『願い事』
硫黄の煙と共に、悪魔のヘッテルギウス氏が現れた。
白いスーツの紳士然とした美しい風体で、僅かに牙と角が見える他は人間と変わらない。
「おおお……本当に」
魔方陣の内側で、人間は驚きの表情を見せる。三〇歳前後の異様に痩せた男で、目はぎょろりとして肌はどす黒い。
「喚んだのはあなたですね」
がらんとした倉庫の中に、ヘッテルギウス氏の声が響く。壁の向こうからは、僅かに波の音が伝わって来る。
「悪魔の力により、適正な対価と引き替えに、あらゆる願いを叶えましょう」
人間はヘッテルギウス氏の言葉に返事一つせず、魔道書に付けられた付箋の一つを辿りページを開いた。
「『偽りの言葉を禁ずる。契約は、書面による同意を持ってのみ成立し、取り消し可能期間として、実行までの間に地球時間で半日の猶予を設定する。また、その他、錯誤や脅迫、魔術的誘惑によるものであるならば、取り消し可能期間後であっても取り消しの対象となる。これらに従わぬ時は、魔による恣意的な人の侵害として、神へ予め祈り伝えているものなり』」
ラテン語の文言を一気に読み上げ、一つ息をつく。
「おや、割と分かっている方の術式のようだ。ご安心を。この私『小さき魔の者』は、軍団に常勤採用されている悪魔。そこらのバイト感覚のフリー悪魔のような妙な揚げ足取りは行いません」
ヘッテルギウス氏は、にこにこしている。
「さ、願いをどうぞ。その魔方陣も、蝋燭が消えるまでしか保たぬでしょう? 別に私に害意はありませんが、落ち着かないでしょう」
「わ、分かった」
人間は唾を飲み込む。
「妻……妻の、料理の腕を、上達させてくれ。対価は、私の死後の魂だ」
「ふむ?」
ヘッテルギウス氏は首をかしげる。
「悪魔データベースによると……あなたの奥様は、お料理上手です。悪魔的腕前を希望されるとかでなければ、願いとして成立しませんよ?」
「そんな筈はない、彼女の料理は、彩りに絵の具や青銅を使ったり、米を洗うのに苛性ソーダを使ったり、健康を害するレベルの下手さだ! そして、私が自分でやると言うと、自分の仕事を奪うのかと大いに悲しみ、先日は投げた包丁で耳が落ちかけたぐらいだ」
「でしたら」
ヘッテルギウス氏は、胸ポケットのポケットチーフを、左手にふわりとかけて、さっと取り去る。きんぴらゴボウが盛られた小鉢が現れる。それを床に置き、魔方陣へ押し込む。
「奥様が、ご自分用に召し上がっているものです」
人間はきんぴらゴボウをつまんで口に入れる。
「……う、うまい?」
「あなたの奥様は、あなたと同じ物を一度だって食べていないのではありませんか?」
ヘッテルギウス氏はにたりと笑う。
「そして、それは何故でしょう? あなたに健康を害する料理とも言えない物体を喰わせた先の、奥様の企て、そうさせた相手。さて、いかが致しましょう?」
「……スプラッター」
地獄の四丁目のバーで、カウンターのヘッテルギウス氏は、座るなり注文を出す。
「かしこまりました」
バーテンダーのニスシチは、フルート型のシャンパングラスに、白ワインと炭酸を入れ、メルチョルの魂のパウダーをひとふりして、マドラーで軽くステアする。
「お待たせしました」
ヘッテルギウス氏は、ぐっと飲み干す。
「……おかわり」
「はい」
立て続けにもう二杯飲んで、ヘッテルギウス氏は溜息をつく。
「お疲れですね」
「四半期は忙しくてな。余計な時間を取られたせいで、今日もかなり残業させられた」
「そうでしたか」
「ったく、十字軍の頃は、魂なんて掃いて捨てる程だったのに」
「あの頃の魂のお陰で、地獄はかなり便利になりましたからね」
「今回は良い感じに世界に憎しみを持てそうな事例だったんだよ」
「そうでしたか」
「『自分の方にうまい方の料理を出してくれ』ってなんだよ! そんなので、何割魂が取れるってんだ! 復讐心とかないのか、この去勢された人間が!」
「あ……あなた、ご、ご、ご、ごはんです」
「ありがとう。うん、おいしいよ」
「そ、そう、よ……良かったわ」
「君もおあがりよ」
「え、え、ええ、き、今日は、き、き、きぶ、き、あ」
「食べられるだろう? 何故か。悪魔にでも操られているように、さ」
【完】