『死にたい時に死ねる装置』
硫黄の煙と共に現れたのは、スーツ姿のヘッテルギウス氏だった。
きっちりとセットされた髪から僅かに見える角と、口を開けた時にだけ覗く犬歯の他には、人との違いを見出す事は出来ない。
「な……まさ、か、本当に……」
とあるマンションの一室。魔道書を持ったまま、女は立ちすくむ。
「お呼びでしょうか、レディ?」
ヘッテルギウス氏は、恭しくお辞儀をしてから、跪いて女の手を取る。
「あ、あんた……悪魔」
儀式用に置いた蝋燭の明かりが揺らめく。
女の目は怯えながらも、ヘッテルギウス氏から離れない。
「はい。あなた望みを叶える者、ヘッテルギウスでございます」
ヘッテルギウス氏は微笑む。
「さあ、願いをお申し付け下さい。相応の対価さえ戴ければ、如何なるものも叶えて差し上げましょう」
女は息を詰め、唾を呑み込もうとするが、乾いた喉の奥はただこすれただけだった。
「永……永遠の、若さをちょうだい」
「それは致しかねます」
「なんでよ!」
「相応の対価、と申し上げました。あまり大き過ぎる願いは対価の用意が出来ないのではございませんか?」
「対価って」
「人の持つ寿命は、神の作りし魂で決まるもの。それを縮めようとする傷病災害人災天災それらを除く事は、まあまあ手軽に出来ます。けれど、終わる筈の魂を生かすとなれば、次々に器を替え、歪んだ魂を治し、その上で天使の目から逃れ続けなければならない。それに見合うのは、人の重さの魂で一日当たり三つは必要です」
「毎日三人殺せって!?」
「レディ、あなたは何故、永遠の若さを望んだのです?」
ヘッテルギウス氏は電灯のスイッチを入れる。
急に部屋が明るくなる。
「誰だって老いるのは嫌でしょう? 老いてみすぼらしくなって、死にたくなっても自殺も出来ないぐらい弱って、自分が何だかも分からなくなって、死ぬなんて」
「なるほど」
ヘッテルギウス氏は腰かける。
「それなら、お安く済ませられると思いますよ」
「え」
ヘッテルギウス氏は握った手を女の前で開く。
そこには、二ミリ程の大きさのアリが一匹いた。
「アリ?」
「『死告虫』です。触覚を人間の思念を受けられるように加工してあります」
アリは二本の足で立ち上がり、お辞儀のような動作をして見せた。
「これを髪の間に住まわせておけば、あなたが死にたいと思った時に、その思念を察して噛み、毒を注入します」
「思っただけで?」
「はい。例え事故で手足がすっかりもがれても、年老いて首にかけるロープを結ぶ事すらできなくなっても、テロリストに捕らえられ顔の筋肉一つ動かせない程に拘束されていようとも、死にたい、そう明確に考えるだけで死ぬことができます」
「いつでも……」
「対価はあなたの死後の魂一つだけで構いません。触覚をいじるのが少々手間でしたが、死告虫自体は地獄のただの虫ですからね」
「分かったわ」
「ロー・ライフ!」
地獄の四丁目のバーのカウンターで、ヘッテルギウス氏は注文をする。
「ご機嫌ですね」
バーテンダーのニスシチは、バジリスクの卵を割って、白身をシェーカーに入れる。
「死告虫商法が上手く行ったからな。今年度のノルマはこれで達成の目途が付いたってもんだ」
「いつでも死ねると思ったら、安心して逆に死なない、そういう可能性もあった筈ですよね」
カウンターにグラスに入った白濁したカクテルが置かれる。
「『いつでも』!」
ヘッテルギウス氏はそれを一気にあおる。
「ここがポイントさ。固い固い決意がなくても、まあまあの現実味を伴う自殺衝動程度でアレは反応する」
ナッツ虫を二匹まとめて口に入れ、ぽりぽりと噛み砕いてからヘッテルギウス氏がにまあっと笑った。
「日曜日の十九時前、テレビの前にいる日本人のうち、ほんのちょびっとでも、『楽しいハイキング』に出かけたいと思った事のないヤツが、一体どれだけいる?」
【完】