『Nの錯綜』
魔法陣から地獄の業火共に、悪魔のヘッテルギウス氏が現れる。
「我を喚び出したのは貴様か?」
営業用のいかめしい顔と声で、ヘッテルギウス氏は黒いフードをかぶった術者を見下ろす。
「はい」
術者はフードを引き上げる。
切れ長の目、通った鼻筋、染み一つない肌、完璧なまでに調和の取れた美しい男だった。
「悪魔男爵ヘッテルギウス様、あなた様は相応の対価と引き替えに願いを叶えて下さるとか」
「うむ」
ヘッテルギウス氏の周りでは、未だに地獄の業火が燃えさかっている。
「松、竹、梅の三コースがあり、それぞれの対価基準はこちらだ」
ヘッテルギウス氏が指を鳴らすと、壁の隙間という隙間から百足や蜘蛛やハサミムシ等の地を這う虫が表れ、己の身で説明の文章を形作る。
「松は何でも願う事が可能である。最低でも人間にして一〇〇万人程度の魂が対価に必要だな。竹も基本的に何でも可能であるが、天使に咎められるような願いの場合は対象外となる。対価は本人を含む三人程度の魂もしくはこちらに記載された生贄類。最後に梅は、一人の人間が満足出来る程度の願い。対価は人一人分に相当する魂か、重大な盟約、聖遺物や重大な呪物でも可能。詳細は説明を読むのだ」
「でしたら……」
男は説明文を何度も読み直す。
「梅コースで」
「対価は何を差し出す」
「はい。『最も愛するもの』で」
「よろしい、願いを言え。ある程度叶えてやろう。尚、ちょっと待て的な事を願いとカウントするような商法は、当方は行っていないので、常識的な範囲なら質問は可能だ」
「ええと、お願いしたいのは」
男の声は僅かに震えているが、落ち着いてはいる。
「若さと美しさを保ったままの不老不死なんですが、出来ますか?」
「予想VTRを確認するがいい、良ければ契約すると言うのだ!」
ヘッテルギウス氏が再び指を鳴らすと、三色の蚤が無数に現れ、壁に四角い面を作る。
そして、蚤たちは小刻みに動いたり重なったりして、自分の色を出し入れし始める。すると、蚤の集まりはカラー映像に見えはじめる。
「うお……気持ち悪いけど、凄い……」
蚤の画面の中には、男自身の姿が移っていた。
「時間を進めてみるぞ」
ヘッテルギウス氏が言うなり、画面の映像が超早送りになっていく。
木々が葉を落とし、雪に包まれ、葉を付ける。それが紅葉し、また葉を落とす。
年が何巡しても男の姿は老いず、その美しさには一片の翳りもなかった。
「素晴らしい! 是非お願いします!」
ヘッテルギウス氏は煙を残し地獄へ帰って行った。
男はローブの帯に挟んでいたナイフを引き抜く。
それから、自分の指先をほんの少し切る。
血がひとしずく落ちる。
しかし、それだけだった。
瞬く間に血が止まり、傷口はもうどこにもない。
「ふ、ふふ、ふふふふ、ふははははは、本当だ、本当の不老不死になったんだ!」
男は笑い始める。
「あはははは、あははは、やったぞ、ついに、やった! ざまみろ悪魔! 僕の最愛の人は美しい僕自身だ、だが、願いは若さと美しさを保ったままの不老不死だ! 対価を手に入れる事は出来ない、永遠に地獄の釜の中で臍を噛んでいるがいい!」
「フローズン・ダイキル!」
地獄の四丁目のバーのカウンターで、ヘッテルギウス氏は注文をする。
バーテンダーのニスシチは、バー・ブレンダーに手際よく材料とコキュートスの氷塊を放り込む。
「何だか表情が明るいですね」
「目ざといな、マスター」
ヘッテルギウス氏は笑う。
「一つ契約が成立しただけさ。ナルシストの人間が、最愛のものと引き替えに、若さと美しさを保ったまま不老不死を欲しいとさ」
「ナルシストが、ですか?」
ニスシチは、出来上がったシャーベット状のカクテルをヘッテルギウス氏に差し出す。
「それって」
「ああ。気付かないところが、可愛いじゃないか」
ヘッテルギウス氏は、カクテルを自分の顔の高さまで持ち上げる。
「自分が一番愛していたものが、自分自身じゃなくて」
グラスには、ヘッテルギウス氏の顔が歪んで写っている。
「鏡に映った像だって事にね」
【完】