がかかっているのだ。
「強盗はまだこの中にいるってことだな」
金吉は麺棒を自分の手のひらに何度も振り下ろしている。ぺちぺちと手のひらに触れるたびに音がするので、吉晴はそれを止めさせた。
「強盗はキッチンを出て右に曲がったけど、ドアから出ずに回れ右をして今度はキッチンの左の方に向かったんだ。吉汀。強盗が戻ってきてキッチンの前を通った姿は見なかった?」
「見てない。だけどわたし、顔を伏せていたから。ねぇ、やっぱり警察を。この家の中に強盗がいるんでしょう。それにあの強盗、わたしが刺した包丁をまだ持っているはず」
「なんで強盗はドアから出なかったんだ。吉汀に刺されて逃げ出したのに、どうして」
「刺されて気が動転して逃げ出した。だけど、ドアの前に来て傷が浅いことに気づき仕返ししようともどってきたんじゃないかな。でもどうしてキッチンの吉汀を素通りしたんだ。あぁ、そうか」
吉晴は金吉を指さした。金吉もまた吉晴の意図に気づき、相手の顔を指さす。
「おれたちの声がしたからか」
「そうだ。上から男たちの声がしたので、逃げ出した。ただ、腹を刺された仕返しはしたいという気持ちは残っていたので、奥のドアから逃げ出すのではなく、反対側にある部屋に隠れて様子をうかがっているというわけだ。現在進行形で」
キッチンからみて左手の方には、談話室と居間がある。廊下の突き当りには玄関があり、その玄関の手前には二階へと続く階段が伸びている。
「強盗は談話室か居間にいる。よし、注意して行こう」
三人はゆっくりと足を進めて手前にある居間をのぞいた。が、中には誰もいなかった。
続いて談話室のドアを開く。暗がりの中に紛れ込み、一度は自身の腹に刺さった包丁を手に襲いかかってくる強盗の姿が吉晴の脳裏に浮かんだ。が、拍子抜けなことに談話室の中にもまた誰もいなかった。
「……どういうこと」
「玄関から外に出たのかな。ん?」
玄関のドアには鍵がかかっていた。ということは、強盗は金吉と吉晴がキッチンに向かったあとに二階に行ったのか。三人は階段をのぼり、部屋を順番に見て回った。だがひとの姿はない。最後に残ったのは、一番奥にある故大吉翁の部屋だった。
「まさかこの部屋とはね。まいったな」
吉晴はモップを構えてつばを飲んだ。
「絶対にここにいる。カネくん。いくよ」
「おう。吉汀下がってろ」
「ねぇ、警察に……」
吉汀の言葉を無視して、金吉と吉晴は勢いよくドアを開けて室内に飛びこんだ。そこには――
「う、うわ。うわぁぁぁぁぁ!」
金吉は床に尻もちをつき、のどを絶叫で震わせた。
吉晴はモップを掴んだまま壁に背中を貼りつけ彫刻のように固まっている。
「な、なになに。どうし……きゃぁ!」
ドア枠を掴み室内をのぞきこんだ吉汀も金吉に負けない悲鳴をあげた。あげざるを得なかった。故大吉翁の部屋は家具が少ない質素なものだった。ものが少ないので必然的にそれが目立つ。つまりは、フローリングの床の上に歪に広がった赤褐色の液体が。
「血だ。血、血だぁ!」
五本の指を震わせながら、金吉は壁際で固まる吉晴に顔を向けた。
「まさか。でも、たしかに」
吉晴は注意して床に顔を近づける。
「……鉄くさい。強盗の血? いったいどこに」
室内に三人以外の姿はみえない。机の下にも、クローゼットの中にも、どこにもない。
「この血の量。さすがにまずくないか」
淡い照明の中で金吉が表情を曇らせる。
「いくらなんでも多すぎる。前にテレビで見たんだよ。人間は一リットル以上出血すると意識を失って、一・五リットルを超えるともう手遅れになるんだって」
「手遅れてって……」
「死ぬってこと」
吉汀が悲鳴をあげながら崩れ落ちた。
「ち、ちがう。ちがうの。わたしそんな、そんなつもりじゃ」
自分のしたことに怯える吉汀は、全身をふるわせながらすがるように金吉に抱きついた。
「落ちつけ。誰もお前を責めたりしない。悪いのは勝手に入ってきた強盗だ」
「だけど死体はどこに行ったんだ」
吉晴は両手を広げ、室内を見回してみせる。
「キッチンで腹を刺された強盗は、二階の奥にあるこの部屋まで来て腹に刺さった包丁を抜いた。もしくは何らかのアクシデントで包丁が抜けてしまったんだろう。これだけの出血量だ。絶命は免れない。それで、その死体はどこに行った」
「おれたちは全部の部屋を確認してまわった。だけど死体なんてどこにもなかったぞ」
すがりつく吉汀を引きはがそうと必死になりながら金吉はいった。
「あ、そうか。外だ。出血した強盗はかろうじて生きていて、傷口を抑えながら家の外に逃げ出したんだ。たぶんいまごろ、外で息絶えているんじゃないか」
三人は外を確認しようと玄関に向かった。その途中で吉晴が『あ』と声をあげる。
「玄関は鍵がかかっていた。もし犯人が外に出たのなら、そのあとに誰かが内側から鍵をしめたことになる。この中に、強盗騒ぎのあとに玄関の鍵をしめたひといる?」
「し、してない」
「おれもだ。そういえば裏のドアも鍵がかかっていたな。ということは、やっぱり強盗はまだ家の中にいるのか?」
「合鍵があれば、外側から鍵をかけられる。きっとそうだ。強盗は合鍵をどこかで作ったか盗んだかして、それでツツジヶ荘に押し入ってきたんだ。ん? だけどなんでだ。なんでわざわざ鍵をかけたんだろう」
「早く外を見にいこうぜ」
うす暗い照明のなか、鍵をあけ玄関の引き戸を開く。真冬の夜風が三人の身体に容赦なく突き刺さる。思わず細めた両目をゆっくりと開くと、吉晴は『これは……』とつぶやいた。
玄関の引き戸の前にはひざの高さまで雪が積もっていた。足の踏み場もないまま白銀の絨毯が広がっている。
雪の上には何もなかった。息絶える強盗犯の姿もない。では強盗はツツジヶ荘から遥か遠くに逃げ延びたのか。否。雪の上には何もなかった。足跡もなければひとが通った跡もない。自然がつくる滑らかな雪肌が広がるばかりだ。
三人は裏口のドアの外も確認してみた。こちらも玄関と同じく、白い雪が積もるばかりでひとが通った痕跡はない。
「強盗がツツジヶ荘を出たのはほんの数分前だ。こんな短時間のうちに足跡が雪で埋もれるわけがない」
「どうなんってんだ。吉晴。家の中に死体はなかった。家の外には出られやしない。死体はいったいどこにいったんだ」
足元のランタンを拾い上げ、ぶんぶんとふり回しながら金吉は吉晴に詰め寄る。
「ぼくだってわからないよ」
吉晴は自分の顔を軽くはたいた。
「死体がきえた。まさか、まさかこんなことになるなんて」
4
三人はもう一度ツツジヶ荘の中を調べてまわった。今度は先よりもたっぷりと時間をかけてまわる。だが新しいものは何も見つからなかった。
時刻は午前四時になろうかというところ。吉汀がキッチンで悲鳴をあげてから一時間が経とうとしている。
三人は無言のまま談話室のソファーに沈み込んだ。
「ねぇ、警察に……通報する?」
吉汀が溶けかけた氷のような声で訊ねると、金吉が力強く『駄目だ』と答えた。
「トラブルはごめんだ。もしこのことがおやじたちにバレたらどうなると思う。『人気のない山奥になんて行くからこうなるんだ』なんていって、金輪際ツツジヶ荘を訪れることを禁止するだろう。なんでもかんでも禁止すれば丸くおさまると思っている世代だからな」
「ぼくも賛成だ」
吉晴が声をあげた。
「おじいちゃんの隠し財産はまだ見つかっていない。ぼくの両親もカネくんとこのおじさんたちといっしょで、二度とツツジヶ荘に行くなっていうだろうね」
「そっか。そうだよね。うん。わかった。通報はなし。残念だけど」
「残念?」
「あ、いまのなし。えっと、どうしよう。わたし眠くなってきちゃった。悪いけど、部屋にもどって寝るね。ばいばい」
吉汀はパタパタとスリッパを鳴らしながら談話室を出た。金吉と吉晴は『『さて』』と声をユニゾンさせる。
「まいった。本当にまいった。こんなことになるなんて。くそ、吉汀のやつ。刺すこたないだろ刺すこた」
「仕方ないんじゃない。強盗だよ。相手が襲ってきたなら正当防衛でしょ」
「だけどあれだけの量の血、過剰防衛になるんじゃないか」
「そうかもね。ねぇカネくん。思ったんだけど、強盗ってひとりとは限らないよね」
吉晴はひざの上の両手を握りしめた。
「ん? 吉汀が刺したのはひとりだろ。もしふたりも刺していたらさすがに気づくんじゃねえか」
「キッチンに入ってきたのはひとりだけ。もしかしたら他に仲間がいて、強盗のひとりがキッチンで吉汀と鉢合わせた時、その仲間は廊下とか別の部屋にいたのかもしれない」
「そりゃ可能性としてはあるだろうな。だけど、それがどうした」
「つまりさ、血が残っている以上、刺された犯人が二階に移動したことは絶対的な事実なわけ。じゃあ問題はその死体……たぶん死んでいるから死体っていうけど、その死体がどうやって消えたのかが問題なわけでしょ。もし仲間がいたらこれって、いくらか解決しやすくなるんじゃないかな」
「仲間が死体を運んだってことか」
両手を叩きながら金吉はうなずいた。テーブルに置かれた缶ビールを手に取ると、ごくりとのどを潤す。
「だけどなぁ。二階の奥の部屋から死体を運ぶにしたって、どこからどうやって出たんだ」
「窓は小さくて外には出られない」
吉晴も缶ビールを手にするが、口はつけずにぶらぶらと揺するばかりだ。
「となると、階段を降りて玄関から出ていったとしか考えられないよね。でも玄関の外の雪にはひとが通った跡はなかった」
「ヘリコプターだ」
缶ビールを掲げながら金吉は声をあげた。
「ヘリコプターから縄はしごが玄関前に降りてきて、それに掴まって強盗は逃げたんだ。これなら雪の上に跡が残っていないことも説明できる」
「馬鹿だなカネくんは」
吉晴は膝をはたいた。
「もしヘリコプターが飛んできたのなら、その音でぼくらも気づくでしょう。ヘリコプターの音なんてした? していない。雪の上に跡が残らないなら、なんでもいいってわけじゃないんだよ」
「うーん。いい案だと思ったんだが。あ、そうだ。じゃああれだ。ドローン。ドローンならそんなに音がしないだろう」
「ドローンで人間の身体を持ち上げるのは無理でしょ」
「じゃ、たくさんのドローン。これならどうだ」
「雪の上に跡が残っていないことを説明できればなんでもいいってわけじゃないんだよ。ドローンでもヘリコプターでもいいけどさ、なんでわざわざそんなものを持ち出す必要があるの。つまり、犯人はどうして普通に雪の上を通って逃げなかったのさ」
「追跡されるのが嫌だったから?」
「だけどヘリコプターもドローンも事前に準備せざるを得ないわけでしょう。必要になったから『はい今すぐ』って用意できるものじゃない」
「うーん。なんだろう。アルコールのせいかな。よくわからなくなってきた」
ビール缶を顔の前に近づけて、金吉はへらへらと笑った。吉晴はため息をついてから片手で顔をおおった。
「頼むからもう少し考えてくれよ」
だがその後も議論はろくな発展を見せず、ふたりは揃って個室へともどり眠り直すことにした。
そして翌朝――
5
「これはいったい。どういうことなんだ」
白い朝陽が小窓から差しこむ室内で、吉晴は両腕を組んで足元を凝視していた。
ツツジヶ荘は二階最奥にある故大吉翁の部屋。ドアが開いていることに気づいたのだろう。金吉と吉汀のふたりも部屋に入ってきた。
「おいおい。嘘だろう」
「えっと。えっと。これって、どうして」
吉汀は言葉を詰まらせながら、一度ごくりとつばをのみもう一度口を開いた。
「どうして床の血が消えているの」
床の上に赤い血はなかった。うす暗い室内で黒い陰に沈むフローリングにランタンの光を当てる。床はくすんだ木製の表情を見せるばかりだ。
「昨日じゃない。正確には今日だよ。今日の数時間前だね」
吉晴が細かく訂正する。しかし、そんな小言も眼前の事実が与える衝撃の前には大した意味をもたなかった。
「三人そろって幻覚を見ていたのかな」
「三人そろって夢を見ていたのかも」
「幻覚も夢もそろって見るもんじゃないよ」
吉晴は重い息を吐くと、壁にもたれかかって首をふった。
「なんだか疲れちゃったよ。もう昨日のことは全部なかったことにしないか。強盗なんて来なかった。いや、それこそ吉汀は寝ぼけていただけだった。もう全部忘れようよ」
「うん。わたしもそれでいいと思う」
吉汀は組んだ両手を背中に回しながらうなずいた。
「正直自分でもわからなくなってきた。暗かったし、強盗の顔は見えなかったし。疲れちゃったよーもぅ。帰りたーい」
「帰りたきゃ帰れよ。だけどおれは残る。隠し財産がまだ見つかってないからな」
金髪を手ぐしで整えながら金吉はいう。
「まだ諦めてないの。呆れちゃう」
「うるさいな。宝探しは男のロマンさ。朝メシを済ませたら調査再開だ。な、吉晴」
「諦めの悪さだけは一流だね」
壁から身体を離し、吉晴は自分のほほをはたいた。
居間で朝食を済ませている最中に、吉汀は朝食後に帰宅するとふたりに伝えた。
「晩ご飯と朝ご飯、二食も作ってあげたんだからもう十分でしょう。昨日はお風呂にも入ってないし。ねぇ。わたし、汗臭い?」
自分の身体に鼻をすり寄せながら吉汀は訊ねる。吉晴が沈黙を返すと、吉汀は『臭いのね!』と目をぎらつかせた。
「おれたちだって長居するつもりはないよ。今日中に隠し財産を見つけて東京に帰るつもりさ。な、吉晴」
「そうだね」
本人の言葉通り、朝食後吉汀は帰り支度をすませて、いくらか雪に埋もれた外国産車に乗り込んだ。雪は既に止んでいた。だが地面にはまだ積雪が残っている。
「気をつけて運転しろよ」
サイドドア越しに金吉は運転席に座る吉汀に声をかけた。
パワーウィンドウを降ろし、吉汀は『大丈夫よ』と言葉を返す。
「パパにお願いしていっちばん高い冬用タイヤにしてもらったの。来る途中だって平気だったんだから。それじゃあね」
吉汀の外国産車は積雪をものともせず走り出した。ツツジヶ荘の敷地を越え、雪道の中にその姿は消えていく。
「あいつ馬鹿だなぁ」
金吉はけらけらと笑いだした。
「隠し財産のこと? 普通のひとはそんなものないって信じないと思うけど」
「そっちじゃなくて、タイヤのことだよ」
「タイヤ?」
「タイヤなんてどれもいっしょだろ。それなのにあいつ、イケメン整備士にでも騙されたんだろうな。冬用なんてつかまされて」
「え。ちょ、ちょっと待って。カネくんの車は冬用タイヤじゃないの。雪道なのに?」
「当然。そんな無駄遣いするわけないだろ。こうして無事ツツジヶ荘まで来れたという事実が冬用タイヤの不要性を証明しているってわけさ。がっはは」
金吉は道中に起こした限りなく事故に近い運転のことを覚えていないらしい。吉晴は深く重い息を吐き出した。
ちらほらと再び雪が降り始めた。
6
本格的に雪が強くなる前にと、金吉と吉晴は外を調べてみることにした。
といってもツツジヶ荘の周りは林があるばかりで目立った建造物があるわけではない。四畳ほどの大きさの物置がぽつんと置いてあるが、中には雪かきの道具やゴルフバッグが放り込まれているだけで隠し財産の『か』の字も見当たらなかった。
「うぅ。靴の中がびちゃびちゃだ」
雪を踏みしめながら金吉がつぶやく。
「これ以上外を調べても仕方ないよ」
「そうだな。家の中をもう一度調べてみよう。きっと何か見つかる……よな?」
何も見つからなかった。
ふたりは居間のソファーに沈み込み、小型のバーナーとコッヘルでお湯を沸かした。
「みそ味と塩味。どっちにする」
「しょうゆ」
「しょうゆ味なんてないよ」
「あっ?」
金吉はカップラーメンが入ったビニール袋を吉晴から奪い取った。
「え。おまえ食った? おれが昨日買ったしょうゆ味を食ったのか」
「食べてないよ。ぼくが昨日食べたのはみそ味。しょうゆ味なら昨日カネくんが食べてたじゃないか」
「ちがう。おれはふたつ買ったんだよ。ひとつを昨日食べただけなのに、もうひとつがなくなってる」
「吉汀が食べたんじゃない」
「あいつはカップラーメンなんて身体にわるいもん食わねーだろ。なんで一個減ってんだ。わけわかんねぇ」
うす暗い室内でカップラーメンを食べ終えると、ふたりは階段をのぼり二階へと向かった。
「棚とかタンスとか机の中とか、普通の場所には隠していないことはすでに確認した。つまり、隠し財産は普通じゃない場所にあるんだ」
「普通じゃない場所って、例えばどこだよ」
階段の壁に手をつきながら金吉が訊ねる。
「例えば……本棚の裏とか。隠し部屋があるかもしれない」
「マンガみたいだな」
二階の廊下を吉晴が先頭に立って歩いていく。躊躇なく最奥にある部屋に入ろうとする吉晴の背中に金吉が声をかけた。
「お、おい。そこも調べるのか」
金吉の声は震えていた。最奥の部屋とはもちろん、故大吉翁の部屋。つまりは――
「怖いの?」
吉晴は悪趣味な笑みをみせた。
「たしかに床の上の血が消えたことは不気味だ。だけど実際のところ、血のあとはない。つまり、夜中のやつは見間違いだったというわけだよ」
「見間違い。そうだな。ランタンだけの頼りない照明の中で……うん。見間違いだ。血なんてなかった。見間違いに違いない」
故大吉翁の部屋に入ると、吉晴は天井をほうきの柄でつつきだした。金吉は本棚の本を抜き取り、吉晴にいわれたとおり本棚の裏を調べ始める。
「だめだ。なんもねぇ。そうだ。ぶ厚い本のページをくりぬいて中に麻薬を隠すってのを映画でみたことある。この本のどれかに宝石でも入っているのかもしれないな」
それなら本を取った時に中で動いた感覚がするんじゃないかと吉晴は思ったが、黙っておくことにした。
天井をつついても降りてくるのはほこりばかり。吉晴はほうきを置き、クローゼットに向かった。
クローゼットの中はハンガーにかかった数着の衣服があるだけだ。足元に小さな桐たんすが置いてあるが、その中は雑多な書類やがらくたが入っているばかり。おおよそ『財産』と呼び得るものはそこにはない。
吉晴はクローゼットを優しく閉じながら『別の場所を探そう』と提案した。
「なんだか寒くなってきたよ。他の部屋と比べてこの部屋は壁がうすいのかな」
「かぜでもひいたんじゃないか。いや、それとも……」
「それとも?」
「な、なんでもない。ほら、早くしろ。次の部屋だ」
そういって二人が廊下を出てドアを閉めると、まさにいま二人が出てきた部屋の中から物音がした。
金吉と吉晴は顔を見合わせる。ドアノブを握る吉晴の手は血管が浮き出ていた。
「お、おい。今の音……」
金吉の言葉を無視し、吉晴はドアノブをゆっくりとひねる。故大吉翁の部屋は――ほんの数秒前までと何も変わっていないように見える。
「なぁ、音がしたよな。たしかに音がしたよなぁ」
金吉は吉晴の両肩をつかみながら震える声を出した。
「き、気のせいだよ」
「二人そろって気のせいで済むか」
「それはいっちゃだめだ。床の血だって、三人そろっての見間違えってことで納得したじゃないか。錯覚だよ。すべてはさっか――」
吉晴の声が止まった。金吉が彼の視線の先を追うと、そこには明かり取りの小窓があった。
「い、いま。誰かが窓の外に……」
「窓の外って。ここは二階だぞ。外に足場なんてないのに……あ、あぁ」
金吉の顔色が蒼白に染まる。叫び声をあげながら金吉は廊下を駆け抜けていった。
「まって。まってよカネくん」
吉晴は金吉の後を追った。金吉は玄関のドアの前で丸くなって震えていた。
「やっぱりそうだ。幽霊のしわざだよ」
「幽霊って……おじいちゃんの?」
吉晴は金吉の身体を起こした。
「ちがう。じじいじゃない。この別荘で死んだ人間がいただろ」
「この別荘の前の持ち主のこと」
「そうだ。夜中に出た床の血が朝になって消えたのは幽霊の血だからだ。醤油味のカップラーメンがなくなっていたのも幽霊が食べたからだ」
「幽霊だなんて。そんなものが存在するわけ――」
「お前も聞いただろ。あの物音は幽霊が怒っているんだ。おれたちにここから出ていけって。帰ろう。今すぐ帰ろう。隠し財産なんて、し、し、しるかぁ!」
玄関の引き戸を開け、金吉は外に飛びだした。
「だめ。車はだめだ」
吉晴は降り積もった雪の上を必死に駆け、金吉の手から車の鍵を奪いとった。
「返せ!」
「ノーマルタイヤなんでしょ。昨日よりも雪の量が増えている。今度こそ事故る。死んじゃうよ!」
「いままさに幽霊に呪い殺されようとしているじゃねえか。あ、おい!」
吉晴はツツジヶ荘を囲う林に向かって車の鍵を放り投げた。
「何するんだよ!」
「電話! 電話で迎えを呼ぶんだ。タクシーなんかこんな山奥まで来てくれるはずがない。新田を呼ぶんだ」
仕方なしに金吉は新田に連絡をした。今すぐツツジヶ荘まで迎えに来るよう金吉は一方的にいいつける。
一時間ほどしてカバラコーポレートのロゴをドアに貼り付けたワゴン車が敷地内に入ってきた。ワゴン車のタイヤにはチェーンがしっかりと巻かれており、それを見て吉晴はほっと安堵の息を吐いた。
「遅いぞ馬鹿野郎!」
ワゴン車から降りてくる新田に金吉が罵声を浴びせる。詳しい事情も聞かされずツツジヶ荘に駆けつけた新田は困惑顔を浮かべた。
「何かトラブルですか。どうして家の中にいらっしゃらないんです」
「説明は後。はやく車を出して」
金吉と吉晴は後部座席に乗り込み、新田は首をひねりながら運転席に着く。金吉はバックドア越しにツツジヶ荘を見つめていた。車が進むにつれて、その姿は小さくなっていき――山陰に消えた。
「はぁぁ助かった。まったく勘弁してくれよ。何が隠し財産だ。でまかせだ。じじいのペテンだ。ひとを小馬鹿にして。死んでからも迷惑なじじいだ!」
服についた雪でシートを濡らしながら金吉は悪態をつく。その横で吉晴は両眼を深く閉じていた。
「いったい何があったのですか」
「じっくりと説明してやるよ。その前にひとついっておくぜ。新田。ツツジヶ荘は……お化け屋敷だ!」
車の暖房に温められ気迫をとり戻した金吉は、ツツジヶ荘での出来事を細かく語った。新田は車を運転しながら相づちを打つばかりだった。
山を降りてワゴン車は市街地に入った。間もなく駅につくというところで、新田は久しぶりに相づち以外の言葉を口にする。
「あれ。ということは金吉さんのお車はツツジヶ荘に置きっぱなしということですか。キーもなくして……どうなさるおつもりで」
「おまえ、とりにいって」
金吉は気軽にいった。
「週末にドライブに行くからさ、おれの家に戻しておいてよ」
「無茶いわないでください。カギは林の中に放り投げたんでしょう。見つかるはずがない。それに東京まで車を戻しにいく時間なんてありません」
「そうだな。もうすぐ日が暮れるな。カギを探すのは明日の朝、明るくなってからにしておけ。お、よかったな。明日の山梨は快晴らしい。すぐに見つかるだろ。がはは」
「がんばってね、新田」
バックミラー越しに吉晴がウインクを飛ばす。
駅のロータリーにつくと、金吉と吉晴は車から降りた。
「電車の時間は何時かな。こんな田舎だと本数も少ないだろうね」
「コンビニでなにか買っていこうぜ」
別れの挨拶も感謝の言葉も告げずにふたりは駅の構内へと消えた。その後ろ姿を追っていた新田の目は冷たく静かに燃えていた。
「辞めてやる」
ぽつりとつぶやく。
「辞めてやる。こんな会社辞めてやる。どうしてぼくがあんなガキどものおもりをしなきゃならないんだ。辞めてやる。絶対に辞めてやるぞ。あぁ、くそ。絶対に――」
「あれ。新田さんじゃないですか」
声のした方に目をやると、新田は『あ』と大きく口を開いた。
トイレの前の若い男がハンカチで手をふきながら小走りで駆け寄る。雪が降り積もるほどの天候だというのに、コートも羽織らずうすっぺらいスーツ姿だ。だが男は寒さなどみじんも感じさせない笑顔を浮かべていた。
「刑事さん。どうしてこちらに」
「仕事ですよ仕事。今から東京に帰るところだったんですけどね。いやいや。まさか新田さんに会えるとは思いもしませんで」
男の名前は初芝広大といった。初芝は故大吉翁が北坂誠に温泉宿で殺害された事件の捜査に警視庁捜査一課の代表として参加した。初芝は主に東京都内に住むカバラコーポレート関係者の聞き取りを担当し、新田はそのパイプ役として何度も初芝と顔を合わせていた。
新田は初めて初芝と出会った時のことを思い出す。待ち合わせ場所は都内の公園。警視庁捜査一課の刑事ともなると気骨稜々とした人間が現れると思いきや、あにはからんや、待ち合わせ場所の公園に現れたのは『ハトの落とし物をくらった』と落ち込みながら必死にスーツの肩口をティッシュで拭く年若い男だった。なるほどドラマや小説などによくある凡愚を騙り相手の油断を誘うタイプの刑事かと思いきや、話を重ねても初芝からは知性の『ち』の字も感じられなかった。
ただ初芝には天性のひとたらしの才能があった。ひとたび彼が笑顔を向ければ、どんな堅物も口を開く。普段から新田に厳しく当たるカバラコーポレート関係者たちが、初対面の初芝に対しまるで十年来の友のように口を開く。『なるほどこれが彼の武器なのか』と新田はうなずいた。どうもその甘いマスクと頼りない風貌は相手の庇護欲を誘うらしい。特に異性相手にこの点は顕著に表れた。初芝と言葉を交わした多くのカバラコーポレート関係者の女性が、後になって初芝の連絡先を新田に訊ねてきた。
「そうだ刑事さん。お時間ありますか食事でもどうです。ごちそうしますよ」
新田は既に退職を心に決めていた。カバラコーポレートに忠義を尽くす義理はない。金吉と吉晴から聞いた話を目の前の刑事に話してしまおう。吉汀はひとを殺した。金吉と吉晴はこの事実を隠蔽した。これは十分社会の規範に反する行いであろう。警察が事件性ありと判断して捜査に踏み出すかはわからない。だが年上の自分にこれっぽっちも敬意をはらわない生意気なガキたちの生活に少しでも波乱を起こせればと新田は期待した。
「ごちそう! いいんですか? お昼を食べる時間がなかったもので、東京に帰る前にどこかで食べようって話をしていたんですよ」
「ん。『話をしていた』?」
「初芝さん、お待たせしました」
トイレから稲穂のように背の高い男が現れた。年齢は初芝と大して変わらないだろう。猫背気味の身体をダッフルコートに包み、目は細く、ふわりと軽い黒髪が風に揺れていた。
「さささ、行きましょう。ごはんですよごはん。新田さんがおいしいお店に連れていってくれるって」
「はぁ……新田さん? あ、どうも」
背の高い男は頭を下げた。
「あなたも警察の方ですか」
新田が訊ねた。
「いえ、わたしは……東京でちいさな探偵事務所をやらせていただいております」
「探偵?」
男はポケットからたどたどしい手つきで名刺入れをとりだした。
「どうも。初めまして」
白地に縦書きの名刺を差し出す。 恒河沙探偵事務所 所長代行 ――
「恒河沙法律と申します。どうぞよろしく」
7
「へぇぇ? 何ですかそれ。死体が消えたってことですか。おかしな話ですねえ」
駅から車で十五分。国道沿いの喫茶店で三人は遅い昼食を摂っていた。
新田はテーブルを挟んで座る刑事と探偵に、金吉と吉晴から聞いたツツジヶ荘の事件のことを話した。加えて故大吉翁の悪行と会社の悪口も雄弁に話してみせた。がらんと広い店内に客は少なく、ネガティブな話をするにはもってこいの環境だった。
「三人は何かしらの罪に問われますか」
大まかに話し終えた新田はたまごサンドに始めて手をつけた。対して初芝は『具だくさん 豚肉ほうとう』の大盛に舌鼓を打ちながら新田の話を聞き、恒河沙法律と名乗った探偵はミートソーススパゲッティに刺したフォークをくるくると回し続けながら耳を傾けていた。
「うーん。無理じゃないかなぁ。吉汀さんは寝ぼけていて夢の中で誰かを刺したんですよ。血痕だってねぇ。朝になって消えたとなると、三人が寝ぼけて見間違えたと考えるのが妥当です。もちろん、ツツジヶ荘の周囲で刺殺体が発見されたら話は別ですが」
「そうですよね。どうもすみません」
新田は苦笑しながらサンドウィッチを咀嚼する。実際に口に出してみれば何と馬鹿げた話だろう。死体が消え、血痕が消え、幽霊が現れた。こんな夢物語を大して親しくない間柄の人物に聞かせるなど自分の社会的常識もたかが知れたものである、と新田は呆れた。
「でもたぶん……」
スパゲティの上でフォークをくるくると回していた法律がぽつりとつぶやいた。
新田と初芝は探偵のその言葉を聞き逃さなかった。ふたりに見つめられていることに気づいた法律は、咳ばらいをしてから何もなかったかのようにフォークをもちあげるが、スパゲティはずるずると皿の上に落ちていった。
「恒河沙さん。何か気づいたことがあるんですね」
初芝は身を乗り出して法律に顔を近づける。法律は苦笑いをしながらフォークを置いた。
「自信はありません。でもたぶん、ツツジヶ荘で起きたことはすべて合理的に説明ができます」
「合理的に? つまり幽霊は」
「いません。少なくとも、聞いた限りでは」
ついでにいうと――と法律は続ける。
「隠し財産の場所もわかりました」
8
「ところでおふたりはどうして山梨に?」
新田はワゴン車の運転席から、後部座席にすわるふたりに声をかけた。
「恒河沙さんがめんどうな事件に巻き込まれましてね。ぼくは一種の身元引受人です。おかしな屋敷でしたよ。滞在者の名前にそろいもそろって数字の『八』と『九』が……」
「話すと長くなりますのでまた別の機会に。とにかく。ひと仕事終えて東京に帰るところだったわけです」
法律は背中を丸めて頭をかく。身長が高いが威圧的な雰囲気はない。肉づきのよい体格なのに片手で押されれば簡単に倒れてしまいそうな柔さがある。
「お疲れのところ恐縮です。まさか探偵さんにご足労いただけるとは」
ツツジヶ荘の怪事件は合理的に説明できる。そして隠し財産の場所もまた。そんな法律の言葉を証明するため三人はツツジヶ荘に向かうことにした。
雪は止んでいた。だが気温は変わらず低いままだった。
山道に入るも対向車線を走る車の数は少ない。雪の重みに潰されそうなボロ小屋やシャッターの降りた民家が時おり道路わきに立っているばかりで人の気配はまったくない。新田は金吉の話を思い出した。幽霊。なるほど。人里離れた山奥に立つツツジヶ荘にぴったりではないか。
山道からわき道にそれ、すこし進むと林の切れ目からツツジヶ荘が見えてきた。
敷地内に入り車から降りる。白い雪を踏みつけてから家の中に入ると、うす暗い屋内は冷たい空気に浸されていた。
「この方が蒲原大吉さんですか」
玄関に飾られた肖像画の額縁に触れながら法律がいった。
「うげ。怖い顔。警察のお偉いさんにもよくいる顔ですよ。頑固者で融通が利かない。自分自身がこの世のルールだと思いこんでいる暴君だ」
「初芝さん。故人に失礼ですよ」
「いいんですよ。会長は刑事さんのおっしゃる通りのひとでした。わたしも何度パワハラを受けたことか」
「新田さんまでひどいなあ。大吉さん。どうもあなたの味方はいないようですよ」
法律は口もとをおさえてくすくすと笑っていた。
「大吉さんがご家族の住まう東京ではなく山梨に住んでいることには何か理由があるのですか。御社の山梨支社の存在と何か関係が?」
法律の問いかけに新田が首肯する。
「するどいですね。山梨は会長の生まれ故郷でして、カバラコーポレートを旗揚げしたのもここ山梨の地だったわけです。現在の山梨支社はかつての本社だったのですが、上場を機に東京に本社を移して、かつての本社を支社に変えたわけです。日本の経済の中心は東京です。首都圏での事業展開なくしてカバラコーポレートの躍進はありえませんでした」
「そして大吉さんは東京への進出後、奥様と子宝にも恵まれた。公私ともに順風満帆だったわけですね」
法律の言葉に新田は目を丸くした。
「そうです。既にご離婚された奥様とは東京で知り合ったと。ご存じでしたか」
「なんとなくそうかなと思っただけです」
三人はランタンで照らされた暗い室内をみてまわった。新田にとっては御用聞きで何度も通った勝手知ったる他人の家。うす暗い室内を不気味に思うことはなかったが、初芝刑事はそうではないらしく、へっぴり腰になりながら新田の後ろをついてまわっていた。
一方の探偵恒河沙法律は――先頭に立って『はぁ』『ほぅ』『わぁ』と生まれて初めて美術館に来た小学生のような声を発していた。
「そこが会長の部屋になります」
二階の最奥にあるドアに手を向けながら新田がいった。
法律は『失礼します』と一礼してからドアを開いた。
ランタンの光の下で室内を調べる。当然ながら床の上に広がる鮮血なんてものはない。法律は床を一瞥すると、次にクローゼットを開いた。中にあるのはハンガーにかかった衣服と小さな桐たんすだけ。法律はしゃがみこみ、落ちていたハンガーを子どものようにふり回しながら立ち上がった。
「新田さん。ひとつお願いが」
新田は法律の頼みを聞き、首をかしげながら家の外に出た。数分後、戻ってきた新田が『ばっちりですよ』と報告すると、探偵は蒸したてのまんじゅうのような笑顔をみせた。
9
暗闇に白く細い光が飛び交う。
いたずら好きの妖精のような白い光は、冷たい空気の中をふらふらとゆれながら前へ前へと進んでいく。光のあとからくぐもった声が聞こえる。寒さに耐えながら、そして興奮を抑えるような声が――聞こえる。
光が一点を差してぴたりと止まる。その光の中に青白い手が現れ、ドアノブを掴んだ。
くぐもった声が荒くなる。呼吸の間隔が短くなる。青白い手は汗ばみ、震え、ドアを、開き――
「あ、どうも。おじゃましてますよ」
開かれたドアの内側に立つ恒河沙法律は、ランタンを両手でかかげてその光を彼に浴びせた。
真夜中の山中を震わすほどの絶叫が響きわたる。彼は腰を抜かし、尻から床に落ちた。
「ごめんなさい。そんなに驚くとは。新田さんを邪険にしたようだから少し脅かしてやろうと思っただけなんです」
法律は彼を引き起こそうと手を伸ばす。しかし彼はその手を握らず、手にした懐中電灯で法律の顔を照らすばかりだった。
「誰だ。あんた誰だよ。ひとの家でいったい何を……」
「おどろいた。まさか本当に現れるとは」
法律の後ろ、故大吉翁の部屋から新田が姿を現した。そしてその背後では、石油ストーブに手を当てて暖をとる初芝刑事の姿があった。
「に、新田。どうしてこんな真夜中にここにいるんだ。こいつらは誰だ。おまえ、いったい何を考えているんだ」
「自己紹介をしましょう。恒河沙法律と申します。わけあってツツジヶ荘にお邪魔させていただくことになりました。いえいえ。あなたのお名前は結構です。すでに検討はついておりますから。どうもはじめまして。そしてこんばんは。蒲原吉晴さん」
10
「寒い中ご苦労さまです。咎めるつもりはありませんので気を楽にしてください。ほら、初芝さん。もう少し詰めて」
男四人が石油ストーブの前で床に腰をおろした。室内にはランタンがいくつも置かれており、十分が過ぎるほどの光源を確保していた。
法律は石油ストーブの上においたやかんで沸かしたお湯でインスタントコーヒーをつくる。ブラックのままマグカップをさしだすと、吉晴は震える手でそれを受けとり、少しだけこぼした。
「夜になったら吉晴さんがお戻りになると探偵さんがおっしゃるので、半信半疑で待っていたらまさかその通りになるとは」
正座で構える新田は驚嘆と尊敬と畏怖が入り混じった表情を法律に向ける。
「カネくんの車以外に外に車はなかった。だから誰もいないものと思ったのに」
「他の車があると、吉晴さんは警戒して入ってこられないと思いまして」
ツツジヶ荘の調査を終えて法律が新田に頼んだのは車の移動だった。カバラコーポレートのワゴン車は林の奥に停まっている。
「吉晴さん。わたしはここツツジヶ荘で起きた怪事件について新田さんから聞き及びました。あなたと金吉さんが全てを正確に新田さんに伝えていたとしたら、わたしはこの怪事件の真相をご説明できると思います」
「吉汀が刺した強盗がどこにいったのかは知らない。本当です!」
「恒河沙さん。この子、嘘はついていませんよ」
刑事の勘というやつか。台所から勝手に頂戴してきたカップスープを作りながら初芝刑事がいった。
「でしょうね。今回の事件は、ふたりの犯人の意図が思わぬ形で交錯し、その結果としてふたりの犯人が首をかしげる混沌とした結果が生まれたわけです」
「犯人がふたり? 吉汀さんに襲われた強盗と、そしてその強盗を刺した吉汀さんのことをいっているのですか」
「結論からいいましょう。そもそも強盗は存在しませんでした。あれは彼女の虚言です。彼女が欲していたのは警察への通報。偽りの強盗事件を起こして、警察がこのツツジヶ荘に訪れることを期待していたのです」
誰も法律の言葉を理解できなかった。警察を呼ぶために架空の強盗事件を起こした。いったい――
「なぜそんなことを? というお顔をされていますね。ですが、これぐらいしか吉汀さんの奇妙な行動を合理的に説明することはできないんですよ」
法律はあぐらをかいたまま両腕を組み、だるまのように前後に揺れた。
「吉汀さんは、大吉さんの隠し財産には興味をもっていなかった。金銭面にはリアリスティックな彼女が、どうしてふたりのイトコの世話をするために、わざわざ東京から山梨県までやってきたのでしょう」
「そう。それはぼくも不思議に思いました。吉汀がぼくとカネくんにこんなにもよくしてくれるなんて。何か裏があるに違いないと勘繰りましたよ」
「高級食材で手料理をつくり、酒をふるまう。うら若き乙女がこれほど献身的に尽くす理由といったら、そりゃあ恋心でしょう。そんな顔をしないで。吉汀さんは吉晴さんや金吉さんに恋慕の情を抱いたわけではありません。彼女のお目当ては、こちらのお方です」
法律は、カップスープが入ったコップに犬のように口をつける初芝刑事に手を向けた。三人の視線が自身に集まり、初芝は『へ?』とすっとんきょうな声をだした。
「あ、どうも。警視庁刑事部捜査一課初芝広大巡査であります」
コップ片手に敬礼する初芝を見て、吉晴は『あ!』と声をあげた。
「あんた、おじいちゃんの事件の時にうちに来た刑事だな」
初芝は故大吉翁の殺人事件の捜査において、主に東京都内に住むカバラコーポレート関係者への聞き取りを担当していた。その時にふたりは顔を合わせていたのだ。
「吉汀さんは大吉さんのお孫さんであり、カバラコーポレートでアルバイトもされていた。初芝さん、吉汀さんとお会いした記憶はありますか」
「総務課にいらっしゃったお孫さんですよね。覚えています。おじいさまに関する詳しい話は聞けずに、逆にぼくの好きな料理なんかを聞いてくるのでまいってしまいました」
「ちなみにあなたの好きな料理って……」
「牛肉が入ったお鍋ですね」
「刑事さんがいらっしゃったあと、多くの女子社員が刑事さんの連絡先を教えてくれとわたしに声をかけてきました。もちろん、吉汀さんも例外ではありませんでした」
新田が頭を上下にふる。
「吉汀さんは何とかしてもう一度初芝さんに会いたかった。あわよくば大好物をごちそうしたいと料理の練習にも励んでいたのでしょう。だが、熱々の鍋をもって警視庁を訪れるわけにはいきません。そんな吉汀さんに千載一遇のチャンスがやってきました。ふたりのイトコがツツジヶ荘を訪れたのです。ふたりの世話をするという名分で自分もツツジヶ荘を訪れそこで強盗事件が起きれば――初芝さん。あなたの管轄は警視庁ですが、数週間前に担当した事件の関係者のもとで強盗事件が起きたとなれば?」
「召集の声がかかるでしょうね。サイレンを鳴らして山梨までやってきたはずです」
さも当然といった様子で初芝はこたえる。
「それが吉汀さんの狙いだった。憧れの相手の手料理を用意し、ツツジヶ荘まで半ば強制的に訪れさせる。捜査の合間に手料理をどうぞといってお鍋を食べさせるつもりだったのでしょう。吉汀さんはキッチンで強盗を刺したといいましたが、その証拠は何も残っていません。キッチンに血痕はなく、強盗の腹に刺さった包丁なんてものも存在しない。さらにはツツジヶ荘の周囲は雪に覆われていて、強盗の足跡は存在しなかった。これらを合理的に説明する結論は――犯人なんていなかった。強盗事件は、警察を呼ぶ理由をもった加害者である蒲原吉汀さんの虚言だったというわけです」
「もし仮に警察がツツジヶ荘を訪れても」
空になったコップを手に初芝がいう。
「証拠もなく、犯人の姿も見えない。家の中は暗くて、時刻は真夜中。寝ぼけていたと結論づけられるのがオチでしょうね」
「実際、吉汀さんもそうするつもりだったのでしょう。彼女の目的は初芝さんをツツジヶ荘に呼び寄せることですから」
吉晴は、吉汀がしつこく『警察に通報しよう』と提案してきたことを思い出した。その提案は健全なる社会を願う市民の義務感を起因としたものではなかったわけだ。
「ですが、ことは吉汀さんの思うようには運びませんでした。彼女は結局通報しなかった。通報するわけにはいかなくなったのです」
法律は丸めた指でこめかみを叩きながら吉晴を見つめた。吉晴はそっと視線を足元に逃がす。
強盗騒ぎのあと、みなさんは家の中を探索して回りました。そしてここ大吉さんのお部屋で吉汀さんは予期せぬものを見ました。血です。血のあとです。大量の血が床一面に広がっていたのです」
法律は両手を開き、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように床を叩いてみせた。
「吉汀さんの気持ちになってみましょう。警察を呼ぶために虚偽の証言を行った。強盗を刺したけど、その強盗は実在しないのだから自分が罪に問われることはない。安心ですね。だが大吉さんの部屋には大量の血痕が広がっていた。恐るべきことに、吉汀さんの虚偽の犯行を証明する物証が現れてしまったのです。吉汀さんは焦りました。ここで警察が呼ばれたら間違いなく自分が疑われる。初芝さんに牛肉鍋を食べさせるどころではなくなってしまったわけです」
「そういえば吉汀のやつ、あれほどしつこく『警察を呼べ』といっていたのに、この部屋に入ったあとは一度もいわなかった」
吉晴が小声でいった。
「吉汀さんは身に覚えのない犯行の証拠を消さなければならなかった。ふたりのイトコの気が変わって通報されたら大変です。なぜ朝になって血痕は消えていたのか。それはふたりのイトコが再び眠りについたあと、彼女がふき取ったからです。警察が来て詳しい検査をすれば血痕を拭きとったことがばれるかもしれない。ただ吉汀さんは金吉さんと吉晴さんを騙せればそれでよかった。昨夜見た血痕は見間違えだった。ふたりにそう思いこませればそれでよかったのです」
「しかし、血を拭くといっても。大量の布が必要だったはずですよ。吉汀さんはそれらをどうやって処分したのでしょう」
「タオルやシーツはいくらでもありますね。ここは大吉さんと北坂誠さんのおふたりが住まわれていたわけですから。それらの布は食材をいれていたクーラーボックスに詰めて持ち帰ったんですよ。食材をおろしたので中は空っぽのはず。いまごろは燃やされて灰になっているんじゃないですか」
「朝になって血が消えていた。なるほど、そうなると金吉さんと吉晴さんも、真夜中に見間違えただけだと自身を納得させられますからね」
興が乗ってきたのか、新田は身を乗り出す。
「ですが血は……本当にこの床の上に血は広がっていたのですか。信じられません」
新田が首をかしげる。すると初芝が手をあげて『いえいえ』と口を開いた。
「人間の血っていうのはそう簡単に拭いとれるものではありませんよ。素人が布でこすった程度ではとてもとても」
「床に広がっていたのは血なんかじゃなかった。おそらく血糊でしょう。最近の血糊は進化してましてね、ふき取るのは簡単なんですよ。そしてこの血糊を床にまいたのが、吉汀さんと並ぶもうひとりの犯人。あなたですよね、吉晴さん」
「すべてお見通しなんですね」
観念したのか、吉晴は身体を倒して床の上に大の字になった。
「ぼくはお金が欲しかった。おじいちゃんの隠し財産が欲しくて……なのにあいつが、金吉も隠し財産を探し始めて。なんとかして金吉を追い払いたかった」
「だからあなたは、ツツジヶ荘の以前のオーナーが自殺された話を持ち出したのですね。ほら、ちゃんとこっちを見てください」
法律が吉晴の腕をとって身体を起こす。
「金吉さんは豪気な性格でありながら幽霊や怪奇現象を恐れていた」
「むかしからそういう性格でした。真夜中におじいちゃんの部屋に血糊を流しておけばびびって逃げ出すと思ったんですよ」
「以前のオーナーが自殺された部屋で不自然に流れだした血痕。金吉さんはそれを見て『幽霊の血だ!』と怯えるはずだった。ですが、吉晴さんの思わぬ形で『幽霊の血』は『人間の血』に入れ替わってしまった。吉汀さんが虚偽の強盗事件を起こしたせいで、この部屋の『血』から怪奇性が失われてしまったわけです」
「それじゃあ、幽霊がカップラーメンを食べたとか、あそこの窓から見えた人影っていうのは」
新田が訊ねる。
「たぶん、春になったら溶けた雪の下からしょうゆ味のラーメンが出てきますよ」
法律は平然と答えてみせた。
「吉晴さんは金吉さんがしょうゆ味のラーメンが好きなことを知っていた。だから残りひとつのカップラーメンを隠したんです。幽霊のせいにするために。金吉さんがしょうゆ味以外のラーメンを選んだら、自分でしょうゆ味がないと騒げばいいだけの話です」
「窓から見えた人影は?」
「見たと証言しているのは吉晴さんだけです」
「驚くほど陳腐な真相ですね。だけど、廊下に出た時に部屋の中から聞こえた物音は金吉さんも耳にしていました。吉晴さんもいっしょに廊下にいたんですよね。これはいったいどういうことです」
「直前まで吉晴さんはクローゼットの中を探っていました。わたしも先ほど拝見しました。中にはハンガーにかかった衣服が並んでいましたね。ちょっと再現してみましょう」
法律はクローゼットを開けると、ハンガーラックに並んで吊らされた複数の衣服の肩口をまたぐようにハンガーをひとつ乗せた。慎重にクローゼットを閉じ、廊下に出て部屋のドアを強く締める。その衝撃がクローゼットに伝わったのだろう。中からガタリとものが落ちる音がした。
新田が視線を横に向ける。子どもじみたトリックを看過された吉晴が表情を真っ赤に染めていた。
「クローゼットを閉じたあと、外に出ようと提案したのは吉晴さんではないですか」
廊下から顔だけをのぞかせて法律が訊ねる。
「このドアを閉めたのも吉晴さんでしょう。強く締めないとハンガーが落ちないかもしれませんからね」
「あたりです。全部あたり。これ以上ぼくに恥をかかせないで」
吉晴は床に顔を伏せてわっと泣き出した。ポケットからハンカチを差し出した初芝が『よしよし』と吉晴の背中をたたく。
「探偵さん。もうひとつ教えてください。どうして今夜、吉晴さんがツツジヶ荘に戻ってくると思われたのですか」
新田の問いかけに法律は笑ってみせた。
「吉晴さんとしては、隠し財産を手に入れるまでにできる限りツツジヶ荘に人を近づけたくなかったことでしょう。ですが明日、新田さんは金吉さんの車を回収するためにツツジヶ荘を訪れます。もしかしたら新田さんが隠し財産に興味を持ち、探索を始め、あわよくば見つけてしまうかもしれない。吉晴さんはそう考えすぐにでもツツジヶ荘に戻るだろうと予想しました。金吉さんには適当なことをいって、東京行きの電車を降りてUターン。レンタカーを借りてここまで来たわけです」
「なぜ明るいうちに来なかったのですか。こんな真夜中にツツジヶ荘に来た理由は?」
「市内で新田さんに出会う可能性を低くするためですよ。夜になれば新田さんは家に帰られるでしょう。ちがいますか? 吉晴さん」
亀の甲羅のように背中を丸める吉晴に法律が訊ねる。吉晴はハンカチを手にえずきながら激しく頭を縦にふった。
11
「結局。隠し財産なんてなかったんですね」
ティッシュボックスひと箱を枯らした吉晴は、二杯目のコーヒーを飲みながらいった。
「カネくんとふたりで家じゅうを探したんです。だけどそれらしいものはどこにも」
「あるそうですよ。ね、探偵さん」
親近感が増してきたのか、新田は法律の肩を叩いてみせた。法律はほほを指でかきながら控えめに『はい』と答える。
「そんなはずない。ぼくらは徹底して探したんだ。机の中、たんすの中、靴箱だって全部確認した。だけど金目のものは何ひとつなかった」
吉晴が声を荒げる。その顔は船が焦げるほど涙と鼻水に濡れていた。
「やみくもに探すのもかまいませんが、きちんと提示されたヒントをもとに推理するのも大事ですよ。吉晴さん。あなたは自身のルーツについて、おじい様が生まれ育った山梨県についてもう少し興味を持つべきでした。東京生まれのあなたには無理かもしれませんがね」
「山梨県と隠し財産に関係があるのですか」
「大ありです。ひとつ目のヒントは、この家の名前です」
「ツツジヶ荘でしたっけ。かわいらしいですねぇ」
初芝がいうと、法律は『その通り』と指を一本あげる。
「大吉さんがご自身の生まれ故郷である山梨県に思い入れがあることはこの家の名前から察することができます。ツツジヶ荘の名前は、府中に存在した武田家三代に渡る居城『躑躅ヶ崎館』から命名されたに違いありません。武田信玄は山梨県民の心の父。そんな親愛なる父君の居城を意識せず、山梨県民の大吉さんがこの名前をつけるはずがありません」
「武田信玄って、戦国武将の?」
「そうです。山梨県下における信玄公の影響力は非常に大きく、それは現代における日常会話にまで達しています」
「日常会話? どういう意味です」
「ふたつ目のヒント。山梨県の方言に『信玄公の逆さ言葉』というものがあります。武田信玄が敵をあざむくために使用した暗号でして、一部の言葉が真逆の意味を与えられるのです。例えば『行っチョ』は本来なら『行くな』と禁止を意味する言葉になりますが、逆さ言葉という暗号のもとでは『行け』と推奨を意味する言葉になります」
「山梨にはそんなひねくれた方言があるんですか。ふざけた話だ」
隠し財産の色香にとらわれている吉晴は、鼻を鳴らしてそういった。法律は両眼を細めて小さく首をふる。
「ひとさまの文化を馬鹿にするのは感心できませんね。山梨県では他にも武田家にまつわる民衆語源が多くみられます。俗説の一種に過ぎませんが、その存在そのものが武田家への信仰の篤さを表しています」
「ふん。都会育ちのぼくには理解できないですね。それで、逆さ言葉が隠し財産と何の関係があるのですか」
「大吉さんはこの方言を日常会話で用いていました。『行く』は『行かない』と解釈され、その逆に『行かない』を意味する『行かず』は『行く』と解釈されるんですよ」
「『行かない』が『行く』……あ! 正月の食事会って」
新田の顔が驚嘆に引きずられる。
「ご明察。大吉さんは正月の食事会に『行かない』と明言したのに、当日になって食事会が行われる料亭に現れました。これは大吉さんの気が変わったわけではありません。山梨県民の大吉さんは自然と逆さ言葉を口にしました。『行かず』と口にして『行く』と出席の意志を表していたわけです。大吉さんが怒るのも無理はありませんよ」
「おじいちゃんが逆さ言葉を使っていたことはわかりましたけど、それがなんだっていうのですか」
吉晴は悲鳴のようにかん高い声をあげた。
「第三のヒントは、すでに吉晴さんの手元にあります。隠し財産を手に入れるためには、誰をどうすればよろしいのでしたっけ」
作り笑いを浮かべながら法律がたずねる。それに答えたのは吉晴ではなく新田だった。
「『わしを尊敬しろ』ですか。もしかして、これも逆さ言葉なのですか」
「そうです。『尊敬』は『侮辱』を意味します。『わし』を『侮辱』すれば隠し財産は手に入る。隠し財産が存在するのはツツジヶ荘です。『ツツジヶ荘』の『蒲原大吉』を『侮辱』すればいいのです。お分かりですね。隠し財産はツツジヶ荘を入ってすぐの所にあったのです」
吉晴は爆ぜるように飛び上がると、ドアの前にいる法律の身体を押し倒して部屋を出ていった。階段を駆け降りる音が家じゅうに響き渡る。
「探偵さん!」
新田が慌てて法律に駆け寄る。逆さまになったニワトリのような恰好で背中を床につける法律は『大丈夫です大丈夫です』とくり返した。
「玄関の肖像画のことですね。恒河沙さんはこの家に入ってすぐに隠し財産のありかを見ていたわけだ」
大きくノビをしながら初芝がいう。法律はズボンのほこりを払いながらうなずいた。
「額縁と背板が接着剤で固定してありました。肖像画と背板の間に隠し財産はあるはずです。肖像画を破かない限りは、隠し財産は手に入りませんよ」
「追いかけなくていいのですか」
新田が憂いた表情で法律を見つめる。
「隠し財産のありかを突き止めたのは探偵さんです。何もせず、いえ、それどころか身内を騙して独り占めしようとした吉晴さんが手に入れるだなんて」
「かまいません。ぼくの知り合いにも大吉さんのような方がいましてね、大吉さんが考えていることは想像がつきます」
「会長が考えていること?」
「逆さ言葉の誤解などはありましたが、悪評が立つに至った大吉さんの他の悪行が同じく誤解だったわけではありません。豪者にして嫌われ者。そんな蒲原大吉さんがこの程度のことで隠し財産を渡すとは思えません」
その時、階下から悲鳴が聞こえた。三人が階段をおりると、溶けたアイスのように玄関に崩れ落ちる吉晴の姿があった。傍らには引き裂かれた肖像画と、一枚のびんせんが落ちていた。
「やっぱりこうなりましたか。では吉晴さん。これにて失礼いたします」
法律は深く一礼してから玄関を出ていった。初芝と新田は床に落ちているびんせんを一読すると『うわ』とつぶやき法律に続いた。
「待って。待ってください探偵さん。もう一度お助けください。ねぇ、探偵さん。待ってくださいったら」
吉晴は雪の中をこけつまろびつ追いかける。法律に助力を求める声は長いこと続いた。
夜風に吹かれてびんせんがふわりと浮かび、破かれた肖像画にまるで漫画のふき出しのように重なった。
びんせんにはこう書かれていた。
『わしの顔に傷をつけるような不届きものにやるものはなし。もう一度隅から隅まで探してみればよかろうて』
お読みいただきありがとうございました。
ほんのひと言でも構いません。感想などいただけると幸いです。