『幸せな人生』
僅かな硫黄の煙と共に、悪魔のヘッテルギウス氏が魔法陣の中に現れる。
「私を喚び出したのは、あなたですか?」
目は光り牙は生え耳こそ尖っているが、スーツを着たその姿は、紳士然としている。
「は……はい」
驚きと怯えの混じった顔で、人間の男は頷く。間に合わせで用意したのか、召喚儀式用のローブが、肩からずり落ちかけている。
「ね……願いを聞、聞け」
男は壁に貼り付く程下がりながらも、精一杯の虚勢を込めて言う。
「取引をご希望ですね」
ヘッテルギウス氏は爽やかに笑う。
「差し出す対価に比例した願いを叶えましょう。比率としては、対価二につき願い一です。例えば、十年の寿命を延ばしてほしければ、他の誰かの寿命を二十年捧げる必要がある、という感覚です。質的に異なるものについては、規定の変換率を用いますのでご了承下さい。変換一覧をご覧になりますか?」
「……私の会社が存続出来るなら……何だって差し出す」
「なるほど、経営再建ですね。失礼、記憶を読み取らせて頂きます」
ヘッテルギウス氏は、男の目をじっと覗き込む。
「ふむ、取引先の大半が新規企業の参入で、あなたの会社との契約を打ち切った、と」
納得した風に、ヘッテルギウス氏は頷く。
「この状況であれば、取引先の社員や責任者の一時的な精神操作で事足りるでしょう。もっとも、その取引先の会社で、同じように悪魔との契約を行っていた場合や、神の奇跡を受けていた場合は、別手法を取る事になりますが」
「それで良い、頼む、すぐにやってくれ」
「対価は何に致しましょう?」
「私の死後の魂で良いだろう!」
「申し訳ありませんが、怨みや復讐ではなくご自身の幸せの為に行う契約の場合、ご自身の魂は対価になりません。後で契約を取り消したいと言われる方が余りに多いので」
ヘッテルギウス氏は手帳を取り出す。
「あなたの最愛の人、であれば、丁度過不足なく釣り合いますが?」
「最愛の……妻、か」
「心配のないように申し上げておきますが、最愛の人が苦しむ訳ではありません。最愛の人と離別するあなたの悲しみや寂しさが、悪魔にとってご馳走になるのです」
地獄の四丁目のバーのカウンターで、ヘッテルギウス氏はカニバリ・ソーダを飲む。
「――感情対価は、まあまあの売り上げでね。まあ、儲けは少ないんだが」
「堅実で良いんじゃないですか?」
バーテンダーのニスシチは、グラスに砂糖を付けスノースタイルにしている。
「その分、労働量が増えるからなぁ」
ヘッテルギウス氏は、グラスに映る地上の様子を見つめる。
妻と幸せに語らう男の姿があった。
「ああ、それが今回の?」
「対価は最愛の人、だよ」
「なるほど」
ニスシチは笑う。
「この人間は妻だと思っていたみたいだがね」
「気づくかどうか、分かりませんね」
「いずれ、気づくんじゃないか?」
ヘッテルギウス氏は、グラスを揺する。
「自分たちの子が、決して生まれて来ないって事に」
氷が音を立てた。
【完】