『泉のヘッテルギウス氏』
どぼん!
木こりがひときわ大きな樹木を切ろうとしたところ、手が滑って後ろにあった泉に斧を落としてしまいました。
「あああ、なんということだ。斧がなければ仕事ができない、飢え死にしてしまう! かといって、こんな底の見えない沼に潜って生きて戻れるか!」
木こりが泉を覗いて嘆き悲しんでいると。
「お困りですね?」
硫黄の煙と共に、悪魔のヘッテルギウス氏が現れました。道化師のような服を着て、唇から僅かに尖った牙が見える事以外は普通の人間とかわりません。
「あ、悪魔!?」
「怖がらなくても良いです。あなたを助けて差し上げようというのです」
ヘッテルギウス氏の手には、いつの間にか斧がありました。
片方は金の斧、もう片方は銀の斧です。無垢の地金から出来ているようで、売り払えば同じ重さの金貨と銀貨に、好事家だったらもう二倍は付けるでしょう。
「さあ、謎かけです」
「え?」
「あなたが落とした斧は、どちらでしょう?」
木こりは考え込みます。
一日働いて、木を売って、一体銀貨の一枚にだってなるでしょうか。
木こりには妻と子供がいます。
飢えさせている訳ではありませんが、腹一杯食べさせられる事なんて祭の時ぐらいのものです。
それでもまだマシな方です。木材の値段が下がれば、たちまち生活は行き詰まります。日々生き延びるだけで蓄えまでは回らないのです。
銀の斧を売れば、そんな心配はしない蓄えができます。
金の斧だったら、ずっと実入りの良い種類の樹の生えた森に引っ越すことだってできるでしょう。
ですが。
「私が落としたのは、鉄の斧です」
ですが、木こりは正直に答えました。
「それでよろしいですか?」
にっこり微笑んで、ヘッテルギウス氏は尋ねます。
「は……はい」
「よろしい」
ヘッテルギウス氏は静かに頷いて、それから、ゆっくりと水に沈んで行きました。
木こりはしばらく水面を眺め、それから、溜息を一つついて帰ろうとした、その時。
水面が再び波立ち、ヘッテルギウス氏が現れました。
「悪魔は言葉と約束を重んじます。あなたの仰った通りのものをお返ししましょう」
ヘッテルギウス氏の手には、鉄の斧がありました。
「あ……ありがとうございます」
金の斧と答えたら、銀の斧と答えたら、どうなっていたのか、そんな事が頭を過ぎります。けれど、鉄の斧を失うところだったものが戻って来るのです。十分に幸運な事です。
「それから」
ヘッテルギウス氏は続けます。
「あなたの正直を讃えて、少しおまけを付けさせて貰いました」
鉄の斧の柄には、一筋の銀の輪がはめてありました。ほんの僅かの銀ですが、銅貨何枚かにはなります。
「ありがとうございます」
木こりは鉄の斧に手を伸ばした時。
「――ダブルアップチャーーーーンス!」
ヘッテルギウス氏は、高らかに叫びました。
【完】