『イザという時支えます』
「――なるほど、お金が欲しい、と、仰るのですね」
悪魔のヘッテルギウス氏は、人間の熟年の女に確認する。
「はい……沢山でなくても良いんです」
女は静かに答える。
「こんな時代です、いつ何が起きるか分かりません。身体が健康ならまだ働けばどうにかなりますが、急病になって、それで年金の支給も遅らされた日には、目も当てられません」
ため息をつく。
「かといって、給料もカットされているこんな時代に蓄えも作れません。うちの役所も、ボーナスを三〇パーセントもカットされたんです」
「……ふむ。一生困らぬ金をお望みでしたら、人間の魂かそれに相当する聖遺物類が前払いで必要になりますが」
「そんな、自分のために誰かを犠牲にするなんて、出来ません」
女は慌てて首を横に振る。
「悪魔さんは、酷いことを仰いますね!」
「一般的な取引なのですがね」
「人の命が必要なような大金はいらないんです。食べる事が出来れば、月三〇万円でも二〇万円だって、良いんです。ですから、人を殺すとか、そういう事はナシにして頂けませんか。あなたにも人の心がお有りでしょう?」
ヘッテルギウス氏は、暫し考えてから軽く手を叩く。
「そうだ、でしたら、こういうのはいかがでしょう」
「なんです?」
ヘッテルギウス氏が手を閉じてから開くと、中からシガレットケースが現れる。蓋を開けると、中には一万円札が入っていた。
「魔法のシガーケースです」
もう一度閉じてから開くと、中身は空になった。
「こいつは、普段は空っぽですが、あなたが怪我や病気で体調を崩した時は、毎日、それに釣り合ったお金が出て来ます。あなたのご要望に一番近いと思いますが」
「ありがとうございます! これで、イザという時も安心です!」
地獄の四丁目のバーに、ヘッテルギウス氏は来ていた。
「ギルティ・ネイル!」
「はい、ただいま」
バーテンダーのニスシチは、どっしりしたグラスにコキュートスで凍った血まみれの大きな釘を入れ、二種類の酒を入れ、ステアする。
「お待たせしました」
「ありがとう」
ヘッテルギウス氏は、酒を一口飲む。
「ふぅ……どこまで話したかな?」
「はい。対価を渋る人間に、『悪魔の慰め箱』を与えたという辺りまで」
「ああ、そうか。はは、少し酔ってるな」
「チェイサー代わりに、何かお作りしましょうか?」
「いやぁ、これ一杯で終わりにするから、いいよ」
笑って、ヘッテルギウス氏は両手でグラスを持つ。
「――その人間、どうなったか分かるかい?」
「治る度に、自分でどこかしらに新しい傷を作り続けている――ので、ございましょう?」
「あれ? 話したっけね」
「ふふ、お忘れですか? 二〇〇年ほど前に、同じ手口で人間を引っ掛けた事、話して下さったじゃありませんか」
「あー、そうだったそうだった。悪魔が悪いなマスター。気付いてたら早く教えてくれよ」
ふたりは笑う。
「後、三回もやれば、自殺と等価な程魂が汚れ切って、天国資格を失うからね。魂はこっちのものさ」
「しかし、困った時の備え欲しさに、困った状態に自らなるとは、人間というのは……」
「はは、天使なんかよりずっと、親近感が湧くだろう?」
【完】