『きつねとぶどうと悪魔』
あるところに、キツネがおりました。
その日のキツネは、まったくツイていませんでした。
鳥を獲ろうとしては逃げられ、ウサギを追っては足を滑らせ、仕方なしに葡萄を取ろうとすると、枝が高くて届かないのです。
まっ黒に熟れた葡萄を見上げ、キツネは後ろ足をうんと伸ばします。伸ばしてダメなら、と、飛び上がります。石を積んでみますが、乗っても崩れてしまいます。
どんなにやっても、どうしても葡萄には届きませんでした。
「ちぇっ、いいさ、どうせ酸っぱい葡萄だ」
言い捨てて立ち去ろうとした時です。
「左様でございましょうか?」
硫黄の煙と共に姿を表したのは、ねじれた角を生やした悪魔でした。
「悪魔なんかと話す事はないね」
キツネは立ち去ろうとします。
「まあまあキツネさん、このヘッテルギウスの話をお聞きなさい」
悪魔のヘッテルギウス氏は、葉っぱの名刺を差し出して恭しくお辞儀をします。
「あの葡萄、召し上がりたいのでしょう?」
「どうせ酸っぱい葡萄さ、いりゃしないよ」
「この辺りは陽当たりも良く、今年も曇りは少なかったですよ。見ただけでも深い葡萄色をして、たっぷり熟れているのは分かります。これを食べれば甘さに疲れは吹き飛び、果汁に喉は潤され、人生の愉しみがまた一つ増える事でしょう」
背を向けたまま、キツネは黙り込みます。
「酸っぱいなどと自分で自分を誤魔化さず、こちらの契約書にサインを一つ頂ければ、葡萄を手に入れるお手伝いをして差し上げる事ができます。どうでしょう? いかがでしょう? ご検討頂けませんか」
羊皮紙の契約書をヘッテルギウス氏は、どこからともなく取り出します。
「契約? どんな契約だ?」
半分だけキツネは振り向きます。
「勿論、葡萄を取る契約でございますよ。このヘッテルギウスが、悪魔の翼を使い葡萄を取って来る代わりに」
「うむ」
「魂の半分を頂きます」
「魂だって!?」
「あの葡萄は間違いなく甘い。あの葡萄は、鳥も栗鼠も鼬も食べているものです。あの葡萄を食べない森の動物など、あなただけです。食べるのが当たり前、食べなければおかしいものなのです。目先の対価が多いだの少ないだの、損得勘定ではないのです」
「馬鹿らしい、自分の魂より大事なものなんてありゃしないよ」
キツネは歩き始めます。
「いや、キツネさん、それだと、あなたはただ、葡萄を手に入れるだけの力がないから、意固地になって否定する惨めな獣なんですよ?」
「あの葡萄は甘いんだろうさ。どんなに惨めだと陰口を叩かれたって、魂を失う程辛い事じゃあないさ」
キツネは走り出します。
「それに、明日、鳥が捕れないって、誰が決めたんだい?」
「イリュミッシュコーヒー!」
地獄の四丁目のバーで、ヘッテルギウス氏は何杯目かのカクテルを注文する。
「お疲れですね」
バーテンダーのニスシチは、泡立てた脂を浮かせたカクテルの入ったグラスを差し出す。
ヘッテルギウス氏はそれを一口飲んで、溜息を付く。
「人間なら、人間なら取引に応じてたんだよ。あいつらは、見栄張りで鼻が利かなくて悪魔の言う事にすぐに流されるからな。だが動物はどうもダメだ、はしこくて、きっちりと正直に臆病なものだから、自分の魂が大事だって事に気付いてしまう」
「残念でしたね」
「どって事ないさ」
ヘッテルギウス氏は、ナッツを大きな音を立てて噛み砕いた。
「どうせ獣の魂なんてのは、小さすぎて箱詰めするのが面倒なんだ!」
ニスシチは、無言でヘッテルギウス氏の皿にナッツを足した。
【完】